手の中のナイフを見つめた。皮の鞘に包まれたそれを静かにこする。ガイさんがくれた。
そのことに少しうれしくなって、そんな自分に落ち込む。
私はこのナイフを、使うときが来るのだろうか。



   ***



「あの、ルークさん、本当に大丈夫なんですか?」
ずんずんと歩を進めるルークさんの後ろをまとわりつくように悪いた。貰ったばかりのナイフを落とさないように抱え込んで、人混みの中をくぐり抜ける。「ひぎゃ」 ぶつかった。

     はやくヴァン師匠のあとを追わなければいけない。

そう繰り返す彼が不安だった。「ふわ」 鼻っ柱が誰かの背中にぶつけった。今度は怒鳴られた。ごめんなさい、と頭を下げてくるくると人混みを泳いでいく。「る、ルークさ」「うるせえ」 ぴしゃりと言葉を切られた。
「おいルーク」 ガイさんがため息みたいな声を出して、「気持ちは分かるがな。落ち着けよ。走ったところで、5分と変わらねえさ」

言われなくても、きっとわかっている。やすいよ、やすいよ。是非買っていってくれ。ああどうしようか、一つおくれ。バザーの熱気がこちらまで伝わる。「     うるせえよ!」
やれやれ、とガイさんが肩をすくめている。

「ちょっと、待ってくださいよお、ルークさまあ! ……まじ、きいてねーし……お坊ちゃんかよ…」
ぼそりと呟くアニスさんの声が低い。目が合った。「……え? なんですかあ?」 にっぱり、微笑む可愛らしい笑みに、思わず曖昧に頷く。イオン様を囲むように、アニスさんとティアさん。ナタリアさんも駆け足ながら追いかけてきてくれて、ジェイドさんはと言えば置いてけぼりをくらったミュウの首根っこをつまみながらゆったりと歩いている。てんでバラバラだ。「みゅっ、みゅ〜〜! ご、ご主人様と一緒に行くんですのー!」



出港の準備ができた。領事館からの使いの伝言があったのは、少し前のことだ。その言葉を聞いた瞬間、ルークさんはベッドから飛び起きた。使いの人でさえもビックリするくらいに素早く駆け抜けて、「さっさとしろ」と私達を叱咤した。

(あんまり、よくない気がする)
そう思っているのは、私だけではないと思う。ときおり、ガイさんと目が合った。困ったやつだな、とでも言う風に苦笑する彼に安心した。ガイさんがいて、本当によかった、と思うのに、私は彼の仕事を増やしてばかりだ。それどころか彼や、ルークさん達にも危険が迫っているかもしれないのに、頼ってばかりいる場合じゃない。


「ぼさっとしてんなよ!」
領事館の前では、すっかりご立腹の顔でルークさんが地団駄を踏んでいる。息が荒い。精一杯走ったつもりだったけれど、気づけばナタリアさん達に追いつかれていた。私よりもイオン様がひどく苦しげなことが気になった。彼の背中をアニスさんが撫でてすっかりへたり込んでしまっている。そんなことにも気づかないで、ルークさんは門塀の人に、「さっさと出せよ! 師匠に追いつけなくなっちまう!」 これはよくない。
絶対によくない。

「る、ルークさん!」 自分の中では精一杯に叫んだつもりだった。なのに声が枯れて、うまく声が出ない。なんで、彼はこんなにもヴァン師匠に追いつくことに躍起になっているんだろう。戦争を回避するために。それはもちろんだ。でも何かしっくりとこない。

     なんで、ヴァン師匠だけ、先遣隊を連れて出ていったのだろう

考えてみれば不思議だ。二手に分かれて囮となるためだと聞いた。結局それは意味もなく六神将達にはすっかりとばれてしまったわけだけれど、ケセドニアに向かうことは成功している。だったら、ヴァン師匠とここで合流したっていいはずだ。あくまでも今回の戦争回避には、王位継承権を持つルークさんが行くことが必要であるときいている。なのになぜ、彼らはルークさんを待たずに先々とアクゼリュスに向かったのだろう。

とは言っても、多くの兵士達を逗留させるには自治の問題で難しかったのかもしれないし、キムラスカの兵がマルクトの自治体であるアクゼリュスの救出へと手を貸したという事実だけでも同盟の架け橋になるのかもしれない。でも、こちらの安否の確認だって十分にできていないはずなのに。

まるでこちら側のことを、知っているみたいだ。私達以上に。

うがっているのだろうか。奇妙な夢を見てからというもの、どうしてもよくない方へと考えてしまう。怪しんでしまっている。
足元を見ながら考え込んでいる間に、門塀の人たちが突然駆けつけたルークさん達に困惑しながらも扉を開けた。前に一度来たことがあるし、中の人間にも確認を取ったのだろう。その間にも、おせえ、おせえ、とルークさんは駄々をこねている。「おい、ルーク」 さすがのガイさんも、少し言葉尻が重い。まあでも、しょうがねえな、と言う風にすぐさま肩をすくめた。いつものガイさんだ。そのまま彼は床にうずくまった。

