■ ガイ視点


閑話1






ルーク少年脱走事件。
ファブレ家の館の中では、使用人たちがこっそりとそう名付けていることを、俺は知っている。外に興味を覚えたルークが、皆が寝静まっているとき、こっそりと館の中から脱走した。簡単に説明すれば、この一言になるのだが、問題は彼が王位継承権を持つ、随分なお貴族様で、ついでにマルクトに連れさられ、記憶喪失になって戻ってきたといういわくつきの嫡男であったことだ。

彼の部屋の警備の担当であった騎士団のものは片っ端からクビになったし、同じく使用人やメイド達のいくらかにも暇が下った。ルークの警護は、より厳しいものとなった。
俺自身はファブレ夫妻から、と共によく息子を見付け出したと褒められはしたが、また別の執事長、メイド長からは、何故様が外に出ると決心なさったときに、自身に報告をしなかったのか、ときついお叱りの言葉を頂いた。

は自分が無理やり俺を脅して、自分から館を飛び出した、と何度も彼らに説明した。もちろん、仕える主のその娘の言葉に反論を食らわす訳にはいかず、執事長たちは、「なるほど。ガイ、お前は本当によくやった」と表面上は褒めはしたが、調子に乗るんじゃないぞとその褒められた倍以上も長く別室に呼び出された。

俺はいくらかの罰則を受けたが、たしかに自身の判断は間違っていたと感じていた。
自身は女性恐怖症であるし、嫌がる彼女を無理やり屋敷に引っ張り返すなどということはできない。目を離した隙に、彼女が消えてしまったかもしれない。言い訳ならいくらでもあるが、それを覆す言葉だって、いくらでもある。
だから俺は甘んじて罰を受けた。とは言っても、いくら賃金が減らされようとも、もともとこの屋敷にいることが目的の俺にはなんの意味もなかったし、時間ばかりが余っているものだから、仕事の拘束時間がいくらでも長くなろうと、少々疲れはするだけで、そこまで気にはならなかった。
ただ、執事長たちからの覚えが悪くなることには、いくらか困った。屋敷を追い出されてしまっては、今もガルディオスの家に仕える、ペールにも申し訳がない。


そんな俺の胸中などまったく知らず、はただ喜んでいた。ガイさんが褒められた、と本当に嬉しそうに笑っていた。
何の事情も知らずに、ほわほわと笑うお嬢様を見て、俺はひどく奇妙な気持ちになった。不快ではなかった。そうではないことが、ひどく困った。ルークの脱走により、騎士団の人員が変更になったことに彼女が気づいたとき、「たしかに彼らはクビにはなったけれど、それは建前上の問題で、きちんと別の仕事を斡旋してもらっている」と嘘の言葉までついて彼女を安心させた。

俺の嘘に、彼女は心底ホッとした顔をして、よかった、と頷いた。ルークさんも見つかって、他の人にはたくさん申し訳なかったけれど、何事もなくって本当によかった。


     そんな訳ない。

マルクトの誘拐であることを警戒し、止められた船の商人たちはファブレ家に怒りを見せていたし、その怒りを抑えるためにと国から払われた金は、結局市民から出ているもので、彼らもまた瞳を釣り上げた。クビになった騎士団やメイド達は今は何をしているかもわからない。

本当にお嬢様なのだな、と笑いそうになってしまった。
けれども俺は、彼女に事実を告げようとは思わなかったし、その彼女のものの知らなさを不愉快だとは思わなかった。彼女はルークを気遣って、また自身の立場を考え、中々屋敷の外に出ようとはしない。知らなくても当然だと言えなくもなかった。
悲しまれるより、何も知らずに笑ってくれている方が、ずっとよかった。


何故俺は、こんなにも彼女の機嫌をとるように、彼女を扱うのか。
この頃俺は、ぐっと背が伸びた。見下ろす彼女の姿は小さくて、俺に視線を合わせようと、ときどき必死に背伸びをしている姿を見ると、何かぎゅっと胸が掴まれそうになった。なんなんだ、と自分自身頭を抱えた。訳がわからない。けれども多分、知っている。小さな頃は、自然に知っていた感情だ。いつしか俺は女性と距離を置くようになり、気づけば人よりもその気持ちに鈍感になっていた。なろうとしていた。

隣にペールの寝息を聞きながら、ベッドの中に潜り込んだ。
考えれば考えるほど、じわじわと認識した。そうして、俺は反対に考えないようにした。だというのに、考えているときよりも、もっと考えるようになってしまった。ペールに申し訳がなかった。ずっと何の文句も言わず、ただの庭職人として、おそらく自身のプライドを押し殺しているであろうこの従者に、心底申し訳がなかった。まさか彼に、事実を伝える訳にはいかなかった。けれども彼は、おそらくその事実に気づいていた。彼は何も言わず、ただの老人のようにうなずき、花に水をやり微笑んだ。

できることならば、力のかぎりに叱って欲しかった。何をしているのだと、心底呆れてほしかった。彼女だけではなく、俺はルークに対してでさえも中途半端な態度を取り続けた。
たとえ従者と言えど、主の間違いを正す必要があると俺は思う。ペールも、その必要を知っているに違いない。けれども彼は俺に何も言わないのだ。


