色濃く障気が充満していた。
盆地のように落ち窪んだ大地の中に、とろとろと流れ込んでいく。ぞっとした。口数が少ない私達でさえ、その姿に恐る恐ると声を落とした。

今から、あの中に。
自分で来たくせに、今更ながらに足がすくむ。首を振った。これでは何のためにここまで来たのかわからない。擦りむいた手足と顔は、すぐにナタリアさんが治してくれた。大丈夫だからと伝えても、「女性の顔ですわ」と複雑な声を出しながら、彼女の手のひらから暖かな熱が灯った。ナタリアさんは彼がルーク兄様であったときから、彼のことが好きで、好きてたまらなかった。だからルークさんに非難の声を上げながらも苦しげな顔を見せた。

ガイさんは、あえて聞かない。彼はルークさんも心配している。だから私のことを、あえて無視をするように接していた。多分、状況を一番よく理解しているのは彼だ。これで私に声をかけてしまったら、きっとルークさんはもっと意固地になってしまう。でも時折、心配げな瞳をこちらに向けたから、ぺこりと頭を下げた。申し訳なかった。


なんのためにここに来たんだろう。
後悔しないために。そう思ったのに。ルークさん達を取り巻く環境すべてが不安で、何に目を向けていいのかもわからない。でも一番信用ならないのが私だ。ルークさんとみんなは、ギリギリのバランスを保っていた。なのに私のせいで、最後のひと押しと崩れてしまった。もしかすると、時間の問題だったのかもしれない。でももっと言いようはあったはずなのに。




アクゼリュスの重たい空気を肌で感じる。せめてもと口元を覆うように布をつけているが、どこまで意味のあるものかもわからない。鉱山の採掘のために派遣された農夫達は、苦しげに息を繰り返して、ただ壁にもたれかかることしかできない。おそらくそのまま崩れ落ちれば、起き上がることもできなくなってしまうと必死に抗っているのだろう。

医療の心得があるナタリアさんや、力のある男性陣とは違い、ただ私は彼の口に水をふくませてやることしかできなかった。乾いた唇から、ただ息を吐き出したような声で、微かにありがとうと呟いた声に気づいて、あまりにも辛くてたまらなかった。
病状の重たい人間から、どんどんトロッコで運ばれていく。でもそれでも間に合わない。ガスをためやすい立地であることから、日々障気は濃くなっているらしい。助けに行ったはずの人間が戻ってこない。坑道から、どんどんガスが流れ込んでくる。比較的被害が少ない居住区に残っているのは逃げることもできないやつれた男たちや、出稼ぎにきた父について来たような、小さな子どもたちだけだ。

ひどい光景だった。

すぐさま市民を非難させるべく、ジェイドさんを中心にして指示が出されていく。ティアさんは神託の盾の任務を受け、消えてしまった。そしてルークさんは、どこかそわついた様子で、ただ立ち尽くしていた。声をかえればいいのか、それとも違うのかわからなかったから、「ルークも、あと数日もすれば王族として親善大使の役を果たしてくれますわ」と告げるナタリアさんの言葉にほっとした。それでもジェイドさんからは相変わらずの嫌味が飛んでいたけれども。

「なあ、それよりはやくヴァン師匠のところに行かないと」
「ルーク、その前にやるべきことがたくさんあるだろう? 病人を運んだり、荷物を運んだり」
「なんで親善大使の俺がそんなことをしなきゃならないんだよ! ヴァン師匠なら、本当に俺が何をすればいいか教えてくれるはずだ!」

大声を出すな、とガイさんは静かに呟いた。ぐっとこらえた彼の唇を見ることが苦しくて、視線を逃してしまった。彼はあれだけヴァン師匠を慕っているのに。(でも、だからこそ……)

、大丈夫か? きみも休憩した方がいい」

ため息を吐きながらガイさんがこちらに声をかけた。「大丈夫です、それより……」「ルークだな」 道中では、他の人たちの目があったから、話すことができなかった。付近でジェイドさんやアニスさん達も活動を続けているが、私達はどうしてもルークさんに甘くなる、ときっと彼らは思っている。声を潜めて、互いの胸中を吐露した。