あんまりにもいきなりなことで、私はパチクリと瞬きをして彼の背中を見つめた。
それはルークさんも同じだろう。さきほどまでの駄々もすっかりどこかに消えて、困惑した顔でガイさんを見下ろしている。「……お、おい、ガイ……?」 伸ばした手のひらが弾かれた。こんなこと初めてだ。違う、ルークさんは知らない。初めてじゃない。何年も前はそうだった。「ガイさん!」 乱れた息も忘れて、階段を駆け上った。

ひどい脂汗だ。大丈夫ですか、と近づきたいのに、それをしてはいけないことくらい分かる。私はガイさんからもらったナイフを抱きしめて、オロオロと彼の周りで視線を迷わせるくらいで、何もできない。それこそナタリアさんやティアさんのように、第七音譜術士でもなんでもない。「……おや、これは」 気づけばジェイドさんがガイさんの首元を覗きこんでいる。「これは、カースロットですね。シンクに傷つけられた箇所ですか」「……そうだな……」

さきほどよりも、幾分か顔色がいい。こちらを向いて、ひらひら、と彼は片手を振っている。カースロット。聞いたことのない言葉だ。「人間のフォンスロットへ施す、ダアト式譜術の一つです……」「ダアト式譜術?」 とにかく、何らかの術をかけられてしまった。そのことは分かる。イオン様が硬い表情でガイさんに声をかける。「脳細胞から情報を読み取り、そこに刻まれた記憶を利用して人を操るのですが……」

「お、おい……」

大丈夫か、と問いかけてしまいたいのに、何を言えばいいのか分からない。そんな顔をしてルークさんがガイさんの横をくるくると回っている。弾かれた手のひらを、ふと、ガイさんが見つめた。「……ああ」 問題ねえさ、と言いながら苦い笑みを浮かべた。「も、問題ないって……」 ふつりと、声が溢れた。

「なんで、こんなときまで……!!!」



***


「……様も大きな声って出せるんですねえー……。あたし、てっきりお嬢様はそういうのは無理なのかと。どっかの誰かと違って」
「……そうですわね。幼いころから知っていますが、わたくしも初めて聞きましたわ。ところでどこかの誰かってどちらの方なのかしら?」

ウフフ? と笑いながら互いを牽制する女性陣の間で、ただただ、俺は一人気まずく空を仰ぎ見ていた。に怒鳴られた。(カースロットねえ……) やっかいなものをつけてくれたものだ、とあの緑髪の少年を思い出した。常に仮面で顔を隠している理由には、ある程度察しがついた。こぼれた仮面の中身を見たのは、おそらく自身だけだ。そのおまけなのだろうか。

水を分け入って進んでいく。潮風が頬をかすめて空の上は楽しげに鳥がはためいて去っていく。これがただの旅行であったのなら、今よりも随分明るい気持ちで旅をすることができたのだろう。とはいっても、そうはいかない。


     なんで、こんなときまで

彼女は一体、何を言おうとしたのだろうか。自分自身の大声に、一番驚いたのは彼女だったらしい。真っ赤な顔をして、息を荒くさせた後、集まる視線に気づき、また違う意味で顔を赤くさせた。それから顔を歪めて、『本当に、大丈夫なんですか。お医者様に見ていただいた方がいいんじゃないでしょうか!』

医者に様付けをする彼女の姿を見ると、半分やせ我慢していた気持ちが、どこかに吹っ飛んでいきそうだった。腹の中では黒々しい気持ちが溢れて、うずくまっていた。その中でも、いくつかこぼれたように聞こえた言葉に、これはよくない、と気づいていた。『脳細胞』から情報を読み取り、そこに刻まれた『記憶』を利用して『人を操る』

なんとか、自分の中で折り合いがついている。そう思っていたはずだ。復讐のためにと屋敷の中に入り込んで、ペールには悪いことだが、意外なことにも使用人であることが性に合っていることに気づいてしまった。ときおりやっかみからのストレスを感じるが、適度なものだ。いつまでだかわからないが、きっとずるずると自分はこのままこの屋敷にいついていくのだろう。そう思っていたはずなのに。

ルークの手のひらを叩いた瞬間、そんなことは忘れていた。このままではまずい。そう気づいて、さっさと出港することを提案した。有り難いことにも、術者     あの、シンクという少年     から離れれば、それだけ術の効力も落ちるという話もあった。とにかく無理にでも彼らを船に詰め込み、これ以上話が深掘りされないうちに終わらせる。そのことに躍起になった。

船の柵に持たれかけながら、青い空。白い雲と見上げて、何度目かのため息をついた。さすがにいつまでも現実から逃避している場合ではない。ノックを繰り返した。陸に上陸するにはまだまだ時間がある。「はい」 ついついいつもの癖で、辺りを見回した。そうしたあとで、ここには目ざとい執事も、噂好きのメイドもどこにもいないことを思い出して、こほん、と息をつきながら、「……? 失礼するよ」