ガイラルディア・ガラン・ガルディオスとして許されない想いだった。
けれどもそれと同じく、ガイ・セシルとしても、これは許されることはなかった。俺はただの一介の使用人で、たとえどれほど俺を対等に扱おうとも、彼女はこの家のお嬢様だ。年が5つも下の小さな女の子に、そんな想いを持つことも、罪悪感があり、これから5年も経てば、この歳の差はなんの問題もなくなるだろう、と心の底で言い訳をする自分を嫌悪した。

なんでこんなことになってしまったんだろう。
ただの一時の感情であることを心底祈った。自分もいわゆる、“いい年”に近づきつつあるし、そういうことに興味を持つ年齢だろう。だからただ、すぐ近くにいる、小さな可愛らしい女の子に興味を持ってしまったのだ。そうであって欲しかった。
そもそも何故、そういう対象として捉える存在として、彼女よりも長く接する同僚のメイド達ではなく、彼女を選んだのか。

あの人に似ている。そんなことはきっかけの一つに過ぎなかった。一つ気づいたら、もう駄目だった。彼女は毎日、少しずつ成長する。ただ小さな可愛らしい女の子から、年頃の女性へと変わっていくのだろう。ふとときどき、手のひらを伸ばしてしまいそうになる。けれども俺は彼女に触ることができなくて、そんな自分に安心した。同時にひどく苦しかった。
     なるほど、これが恋しいという気持ちなのか。

彼女が憎いと感じた。何故教えたと恨み言の一つも叫んでやりたかった。
けれども、そんなことが、できるはずがなかった。
ただ俺は、自身の気持ちの形を変えようと奔走した。結局全部、無駄な努力であった。



     ***



ルークに、反抗期がやって来たらしい。
うーん、とは口元をへの字にして、「どうしたらいいんでしょう、ガイさん」としょんぼり俺に告白した。
ルークが脱走して、その彼を見つけたのがと俺だと気づいたとき、彼はひどく怒った。ばっかりずるい。は外に出れるのに、俺は駄目なんてずるい。随分前からポロポロとこぼしていた不満は、とうとうどかんと爆発してしまったのだ。

彼が記憶を無くして赤ん坊になった年齢から計算すると、反抗期とするには少々早い気がするが、体が既に成長している分、心の方の成長も幾分か早いだろう、というところがファブレ家に来た医者達の言い分だった。

前は気づいたらにくっついていたのに、この頃はつーんと無視されてしまうらしい。そろそろ妹、というか、この場合姉と言えばいいのだろうか。ルークの中で、離れ、妹離れの時期が来たのかな、と俺は軽く考えているのだが、当の本人はといえば、部屋の中でしょぼんと椅子の上に座っている。「……まあ、今はちょっと、へそを曲げているだけさ。大丈夫だ」 気づいたら俺は慰めのセリフを口にしていた。は緑色の瞳をきょとんとさせて、そうですかね、と顔をこくんと頷かせる。

いやいや、違うだろう。
ごほん、と俺は咳をついた。

様が、あまりお気になさる必要はありませんよ」

が、瞳を大きくさせて俺を見た。正直、少しだけ気まずい気持ちになって、俺はふいと視線を逸らした。「あ、あの、ガイさん」「その、何度も言いますが、私のことは呼び捨てになさってください。他のものに示しがつきません」「で、でもその、が、ガイさん、その」

が、あわあわと手のひらを動かす。俺はなんだか可哀想になってきて、眉毛を八の字にさせ、軽くため息をついた。「様、やっぱり考えてみたんですが、俺はあなたのただの使用人です。今までのような言葉遣いを許されていたことの方がおかしいんです」

距離を取ろうと思った。ただの使用人になればいい。そうすれば、きっと自分の中の気持ちも消えるに違いない。
は、うっと一瞬言葉に詰まった。俺の言葉に、そうかもしれない、と頷きそうになった。けれども、彼女は力の限り首を横に振った。「あ、あのでも、二人きりとか、ルークさんがいるときだけですし、大丈夫、大丈夫だと思うんです。が、ガイさんはいいんです。お願いです、そんなこと言わないでください。今まで通り、お話してください」

お願いします、と泣き出しそうな声を出されてしまったら、もう何も言えなくなる。「……そうかい?」 俺は首を傾げて彼女を見た。彼女は力の限りぶんぶんと首を縦に振った。「じゃあ、お言葉に甘えようかな」 彼女はパッと笑った。こんな風に、簡単に折れてしまう自分が情けなかった。けれども、嬉しげに頬を緩める彼女を見て、また俺も嬉しくなった。
今までのように話してくれと頼む彼女が嬉しかった。


彼女のことが、好きで、好きで、可愛らしくて仕方がない。
けれども、そう思う自分が許せなくて、たまらなかった。






BACK TOP NEXT


2012.02.21
1000のお題【698 緩衝材との長きに渡る戦い】