息を切らしながら走り続けた。なぜこんなことになってしまったのか。ところかしこにオラクル兵たちが私を探していた。駆け込んだ民家の壁にもたれかかり、息を整える。足跡が聞こえるたびに震え上がった。 ワイヨン鏡窟に向かった私達は、それを知った。そして揺れる大地に、新たな崩落の兆しを察知した。すぐさま各国での対応が必要となると、まずはタルタロスをダアトに停泊させ、アッシュさんとは別行動をとることにした。けれどもイオン様たちとダアトに足を踏み入れた瞬間、保護と言う名目でオラクル兵たちに襲撃された。 導師イオンと大詠師モース。神託の盾には二つの派閥がある。おそらくこれはモース率いるオラクル兵であることは、イオン様の言葉で理解した。モースが戦争を起こそうとしているということも。「、あなただけでも逃げなさい!」 そうしてナタリアさんは弓を抱えた。僅かな隙を見つけて、転がり落ちるように、頬に泥をつけながら必死に手足を動かした。 アクゼリュスの崩落は、それこそ戦争を引き起こす引き金になる。ガイさんがそう言っていた。だからこそ、私達の身柄をモースは求めた。イオン様も、ナタリアさんも、ルークさんも、生きている。それをキムラスカに伝えなければいけない。 兵士の声が聞こえる。私の足よりも、彼らはずっと早く動く。心臓が早鐘のように鳴り響いた。 捕まるわけにはいかない。けれども、何もできない。譜術にもならない第三音素と第四音素を操ったところで、今は何の意味がない。一体どうすればいいんだろう。これも夢なら、そう、夢ならいいのに。あのときのように、全てが夢で、誰もかれもがうまくいく。そんな未来があればいいのに。 そう強く、強く願った。 すると、なにか不思議な感覚が周囲を取り巻いた。 真っ白で、ちかちかしていて、自分がどこにいるのかわからない。そのはずなのに、ふわりと足が動いた。まっすぐに走っているつもりなのに、右にいったり、左の角を曲がったり。行く先々にはオラクル兵が待ち構えているはずなのに、するりと通り抜けていく。 唐突に、どすりと体が重くなった。 幾度も荒い息を吐き出して、口元を抑える。苦しい。先程までの光景はどこかに行ってしまった。逃げ切れたのだろうか、いやまだだ。できる限り体を動かした。そうしてたどり着いた細い路地裏で、座り込んで、動くこともできない自身に叱咤を繰り返した。 ジェイドさんや、アニスさんはどうなったのだろうか。わからない。息を整えながらも瞳を閉じると、また、夢を見た。白昼夢のような、そんな夢だ。ナタリアさんとイオン様はダアトにて捕らえられはしたが、無事だった。彼らは大事な人質なのだろう。目を開けた。そうだ、彼らは戦争の引き金になる可能性があると同時に、大事な交渉材料にもなる。そう信じるしかない。 逃げ切ったのだろうか。 いや違う。そんなわけない。いつまでも動かないまま息を殺しているわけにはいかなかった。 町中での襲撃が起きたというのに、ざわつきはしたものの、すぐさま平然と、まるで目にも映らないものであるかのように日常に戻る市民たちが恐ろしかった。彼らは預言の成就のみを願い、それに沿って生きている。導師イオンはもちろんだろうが、モースの言葉にも忠実に動くのだろう。 足音が聞こえるたびに、ガイさんからもらったナイフを抱きしめた。柄を握って、カタカタと震える。『赤髪の少女が逃亡を ナタリアさんが私だけを逃した理由には気づいていた。ナタリアさんや、イオン様と違って、私はただのファブレの、いやランバルディア王家の特徴があるだけの赤毛の女だ。使い勝手も悪い人質が増えるよりも、始末する方に天秤が傾いたのだろう。捕まれば、おそらく命はない。 幾度も息を短く吐き出す。 武器はある。ガイさんからもらったこの小さなナイフだ。譜術にもならない、ただの水と風では、おそらくなんの意味もない。見える限りのオラクル兵を数えた。ひとり、ふたり。死角から飛び出して重たげな鎧の隙間を狙う。その隙に逃亡する。できる。いや、しなければいけない。肩で息を繰り返した。崩れ落ちそうな足を奮い立たせてナイフを見つめる。一人減った。今しかない。 ふと、声がきこえた。 (ガイさんは、小さな可能性にかけて、これを渡したんじゃない) 一か八か、そんな賭けを行わせるためじゃない。 