ガイさん、と聞こえた声は明るいのに、次見た瞬間には必死で頬を膨らませているがいた。ぷい、と視線まで逸らされる。
船室の中は、案外広い。短い時間ではあるが、いくつか各自の部屋も分けられた。はうまい具合にあまりが出て、一人きりで小さな椅子に座って不満げに壁を見つめている。
ゆらゆら、とときおり波に揺らされた。それでもさすがは貿易が命のケセドニアの船だ。おそらく大規模な音機関も積まれ、その分騒音も少なくなっているのだろうと考えたらそわそわしてきたが、それはさておき。

「……? いい加減、機嫌を直してくれないか?」
「……別に、怒ってはいません」

ぽつり、と呟く。「納得が、いっていないだけです」 それは一体、怒っているとどう違うのか。
ううん、と頭を悩ませた。いつもはプンスカ拗ねるルークに、が機嫌をとる。その流ればかりなのに、こんなお嬢様はめったにない。一体、彼女がへそを曲げる話が、一体全体どこにあったのだろう? ケセドニアにつき、ルークが倒れたりやら、自分のカースロットやら、騒動が続いた。その分、出発の時間はある程度は遅れてしまったが、まさかそのことに対して不満を持っているわけでもないだろう。

ううん、と考えて、実はある程度わかっていることもある。ただ、そうだったらいいな、と考えて、もし違っていたときの自分のダメージを天秤で比べているのだ。
は暫く自分の指先をいじって、足元を見つめていた。ピタリとその動きが止まったと思うと、唐突に立ち上がった。「……ん?」 よいしょ、と声が出そうなくらいに大仰な動作で椅子を持ち上げて、ずんずんとこっちに進んでくる。「……ん? ん? んおおおお!!!!??」 くっつかれるかと思った。驚いた。

「ガイさん、座ってください」
お願いです、と言いながら、椅子の背をこちらに押してくる。「……いやいや、まさかそんな。お嬢様を差し置いて」「座ってください!」「ま、まったく聞いていないな……?」 今日はとても押しが強いな?

「悪いけど、女性を差し置いてっていうのはちょっとね」

気持ちは頂いとく、と笑うと、彼女は困ったようにこちらを見つめた。やっとこさ拗ねた顔が取れてきた。「……ガイさんは、病気なんて、されたこと、あんまりないじゃないですか」「うん」 これは病気でもなんでもないが、それはさておき。「だから、その」 椅子の背を握りしめる。彼女の小さな頭を撫でてしまいたくなった。不安にさせたのだ。

「イオン様に、治療していただけないんでしょうか」

絞り出したような声だった。ダアト式譜術と言えば、彼がその十八番だ。本来ならば気安く頼み事をする位ではないが、彼ならば了承してくれるだろう。「大丈夫だって。ケセドニアを離れたからかな。もうすっかりなんだ」 事実だ。ただ、これ以上、俺自身の記憶が明るみになってホドの記憶が呼び出されることは避けたかった。そのとき、俺はどうするのだろう。すっかり忘れて、親友だと思っていたルークの手のひらをひっぱたいた。それなら、愛しく思っているこの子のことは?

考えても仕方がない。とにかくの対策は術者から離れることなのだろう。「それに、今はルークがアクゼリュスに行くことが一番の重要だからな。これ以上下手に時間を食うわけにはいかないしな」 それらしき理由をとってつければ、彼女は納得しかねたような顔をするくせに、無理やり自分自身を頷かせた。“いい子”というのも大変なのだろう。納得していなくても、そうする顔をしなければいけない。のそんな顔を、いつの間にかよく見るようになった。だから彼女がこの旅に同行すると言ったとき、俺は心底驚いたのだ。

が、何かを言おうとした。ただ、ぱくりと口を動かすばかりで、きこえない。「私は」 ふと、船が揺れた。「私は、ガイさんのことが、大切なんです」 かすれたように聞こえた言葉に、無意味やたらに喜ぶほど子どもではない。そう思うのに、気持ちは暴れ始めている。「俺もだよ」 言ってしまった。はなぜか、泣き出しそうな顔をした。おそらく俺の気持ちは、彼女に正しく伝わっていないのだろう。そんなことくらいわかっているからこそ、言葉が出たのだ。

「……ルークもナタリアも、慣れない旅で随分疲弊している。俺くらい、しゃきっとしないと、君だって不安だよな」

まるでそういう意味ではない、とでも言いたげに、は首を振っている。彼女は優しいから、否定するしかないのだろう。そんなところが好きなのだし、たまに腹立たしくなるときもある。まるで自分が彼女の特別な人間だと勘違いしてしまいそうだ。


「大丈夫さ。アクゼリュスは海さえ抜けりゃあ目と鼻の先だ。が心配することなんて、もうどこにもないさ」









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2016-12-12