「どう見ても、空振ってるよな」

なにしろ何もかもが初めてなのだ。初めて外の世界を知って、初めて任務を言い渡されて、存在価値を認められた。彼の気持ちはわかる。なんとかしたい、そう思っているからこそ、“親善大使”としての任を果たしたい。必死に背伸びをしようとしている少年なのだ。そう私達はわかっていても、彼らは違う。ナタリアさんは、もしかするとわかっているのかもしれない。でもキムラスカの公人として、認めることができない。認めてはならない。

アクゼリュスで苦しむ彼らが求めているものは、ただの少年でもなんでもない。自分たちを救ってくれる人間だ。ヴァン師匠の先遣隊さえいれば、多くの人を助けることができる。そのために合流すべく、坑道をくぐりながら、倒れている人を少しずつ介抱している。
(あれ)

先遣隊さえいれば。
その言葉を頭の中で呟いたとき、何かの違和感があった。私はあれだけヴァン師匠を訝しんでいたじゃないか。それなのに、彼の力を求めている。今現在、消えてしまっては困るものは。考えれば考えるほどに嫌な汗が流れてくる。

     アクゼリュスにいるものは、ひとり残らず

充満した障気に、目の前がくらついた。「ガイさん」 ふと、彼を見上げた。ガイさんは相変わらず少しの距離を置いて、不思議げにこちらを見ている。「ん? どうしたんだ?」「先遣隊って、本当にいるんでしょうか……?」 何を言っているんだ、とさすがに彼も瞳をしばたかせた。どう伝えるべきか、考えあぐねて、周囲を見渡した。するとルークさんの姿が消えていることに気づいた。どくりと、心臓から嫌な音がする。

「あの、ルークさん……それにジェイドさんは!」

たまらず叫んだ声に、大きなトクナガを動かしながら「大佐はさっき、上の様子を見てくるって行ってました。ルーク様とイオン様は先に進むって。あたしも行くって言ったんですけど、こっちを手伝っててほしいっていうから」 気持ちはわかりますけど、導師守護役のあたしを置いていくってどういうことです? とぶうたれながらアニスさんが返事をした。震えが止まらない。今、ルークさんから目をはなしてはいけない。そんな気がする。

「が、ガイさん。はやく、ルークさんを追って、いえ、追わなきゃ」
? どうしたんだ一体?」


     あなたは、預言を恨んでおいでか


屋敷で見た夢の中で、私に問いかけたあの声は確かにヴァン師匠だ。預言に決められていたから。だから彼らはアクゼリュスに向かい命を落とした。そう考えると、体の奥底から、どろどろとした気持ちが溢れて、目の前が暗くなった。

ガイさんが、ルークさんが、ナタリアさんが、もういない。ガイさん、ガイさん、とあの夢の中のわたしは、もう会うこともできない人の名前をただ叫び続けていたから、きっと瞳も一緒に溶けてしまっていたのだ。何もかもがどうでもよくなって、自暴自棄に振る舞った。ヴァン師匠は、いや、ヴァンはそんな私に気づき、そっと手を伸ばしたのだ。

     様、あなたもこちらにおいでなさい。私の名前はヴァンデスデルカ。


預言を破壊する者。




「ヴァンデスデルカ……?」

ぼんやりとした影のような記憶が、色濃く脳裏を駆け巡る。聞かせるわけでもない、ただの独り言だ。なのに妙に重たくて、息苦しい。足元を見た。ゆるゆると障気が流れていく。私は何を言ったんだろう。恐ろしいことが起こる気がする。

ガイさん、ともう一度顔を上げて、彼を見つめた。はやく、ルークさんの元へ、そう告げようとしただけなのに、彼は青い瞳を大きく見開いて、ぎょっとしたような顔で私を見ていた。

「なんで、君がその名を知っているんだ……?」

     どういうこと?



大地が、呼応した。

まるで何かの声に応えたかのように、ガタガタと震え、暴れ狂っている。ところかしこから悲鳴が聞こえる。「!」 ガイさんがこちらに手を伸ばそうとした。なのに、彼は表情を歪ませて伸ばした拳を握った。その顔があまりにも苦しそうだったから、「私はいいですから! 自分を守って!」 ここは坑道の中だ。天井から崩れ落ちてしまえば、何の意味もないかもしれないけれど、両手で頭を抱えてとにかく出口まで走ろうとした。

「くそっ!」とガイさんは舌を打ちながら、すぐさま私の前に飛び出した。彼の方がずっと足が速いはずなのに、私が追いつけるようにと明らかにペースを落としている。「いいですから、はやく逃げてください!」「できるわけないだろ!!」 叩きつけるように吐き出された声に涙が滲んだ。こんなときも、足をひっぱってしまっている。