戻らないといけない。ガイさんのところに。何が何でも。今の私が変わってしまったとしても。 瞳を閉じた。そうして覚悟を決めた。左手で髪を根本から持ち上げ、ナイフを滑らす。 重たい感触だった。 せめて髪が短くなれば、彼らの目を欺くことができるかもしれない。でもやっぱりこんなことでは、何の意味もないのかも。ガイさんは、もしかすると悲しむかもしれない。フェミニストの彼だから、女性の髪に、と気落ちするかも。ただ、少しでも生き残る可能性が欲しかった。一か八かではない、確実に生き残る道を。 すっかりと頭が軽くなったから、きっと動きやすくもなる。 重たい髪の束を持ったままだったことを思い出した。彼らに見つからないように隠さなくては、そう思って視線を落としたとき、目を疑った。ランバルディア王家の赤毛ではない。黒い、ひどく見覚えのある色合いのそれが手の中におさまっている。今は肩口までしかない髪をひっぱってみても、黒色だ。(どういうこと……?) 砂漠で倒れて、一人部屋にいたとき、鏡の向こうにいた黒髪の女性を思い出した。あのときは気の所為だと考えたけれど、もしかするとあれは、(私だった?) わからない。混乱した。けれども動かなければいけない。ぼろくずのように落ちていた布をフードがわりにして、路地裏から飛び出すと、オラクル兵に目をつけられた。震えながらフードをとったが、髪の色が違うと見逃された。そしてあまりにも混乱して、ただただ道端で泣き崩れた。それでも人は素知らぬ顔をして通り過ぎてく。 ガイさん。ガイさんに会いたい。 大丈夫だ、そう言ってもらいたい。会いたい。 そう何度も繰り返して、何を言っているんだ、と頬を叩く。こんなことをしている場合じゃない。あのときのように、すぐさま髪の色は元の色に戻ってしまうかもしれない。こうしている今も、その可能性は膨らんでいく。進まなければ。逃げなければ。ガイさんに、助けを。 そこまで考えて、自分の頬を、もう一度、両手で力いっぱいに叩いた。“私が”ガイさんを助けないといけないのに。 できればナタリアさんとイオン様を救出したい。でも無理だ。むざむざ足を引っ張るくらいなら、このまま逃げるほうがまだましだ。バチカルへ逃げ込めば、国王陛下に陳情することができる。そうすれば、いくらローレライ教団と言えど、そう簡単には動くことはできないはず。 (でもだめだ、そんなの向こうだってわかっている) だからこそ、キムラスカへの道は厳重に封鎖されているだろう。それならどうすれば、とふらふらと道の端に腰を落ち着けた。布を深くかぶっていたから、物乞いのように見えるのかもしれない。視線を投げかけられるが、特に気にされる様子はない。時折小銭まで投げられる。噴水の周囲で子どもたちが遊ぶ声が聞こえた。 (未来を、見ることができれば……) 薄々、気づいていた。私は先を知ることができる。それがどうしてなのかはわからない。ただそれのおかげで、オラクル兵から逃げ切ることができた。それがなければ、今頃とっくに処分されているはずだ。考えてみれば、初めにガイさんが旅立つと教えてくれたときも、彼の行き先を、心の底で案じた。砂漠で一人部屋に残されたときも。レプリカルークと、ヴァンの声が聞こえたときも。 瞳を閉じた。ゆるゆると思考がこぼれて、沈んで、消えていく。意識すると体の外側が変化していくような、そんな気さえなる。まるで私自身が粒子となり、どこかへ飛び抜けていっているような。 はっと瞳を見開いた。 相変わらず目の前では子どもたちが楽しげに遊んでいて、ときおりオラクル兵が辺りを散策している。 浅黒い肌の男性だった。青年のようにも見えたが、座にかけて、こちらを見下ろしている。俺のジェイド、そう言っていた。考えた。そうして気づいた、あのジェイドさんに、そんなことを言う人間は一人しかいない。 「マルクト皇帝……」 呟いた自身の言葉に驚いた。そうだ、気づかなかった。キムラスカがだめなら、マルクトがある。私に政治的価値はさほどない、と自分でも言っていたじゃないか。ならばキムラスカではなく、マルクト王に陳情をしても、人質にとられる可能性は低いかもしれない。 