ぐちゃぐちゃと飛び散る油に、「ひゃっ」と体を縮こめた。「こいつ、やりづらい〜!」 えいや! とアニスさんが巨大化させた背中のぬいぐるみに飛び乗りパンチをかます。ぐっちゃりと手のひらにくっついた油を見て、「もおー!!」 さいっあく! と叫びながら、ぐるんとぬいぐるみを旋回させた。「その大きいの、邪魔ですわ!」「なによお! そっちこそちょこまかしてんじゃないっつーの!」

「どうやら体中に付着した油が、体を保護する役も兼ねているようですね」
「ああ、下はただの馬鹿でかいクモか何かみたいだな」

すとんと器用に体をひねらせて、敵の一撃を避けたジェイドさんに対して、一瞬のうちに二刀振りかざしたガイさんが頷く。べたりと剣を汚す油を見て、「こりゃたまらんね」と肩をすくめた。「対してこいらのチームワークは     

「ティア、もう少しまともに援護なさい!」
「あなたも無闇矢鱈に前に出ないで」
「あーもー! おめーらギャーギャーうるせー!!!」


「最悪、というところですかねえ」 まったくもっておもしろい、と口元を軽く上げるジェイドさんに、ガイさんは苦笑した。

私はと言えば、最初こそ、うそっこの譜術で魔物を押し付けるように風の音素を扱っていたものの、すぐさまその無意味さに気づいた。私の風はただの風で、タービュランスでもなんでもない。
ほんの少し勢いが薄れるという程度のその影響では、寧ろガイさん達の邪魔にならないように逃げまわる方がずっとましだ。

私は何度もジャンプを繰り返して、どきどき痛くなる心臓をごまかす。こてん、と床に転がって、あわあわ両手を振りながら、ぷちりと魔物に踏まれてしまいそうだったミュウに必死に手を伸ばしてて、ぎゅっと抱きしめた。「大丈夫!?」「はいですの、ありがとうございますですのー!」

思わず足を止めてしまったことがいけなかった。あっと気がついたときには、ヘドロと油がまとわりついた長い足が、ずんとこちらに振り下ろされた。「みゅううっ!」 勢い良くミュウが吐き出した炎に、一瞬魔物の足が止まった。滑りこむように私は攻撃を避けて、ミュウを抱きしめながら床の上に体を打ち付けた。「     ! 聞こえますか!」「は、はい!」

ジェイドさんの声だ。さん、さん大丈夫ですの、と私の頬をぺちぺちと心配気に叩くミュウに、大丈夫、と頷いて、大声をあげて立ち上がる。

「きこえてます、ジェイドさん!」
「それなら結構。こいつは少々厄介な様子でしてね。あなたは水と風、両方の音素を同時に扱えますね」
「あの、いえ、その」

どうしよう、と唸った。けれどもすぐに頷いた。「はい!」「よろしい。私たちはこいつに直接打撃を与えることに専念します。あなたはその得意の譜術で油をそぎ落としなさい」 私のそれは譜術なんかじゃない。それにそぎ落とすと言われても、と勝手に泣き出しそうになる自分に喝をいれて、「     はいっ!」 と力の限りに返事をした。半分へっぴり腰で、声だってひっくり返ってしまっている。カッコ悪いことこの上ない。

もふもふと温かいミュウをぎゅうっと抱きしめて、がんばれ、がんばれ、と自分自身に話しかけた。「いいですか。魔物ではなく、あくまでその表面をコーティングしている油のみ、そして私達を避け、風の音素でけずり、水で押し流しなさい。さきほど見させて頂いたあなたの器用さなら、問題なくできるでしょう」「が、がんばります!」

頑張るではなく、確実にこなしていただきたいところですね、と付け足された台詞に、「はいっ!」と私は力いっぱいに頷いた。ジェイドさんはほんの少し意外気に私を振り返った。けれども即座に槍を振り回し、襲い来る刃に向かう。

私はきゅっと瞳を閉じた。けれどもいけない、とすぐさま顔を上げて、魔物と相対する。ちゃんと見ないといけない。しっかりと、彼らの動きをこの目にとどめて、音素を操らないといけない。
(実践だ)

ナタリアさんや、家庭教師がいる前で譜術の練習をするのとでは訳が違う。適当な詠唱を考える間なんてなかった。「さん」 僕もいますの、とぴこぴこ耳を揺らして、ぺとりと私の肩に手のひらを置くチーグルを、私はほんの少し瞳を大きくして見下ろした。「だから、大丈夫ですの」「……うんっ!」