気づけばガイさんを先頭にして、私とアニスさんと、ナタリアさんだけが駆け抜けている。先程までもう少し人がいたはずなのに。大地が揺れるたびに、人が消えていく。「ガイ! 奥に行って! イオン様がそこにいる! それにここは坑道の奥深くだから、居住区に戻るより突き抜けて外に出た方が早いはずだよ!」 アニスさんの言葉にガイさんは頷いた。ルークさんだっているはずだ。

地震が起こったのかと思った。
でも何か違うような気もした。私が知っている地震よりも、どこか不安定で、不規則な揺れだ。そうやって視界が揺れるたびに、地面が崩れ落ちていくような、そんな違和感が叩きつける足の裏から感じた。

「早く、こちらです!」
「こっちよ、大地が崩れてしまうわ!」
「ジェイド! ティア!?」

飛び出したのは、ジェイドさんとティアさんだ。神託の盾の任務でいなかったはずなのに、と驚く暇もない。すぐさま先頭はティアさんに変わった。ガイさんを含め、私達は唐突な自然災害に翻弄されている。そのはずなのに、彼女は違った。ただ何かを理解しているようにまっすぐと目的地に向かっている。一体どこに?

誰も何も言わなかった。ただ、何かが起こっている。それだけは理解していた。

不釣り合いなほどに違和感のある、人工的な扉をくぐり抜けると、坑道の奥にあったとは思えないほど広々とした空間が眼前に広がっていた。「こ、ここは……」「アッシュが言っていた場所はここです!」 アッシュ? ティアさんの言葉に瞬く。聞いた名前ではあるけれど、なぜ今になって、と疑問に思う声も上がらない。ごうごうと、吹き抜けのようになっている谷から風が吹き込んでくる。


「兄さん、やっぱり裏切ったのね!」

飛び出した先には、ヴァン師匠がいた。視界は断続的に揺れている。彼の足元にはルークさんと、イオン様が崩れ落ちていた。ジェイドさんが崖から跳び下りたと同時に、ガイさんが続いた。

「この外殻大地を存続させるって言っていたじゃない! これじゃあアクゼリュスの人も、タルタロスにいる神託の盾も、みんな死んでしまうわ!」 

(……みんな死んでしまう? 鉱山が崩れて? どういうこと?) 
崩れ落ちそうな衝撃の中で、ナタリアさんに腕をひかれた。「!」 はやくこちらへ、そう彼女が叫んでいる。とにかくルークさん達の元へ行かなければいけない。気絶していた彼をガイさんが抱えてこちらに向かっている。ヴァン師匠は、自身の妹に生き残るように言葉を告げ、消え去った。イオン様はジェイドさんが抱えている。坑道が崩れ落ちる。そう覚悟したときだ。「私の傍に! はやく!」 ティアさんがすい、と杖を構えた。息を吸い込み、柔らかな声が戦慄に変わる。優しげな膜が私達を包み込む。


ジェイドさんがイオン様とともにたどり着いた。「ガイさん!」 彼の足元が、崩れ落ちていく。ぞっとして悲鳴を上げた。ガイさんは意識のないルークさんを肩に乗せて、譜歌の中へと滑り込んだ。両手を合わせてほっと息をついたのは私だけではない。「すまない、不安にさせたな。大丈夫だから。俺がついてる」 絶対にだ、とわざとらしく白い歯を見せてこちらに声をかけるガイさんに、「だから、そんな場合じゃないでしょう……」 呆れてしまった。

彼が私を安心させようとして、そんな場にも似合わない言葉を言っていることはわかっている。きっと全然大丈夫ではないし、彼にだって何が起こっているかわからない。なのに彼はこちらのことばかりを考えている。抱きしめることができたらよかったのに。そう思った。そうしたら、きっと不安を感じているであろう彼を慰めることができたし、彼のその反対もそうだ。でもこんなときに何を考えているんだ、と指先は震えているのに、馬鹿みたいに笑ってしまった。

ガイさんと、互いに下手くそな笑みを浮かべた。もしかすると、彼も同じようなことを思っているのかもしれない。ティアさんの譜歌が、静かに、静かに響いていく。何もかもが消えていく。



そうして、私達は



地下へと落ちた。






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2019/11/18