ガキンッ! と弾かれた木刀が、くるりと宙を舞った。


ヒゲのおししょう




暖かい日差しが窓からうっすらと差し込む中、私は柔らかいベッドへと腰を掛けていた。私の手の中に大きく居座るフォニック文字の書物をぺらぺらとめくり、むう、と頭をひっかく。
未だに音素というものは、私の中では理解できない。細胞という物体の代わりに、音素と呼ばれる小さな固まりが私を作っていると理解すればなんとなくは分かるのだけれど、音素を干渉する事で使用する譜術や、原動力とする譜業が中々イコールで結びつかないのだ。

「うむ、むずかしい」

ぱたん、とページを閉じたとき、軽いノックの音がした。入るぞ、という少年ならではのほんのちょっと高い声が聞こえて、私は急いで立ち上がり、「はい」と返事をする。
開いた扉の隙間から窓からはいる光が反射して、ぱっ、と赤い光の輪を作った。

、ヴァン師匠がお見えになった」

扉へと背中を任せた状態で、ルークさんはそれだけ言うと、タカタカと軽い足音と共に、長い後ろ髪をさらさらと揺らせて、すぐさま背中を小さくさせて行ってしまう。よくよく見れば、普段は持ち歩く事のない茶色い木刀のようなものを右手へと携えているのが分かる。(ヴァン、師匠)

急がないと。
閉じた本はそのままに、私も部屋を飛び出した。





ヴァン師匠。ローレライ教団と呼ばれる、預言を順守するために存在する所謂宗教のようなものなのだろうけれど、そこへと属する青年だ。実際のところ、ローレライ教団を守る、神託の盾という組織のお偉いさんなのだそうだけれども、私はあまり詳しく知らない。

飛び出した廊下の先に、ぺこりと一人一人頭を下げるメイドさんの隣を足早に通り抜けて(お返事が出来なくて申し訳ない)屋敷の中央へと構える、丸い形をした庭園へと顔をのぞかせた。
つぼみをつけた小さな花の向こう側に茶色く、ツンツンとした長い髪をくくった、大きな男の人が見える。その隣にはルークさんが、いつもはぎゅっ、と眉間を寄せた顔をしているくせに、どことなく嬉しそうに、口元をほころばせている。

私へと気づいたルークさんは、先ほどまでの顔が嘘のように、またぎゅっ、と眉間に皺を寄せて、「おそい!」と口元だけ文句をいっていた。ヴァン師匠の手前、大きな声を出さないところはルークさんらしい。


目上には、きっちり挨拶を、と口をすっぱくさせるルークさんは、下手をすると母よりも、母らしいのではないか、と時々こっそり考えてしまう。子煩悩の彼女よりも、しっかりした教育ママになりそうだ。
私はこれ以上ルークさんの機嫌を損ねたくはないので、右手をぐーで握りしめ、こほんと、咳を一つさせてもらった後に、私よりも随分大きな影に向かってペコリと頭を下げる。

「お久しぶりです、ヴァン師匠」
「ああ、も。暫く見ない間に大きく…………なったな」
「そ、そこは濁さなくても結構です」


冗談だ、という言葉と共に、大きなヴァン師匠の手のひらが、私の頭をくしゃりと撫でる。なんとなく気持ちのいい感覚に、うっすらと目を細めて、くすりと笑ってしまったけれど、どこか不満げな表情をするルークさんを見て、慌てて一歩下がらせて貰った。申し訳ない。

なんとなく、“父”よりも父らしいと感じるこの青年は、残念ながら成人もしていないらしい。たかだか、ルークさんとの年齢の差は十歳差。長いヒゲと、渋い声と、大人びた態度が、なんとなく勘違いさせてしまうのだけれど、実際はぴちぴちボーイなのだ。ぴちぴちってちょっとアレかな、うん。


「ルーク、きちんと鍛錬していたか?」
「はい!」

ルークさんの剣の師匠であるヴァン師匠は時々こうして屋敷を訪れる。
ぱーっ、と顔を輝かさせるルークさんは、ちょっと可愛いかもしれない。

(さて、挨拶も、済んだし)
戻ろうかな、とヴァン師匠へと頭を下げようとしたときだった。「、何処へ行く気だ」 真っ先に首根っこを掴まれて、「ひうっ」
大変だ、妙な声を出してしまった。

「その、ルーク兄様、放して頂けると」
「何処へ行く気だ」

もう一度、首もとを、ぴんっ
(聞いちゃいないなこの人)

「いえ、私がここにいては、その、稽古の邪魔になりますし」
というか、さっさと部屋に戻って続きを読みたいなぁ、なんて本音半分半分で、眉毛がつり上がったままのルークさんを窺ってみると、さっきよりも、もっともっと不満そうに、ジロリと見られてしまった。
ヴァン師匠へと視線を逃しても、どこか面白そうに口元ににこりと動かしているだけで、どうすればいいのかよく分からない。

「お前はいつもそうだ。部屋にこもってばかりでは腐る」
「く、腐りはしないと、おもいます」
「腐る」
「………(いいきられた)」


じゃあこの人は、どうしろっていうんだ、と首もとを掴まれたまま、ちょっと困ってしまう。聞いていいのだろうか。どうしろというんですかと。それでもやっぱり彼は怒ったような表情で、じろりと私を睨むだけなのかもしれない。



ゆったりとした口調で、ヴァン師匠は、笑いを含んだ声で呟いた。その声で、ルークさんは、はっとしたのか、掴んでいた手のひらを、ぱっ、と開いた。「準備を、してきます」
硬い声のまま、ルークさんは、私の視界の前から消えてしまって、もう戻ってもいいのだろうか、と微笑を保ったままのヴァン師匠を、ちらりと私は窺った。

、ルークはお前に鍛錬に付き合って欲しいのだよ」
「それは、ちょっと無理があります」
「じゃあいい方を変えよう。そこで座って、見ていてもらいたいだけだな」


それはヴァン師匠の勘違いなのではないだろうか、と声を掛ける前に、彼は、ほんの少し、得意げに、口元を開く。「分かるのだよ、兄だからな」

そんなものなのだろうか。
駆け戻るルークさんの姿を目で追いかけて、それじゃあ今日は彼に付き合おうかなとぽつりと呟いたのだった。


「本当に、鍛錬に付き合うか?」
「いえ、ヴァン師匠、それは」
「そうだな、にはあまり適正はなさそうだ」
「………(この人も、いいきった)」






1000のお題 【452 知ったかぶり】




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2008.07.19