口から吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。ふわりと自身の赤毛が舞う。絞り出した音素が、ぽつぽつと水に変わっていく。
「い、いきます……!」

     風と水が、くるりと螺旋を作り、ねじ切れた。



   ***




「はー……」と気づけば私はその場にへたり込んでいた。
ぽたぽたと汗が出るのは、こんなに長時間、音素を使い続けていたのは初めてだからだ。「やりましたのね、さん!」と私の肩に手を置いて、ふりふりとおしりをふるミュウに、うん、と頷いた。
音素暴走の突然変異により巨大化したらしい、元はただのクモの魔物だったらしい魔物は、がくりと地に膝をついて、体の節々から静かに音素化し、光の粒となり消えていく。
未だにドキドキと早鐘をうつ心臓は、やりきったという高揚感からだ。頬が妙に熱い。ちゃんとできたんだ、と考えると、嬉しかった。

、怪我はないか!」

慌ててこちらに駆けつけるガイさんを見上げて、私はぽんやりとしていた気持ちをこっちに戻して、ぱちぱちと瞬いた。

「あの……?」
、どこか怪我をなさいまして!?」

第七音素で治しますわ、とてのひらをかざそうとするナタリアさんに、「え、いえ、全然。擦り傷がちょっとあるくらいです」 そんな治癒術を使うほどじゃありません、とビックリ半分首を振ると、きょとんとした顔のナタリアさんが、「なんですか。ガイが騒ぐものだから慌ててしまったではありませんか」 まったくもう。とナタリアさんはぷんと頬をふくらませながら、腰に手のひらを置いた。

ガイさんは困ったように後ずさって、「いや」と首を振った。「も。なんともないのでしたら、さっさと立ち上がりなさい!」「は、はい!」 ごめんなさい! とミュウを地面において、びしりと私は立ち上がった。

ぷんぷんと他の人たちの治療にと消えていったナタリアさんを目で追って、私とガイさんはお互い二人で立ちすくんだ。ぱちり、と目が合うと、彼は困ったような顔をした。「その、本当に、どこも怪我は?」「はい、あの、大丈夫です」 ガイさんは、と問いかけると、俺もとくには、と首を振った。

なんだか妙な間だった。「、顔に油が」「えっ」 ガイさんが、ひょいと私に手を延そうとした。けれどもすぐに中途半端な場所で止まって、ぎゅっと拳を握った。私は体を硬くして彼を見上げた。そのまま私に背を向けて、これからどうするかと話し合う彼らに顔を出す。

私は一人で頬の油を拭った。それから、私とガイさんの間で、きょときょとと視線を動かしていたミュウの頭を撫でて、ひょいとその子を持ち上げながら、ぱたぱたと彼らの後ろへ走った。


   ***


あと少しというところだろう。油ばかりの匂いが、少しずつ湿気をおびた水っぽい匂いに変わっていく。音素を使いすぎたせいか疲れた体で息を繰り返して、私はぱたぱたと歩いて、早歩きをしてと繰り返した。丁度、一番後ろにいたアニスさんが、ひょいと私を見上げて、涼しい顔のまま、「様、疲れちゃったんですかあ? 様って温室育ちのお嬢様ぁって感じですもんねー」

私、あこがれちゃうなー、とほんの少しあがる語尾の嫌味に気づかないほど、馬鹿ではないと思う。私はほんの少し笑って、曖昧に返事をした。凹む気持ちだってたくさんあるけれど、なんというか、彼女は事実ばかりを口にするから、実はちょっとだけ清々しい。
迷惑をかけているということは、とっくの昔にわかっている。だからそのことに対して怒ってくれることは、ありがたかった。けれどもそんなことを考えてること自体がまた迷惑なような気がするしで、やっぱり笑って返事をすることしかできないのだ。

ふんふん、と口笛を吹く小さな彼女を見下ろしていると、ん? と私は首を傾げた。「アニスさん、油、ついてますよ」 さっきのガイさんと同じような台詞でちょんちょん、と私は自分のほっぺを指さした。「ええー」とアニスさんは眉を潜めて、ぐしぐしと手でぬぐおうとするものだから、「待ってくださいね」とポケットから取り出したハンカチで、ぷにぷにとアニスさんの頬を拭き取る。