もしかすると、それを目的にしてジェイドさんはすでに動いている可能性もある。 ひどく明るい気持ちになったあとで、そもそもどうやってそこまで行けばいいのかと頭を抱えた。少しでも早く動かなければいけないのに。としても、としても、私はガイラルディア様や、ガイさんに守られて生きてきたんだろう。それをひしひしと感じた。一人きりで放り出されてしまえば、結局私は何もすることができない。 これだからお嬢様は、と自分自身に棘をさすような気持ちで瞳をとじたとき、いつか、似たような声を出されたことがある、と思い出した。そうだ、アニスさんだ。彼女の頬についた油をハンカチで拭うと、信じられないと彼女は悲鳴をあげたんだった。これは高価なものだから、自分なら大きな値にしてみせると。 あのハンカチは、きちんと洗って手元に保管してある。 (私にも、できることはあるはずだ。少なくとも、そのための武器はある) *** フードは道端に隠した。できる限り顔の泥を噴水で洗って、作り笑顔を顔にはりつける。私はじゃない。そう思い込む。ここにいるのは、ただの黒髪の女だ。 「すみません、こちら、買い取っていただけますか?」 なんでも売ります。ついでに買います。 看板には、フォニックス文字でそう書かれている。 寂れた出店には、ひげを蓄えた男性がふあ、とアクビを繰り返して、こちらを見上げた。「……ハンカチ? まあいいけどね」 そう、提示された額はどう考えても足元を見たものだろう。面倒くさ気な仕草をする瞳の奥がきらりと光ったことを見逃さなかった。それにアニスさんから、話のネタにある程度の価値は聞いている。手を伸ばそうとした彼の目の前で、ひょいと引っ張る。 「これはキムラスカのさるご令嬢が持っていらしたものです。丹念にほどこされた刺繍は素敵でしょう? キムラスカではありふれたものかもしれませんが……こちらダアトではいかがでしょう?」 頬に手を当てて、困った顔を作ってみせた。裏には小さなタグがついている。ファブレ家御用達の工房だ。ちっちっち、と男は軽くリズムをとりながら舌を打った。「お嬢ちゃん、よく見たらいい服きてるね、ちょいと汚れているみたいだけど」「ええ、こちらもお嬢様から譲り受けまして。こうして貴族の家の皆様から恵まれたもので、行商を行っています」 羨ましいねぇ、と鼻で笑われたものだから、「そうでしょう?」と笑ったら、面食らった顔をしていた。 キムラスカとマルクトでは貿易が行われているが、このダアトを仲介として、手数料が取られている、と以前にナタリアさんが言っていた。ただあくまでもローレライ教団を主体として、ガルドはそこに流れ込む。だから国をまたいだ個人での販売は大きくは禁止されているものの、小売は見逃されているような状況だ。そういった店の多くはいつでも逃げ出せるように、天幕と看板だけで身軽にしてある、というのはこれもガイさんのこぼれ話だ。 見ていた足元を、やっと上げてくれたようだ。仕方ねぇなあ、と男は手のひらを打って、値を釣り上げた。毎度のお約束なのだろう。ここで私が了承すれば話は終わりだ。でも首を振る。「いいえ、最初のお代で結構ですよ」 だから私のセリフにきょとんと瞬いた男に、すかさず言葉で切り抜いた。 「その代わり、教えていただきたいことがあるんです」 「はは、なんだ情報料か。そんなら最初に言ってくれよ」 「いえいえ、そんな。ただお値引き代わりに教えていただきたいだけなんです」 「そうかいそうかい。そんならわかることならきっちりお伝えしますよ。値段分な」 了解はとった。「それなら、マルクトへの行き道を」 がくりと男が机に額をこすりつけた。 「……あのな、嬢ちゃん。知らないかもしれんが、今マルクトとキムラスカはきな臭いんだ。普通なら船でグランコクマに行くことができるんだが、商売に行ったやつら、ことごとく追い返されてるって噂だ。やめとけ。行くだけ無駄だ」 ピオニー陛下も、キムラスカを危険視しているということか。いや、アクゼリュスの崩壊が彼の耳に届かないはずはない。 「いいんですよ。他にもお嬢様からお譲り頂いたものはたんまりありますから。グランコクマまで行かずとも、国境を越えられればいいんです。