「ちょ、さま!」
「あ、嫌でしたか?」
「そうじゃなくて、何ですかそのたっかそーなハンカチ!」
「えっ」

そんなの使うだなんて、何考えてんの!? とものすごい剣幕で怒られてしまった。びっくりした。「あの、え、ご、ごめんなさい」 うまい返答もできないままあうあうし続けていると、「うんもーっ!」 牛のように怒られた。

「これ一枚で何ガルドすると思ってるんですか! こんなとこで汚しちゃうくらいだったなら私にください! 何倍の値段で売ってきてあげるから!」
「う、売っ!?」
「私はその5分の4くらいもらえればいいですから〜!!」
「えっ、は、そうですか」

それってもう大半だよね、と突っ込む気力がちょっと失せた。「もーやってらんなーい」とぷんぷんするアニスさんを見下ろして、そういえば、と思い出した。
さきほど廃工場の中を歩いている途中、ちりんと落とされたガルドを即座に足の裏で踏んで捕獲する彼女を見てしまったような、やっぱりそれは気のせいであって欲しいような。「……アニスさんって、お金好きなんです?」「だ〜いすきですっ! ……ハッ」
ほっぺたに両指をちょんとさせて体を曲げつつ、無意識の自身の返事にぱちぱちと瞬きを繰り返している。

「よくわかりませんが、アニスさんって清々しい人ですねえ」

お金は確かに大切である。
ファブレ家の子として二度目の生を受けてから、何不自由なく暮らしてきた私からすれば、嫌味のようになってしまうかもしれない言葉だけれども、きっとそう間違ってはいないはずだ。お金はたくさんありすぎて困ることもあるけれども、ないよりもあるにこしたことはない。
こんなことを口にすれば、質素倹約を表とするローレライ教団には怒られてしまうかもしれないなあ、と思ったら、そもそも目の前の女の子が教団員であった。なんとも不思議な気持ちだ。

アニスさんは、妙にじっとりとした顔つきで私を見上げた。「様って」「はい?」「なんかちょっと、心持ちぼけぼけしてますねえ」「はあ……」 怒った方がいいシーンだろうか。

ルーク様の妹ってきいて、色々と想像してたんだけどなあ、とつんつんとおでこに指を当てる彼女は、「まあいっか」と頷いた。「様、ちょっとっちょっと」「はい?」「私、ルーク様のお嫁さんになりたいんです」「はぶっ!?」 唐突なカミングアウトであった。

アニスさんのこしょこしょ話に耳をよせて、「えっ、あの、そうでしたか、は」とコクコク一人で頷く。ちょっと年齢差があるかもしれないが、あと数年すればそれも問題はなくなるはず? と首を傾げて、いやそういう問題だろうか、と一人混乱を繰り返した。(いやいやナタリアさんが、ルークさんにはナタリアさんがいるし!)

確かにルークさんが記憶を失ってからというもの、少し変わってしまったが、それでも彼らは婚約者同士なのである。けれども人様の色恋沙汰に口を出してもいいのかどうかと一人おろおろと首を振っていると、「私もう、ルーク様(のお金)がだいすきでぇ!」 間に何か小さな台詞が入ったような気がしたけどもそこは気のせいにすることにした。

「だから様、私とルーク様がうまくいくように、手伝ってくださ〜い!」

妹さんの助けがあれば、百人力でーす! とほっぺたに指をのせる彼女を見ながら、
「あの、その、えっと。あの、申し訳ないのですが、それは当人同士でお話し合いした方がいいようなと私は」
「そこをなんとかー! さまあー!」
「むむっ、むりです、ごめんなさい、ご、ごめんなさいー!」
「あーもーおまえらうるっせえぞ! 静かにしろ!!」

ひぎゃっ、とルークさんに怒られた。「はあい! ルークさまあ!」と語尾にハートをつけたアニスさんは、ぱたぱたとルークさんの元に向かい、思いっきりに抱きついた。あ、アグレッシブ! と私は一人拳を握った。攻めのアニスさんだった。
そんなアニスさんを相手にして、てめえはなせ! とルークさんは悲鳴をあげているし、ナタリアさんと、なぜだかティアさんまで冷たい瞳でルークさんを見つめている。
「ルーク、もてもてだあ」とガイさんは他人ごとに笑っているし、ジェイドさんは我関せずとメガネをなおしながら「こっちですねえ」と風の匂いをかいで出口を探していた。ついでにルークさんに相手をして欲しいミュウが、ぐるぐると彼らの足元を回っている。カオスであった。

(本当に、大丈夫なんだろうか……)

ヴァン師匠とか、六神将がどうとか、イオン様がうんぬんとか。
そんなことよりも、そもそも別のことに不安を感じて仕方がない、と気づいてはいけない事実に気付き、私は一人きりきりと胃を押さえた。





長いはしごを下りて、やっとこさ廃工場を抜けたはずが、どうやら外は雨が降っていたらしい。
道理で水の匂いばかりが入り口にあふれていたはずだ。ぽちゃぽちゃとこぼれた白い線の中に、「ひゃー」とアニスさんが足を踏み出した。「やっと外かよ」 つーか雨かよ、かったりー、と腕を伸ばすルークさんの隣で、ガイさんが額を拭う。

、ちょっと待て、タオルを持ってる。頭にかぶせば少しは雨が」
「……ガイ、おめーはの世話女房かなんかか?」
「い、いや、他の女性陣の分もちゃんとあるぞ!?」

ほら、と投げ渡されたタオルを、「ありがとうございます」と慌てて両手を伸ばして受け止めた。俺は知らないぞ。そう言ったはずなのに、気づいたらまたガイさんのお世話になっていて、これじゃあなんだかおかしい、ともふもふとタオルに顔を埋めた。本当なら、私がガイさんのお世話をしたくて、でもそれはガイさんが困ってしまうからできなくて、だったらせめて迷惑をかけないように、そうしなきゃダメなのに。

(……ダメなのに)
本当のことをいうと、あのときジェイドさんがクモの油を削れと声をかけてくれたとき、ひどく嬉しかった。私でも何かできることがあるのだと思った。(でもきっと、別に私がいなくても、なんとかなったんだろな) 一番効率がいいからそうした。それだけなんだろう。(わかってたつもりなんだけどな)

私一人でもかっこよくガイさんを守って、戦って、「大丈夫でしたか?」となんてこともないみたいに胸をはって振り返る。そんな想像をちょっとだけしてしまった。
でも本当はその反対で、ガイさんは私の前にいて、ときどきこっちを振り返って私は彼の邪魔ばかりをしていた。

(……なんなんだろ)

タオルを頭にかぶせて、私はぽてぽてとぬかるんだ道を歩く。「……おい、あれは……」 ガイさんが、小さな声を出した。ふと私は顔を上げた。遠くに煙がのぼっている。白く、薄い煙だ。「…………船?」 ナタリアさんが口元に手のひらを当てた。ハッとして全員が顔を見合わせた。

少しずつ、足の動きが早くなる。早歩きから、駆け出すみたいに腕を振った。私は彼らの一番最後で必死に走った。ガイさんから渡されたタオルを落としそうになってしまって、拾って、走って、こけた。それからまた走った。(出港する……!)

船の音が響く。たくさんの神託の盾の兵達ががしゃがしゃと鎧をならして歩いていた。

「イオンを、返せーーーーーーー!!!!!」


ルークさんが、腰の剣を勢い良く抜き放ち、薙いだ。ように見えた。私は力いっぱい走って、へとへとになって、彼らに近づいた。「ルーク!」 ガイさんが叫ぶ声がする。刃がぶつかる音が響く。雨に濡れて邪魔になる視界を拭った。(赤毛……) 私と同じ赤毛の人がいる。(ルークさんじゃない)わからない。

ガイさんが駆けつける前に、彼らは即座に船の中に飛び乗った。私はまたこけた。立ち上がったそのときには、船は港から出港して、ずんずんと距離ばかりを開いていく。
頬の泥を拭った。「ジェイドさん、その」 ジェイドさんは、じっとその様子を見つめていた。ぼんやりと港に立ち尽くして、がしゃりと剣を落とすルークさんの背を、じっと見つめていた。「……なんですか? 」「あ、いえ」

ルークさんの背中に駆け寄るガイさんの姿が見える。
私はジェイドさんを見上げた。「導師イオンは……」「六神将に連れ去れられたようですね」 手遅れだったということです。と首筋を雨で濡らしながら、彼は淡々と言葉を呟いた。

ひどい雨だった。






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2012/12/04