ここで売るよりも、キムラスカのものをマルクトで売った方がいい儲けになりますから」 「でもなあ」 「先程おっしゃいましたよね、“値段分でわかることならきっちり教える”って」 商人が交わした約束ですよね? と眉をハの字にしながら必死で伝える。男は曖昧な顔をした。そこでぐいっと顔を近づけて、こそこそ耳打ちした。「あるんじゃありませんか? 安全に船までたどり着ける、商人だけが知っている道が」 街から出るにせよ、外は魔物がはびこっている。私一人が通常のルートでたどり着けるわけがない。うぐ、と喉がつまったような返事に、やはりと瞳を細めた。 「ありますよね」 「ねえよ」 「約束を違えますか?」 今日のあなたの預言には、旅人に嘘を教えろとありましたか? 両手を必死に合わせながら擦り出した、その一言がきいたのかもしれない。 敬虔な信者、とまでは言えずとも、彼もダアトで商売を行う人間だ。ユリアの教えを無辜にすることはできないだろう。まあローレライ教団は質素倹約を掲げているらしいが、そこは商売をしている以上仕方がないのだろう。 降参の白旗を振った商人から、しっかりと“お値段分”の情報を手に入れて、マルクトの国境を越える船を探した。そこにはマルクト軍も待機しているはず。瞳を閉じれば、先を見ることができる。でも見ることが怖かった。もしそこが手詰まりで、恐ろしい未来だったら。それでも耐えきれなくて、道中に、静かに瞳を閉じた。そうすると、とんっと誰かに背中を押されたような気がした。 周囲には誰もいない。でも確かに、女性のような細い手のひらで遮られたような、そんな気がした。 商人たちだけが知る道なのだろう。まるで獣道のような細い道には、ときおりホーリーボトルがばらまかれた跡がある。なるほど、これを定期的に人が通って幾度も繰り返せば、安全な道ができるという話だ。 (さっき、なんだかマリィベル様に、怒られたみたいな) そもそもなぜ女性の手だと思ったんだろう。自分でもよくわからない。髪の色は相変わらず変わったままで、気のせいかより深い色合いに変わっているような気さえする。色が変わってしまったから、に心まで戻ってきているのだろうか、と苦笑して、あれからもう16年も経ったのか、と空を見上げながら考えた。 痛くもないはずの、過去の傷がずきりとこちらに何かを伝えた。あのとき、ガイラルディア様は5歳の男の子だったのに、気づけば立派に成長していた。たまに見せる笑顔が、やはり子供の頃のままで、胸が暖かくなるときがある。優しい人に育った。なぜだか誇るような気持ちになったとき、僅かな違和感が思考をよぎった。(……16年前?) カチカチ、と頭の中で計算する。ガイさんは21になった。私も16になる。つまり私は16年前に死んだ。そのはずだった。ガイラルディア様の5歳の生誕パーティーで、クリムゾンの刃に貫かれた。 何度考えても間違いはない。なのにおかしい。私は生まれ変わった、そう単純に考えていた。でも違う。“人は、死んですぐに産まれるものではない” 当たり前だ。女性のお腹の中で、子供は育つのだから。胎児であるときから、人は生きているはず。 私の生まれた月を何度も逆算して計算した。この世界の一年は、地球のだいたい倍はあるけれど、胎児として母親のお腹の中で過ごす期間は、それを基準にして長くなる。ガイさんの生まれ月はイフリートガーデン、つまりは5月だ。本当に、本当にわずかではあるけれど、であった私と、である私、二人の存在がかぶっている時期がある。 (どういう……こと?) そもそもなぜ、私はこの世界にやってきたのか。 過去の記憶と照らし合わせると、あまりにもここが不思議な世界だったから、考えようともしなかったことだ。過去の記憶を持って生まれる、そんなことも、聞いたこともない。 どくり、どくりと、心臓が嫌な音をたてている。 レプリカ、という言葉が頭に思い浮かんだ。そんなわけない。とは、あまりにも容貌が異なっているし、レプリカは過去の記憶を持たない。それならばなぜ。 私は、一体何者なのか。 すっかり短くなってしまった髪をくしゃくしゃに握りしめた。なぜだかひどく、ガイさんに会いたかった。それがなぜなのかわからなかったし、それ以上、考えることはやめた。 BACK TOP NEXT 2019/11/27 |