戦争の締結には、もはやインゴベルト陛下に、直接陳情しなければ止まらない、というのがルークさんたちの結論だった。けれども現在は広大なルグニカ大陸の大半がクリフォトに降下している。地形の多くが変わってしまった現状で、彼らも争いを続けるほど愚かではないはずだ。それよりも、セフィロトの暴走を止めることが先決だと、アルビオールはダアトへ向かった。

私はガイさんの様子と、時折横目で覗き見た。彼はなぜだか自分の手のひらを見つめていて、握りしめて、重たい息をついて、ちらりと私を見た。私は慌てて顔をそむけた。その様子を見てか、相変わらず間に挟まれたままのルークさんはため息を吐き出した。



ダアトに降り立つと、ひどく住民は怯えているようだった。当たり前だ、彼らにとっては、ルグニカ大陸の多くが、“消滅”してしまったのだから。初めに夢で見た、ファブレ家でアクゼリュスの崩落を耳にしたときの私と同じように、いや、それもしかすると以上の衝撃だったのかもしれない。なんていったって、ルグニカ大陸はオールドランドの中で一番大きな大陸だ。彼らの中の多くには沈んでしまった大地の中に、知り合いも、家族もいるに違いない。

タマラさんから借りていた服のフードをかぶって髪を隠した。万一、元の私の顔をしっている誰かに会わないとも限らない。それに少し怖かった。一人で逃げ回っていたあのときを思い出す。怯えた顔をルークさんたちに見せて、これ以上心配なんてかけたくなかったから、表情を隠すにも丁度よかった。



イオン様とは、案外簡単に再会することができた。ローレライ教団内部には、導師の部屋に続く秘密の通路がある。通常なら教団幹部しか入ることのできない場所らしいのだけれど、そこは元、導師守護役のアニスさんの登場だ。短い呪文とともに、彼女の姿は転送され、私達もそれに続いた。これは、いわゆるテレポート、と過去の記憶を思い出してときめいている場合ではない。でも実際目の前で消えられてしまうと、ちょっと怖い。

途中、戦争が停戦したことに不満を持つモースと、それに協力するディストから隠れながら奥に進むと、図書館でイオン様を発見した。私達を見て目を丸くした彼に、セフィロトが暴走していることを告げたが、彼にも心当たりはないという。おそらく預言にも記載されていないとのことだった。イオン様は協会が秘匿している、秘預言を確認するために、ダアトに帰還したのだ。彼自身も、秘預言を把握していなかったらしい。

「えええ〜〜〜!? イオン様もご存知なかったんですか!?」
「はい……。ですから、初めてルークに会ったときも、彼が何者であるのかわかりませんでした」

アニスさんの言葉に、もし、秘預言を知っていればアクゼリュスのことも、回避できたかもしれない、と呟く彼に納得した。ルークさんがアクゼリュスで超振動を使用して大地を崩落させることが預言によるものであったとしても、イオン様なら悲劇を回避しようと動いていたはずだ。

(でも、彼はローレライ教団の、最高指導者なのに、秘密とされていることを知らないなんて、そんなことあるのかな……?)

まだ年若い少年だからだろうか。少々不思議に思いながら首を傾げてしまったけれど、特に疑問の声も上がらなかったから、そのまま話は流れてしまった。イオン様は、改めて私達に秘預言を教えてくださるということで、譜石が保管されている礼拝堂へと移動した。それは第一から第六までの、ユリアが残した預言の内容をまとめて記したもので、ティアさんは最後と言われる七番目の譜石の探索を命じられていた。

体の周囲を淡い色で取り囲みながら、イオン様は朗々と預言を読み上げた。崩落に関する預言は、やはりアクゼリュスのことと、そしてモースが画策し続けている戦争のことしか書かれていない。つまり、ルークさんのことがすっぽり抜け落ちている。

このことは、以前ピオニー陛下が示唆していた。預言に記載のないレプリカという存在を割り込ませることで、ヴァンは預言を破綻させようとしている。つまり、と声をあげようとしたときだ。「そこに誰かいるのか! 鼠め!」 ふいに響いた怒声に振り返った。

私が何をするまでもなく、即座にティアさんとガイさんが飛び出し、オラクル兵を打ち倒した。けれども次々にオラクル兵が溢れてくる。「皆さん、逃げてください!」 イオン様の言葉に返事をする間もなく、慌てて教団から逃げ出したとき、私達の眼前に、優雅に歩を進めながら両腕を広げた男がいた。病的なまでの肌の白さや、その丸メガネには覚えがある。

     さあ、みなさん、抵抗はおやめなさい。さもなければ、この子の命はありませんよ」



***



死神ディスト、とルークさんが呟けば、「誰が死神ですか! バラです薔薇!」と叫びながら自分の胸をぱんぱんと片手で叩いて主張している彼の頭上には、以前彼が座り込んでいた椅子がふわふわと浮かんでいる。その中に代わりとばかりに座り込んでいるのはノエルさんだ。アルビオールにいれば、安全だと思いこんでいた。ノエルさんはぐったりとして、明らかに意識がない。


私達はなすすべもなく彼を睨んだ。ディストはやはり大仰なポーズをして、「以前はあの赤髪の少女に痛い目に合いましたからね……今回は少し慎重にさせて頂くことに……ってあれ? いませんね? 心底思い出したくもない事案ですので、いないに越したことはないのですけどね???」

それはおそらく私のことである。前回彼が登場したときに、音機関をビリビリにするという荒業を使用してしまった話だろう。今の私は髪どころか瞳の色も変わっているし、その上タマラさんの作業着までお借りしている。初めてガイさんに見られてしまったときは、羞恥にふるえてしまったけれど、何も恥ずかしいことなどない。これは立派なシェリダン風戦闘服である! きちんと洗濯して、今度タマラさんに会ったときにお返しするのだ。

それはさておき、わざわざ自分から主張する必要もないので、とりあえず無言で徹した。ちらり、とジェイドさんがこちらに視線を向けた気がしたけれど無視した。ノエルさんを人質にとられてしまえば、何をすることもできない。悠々した動作で、オラクル兵を携えながら近づくのはモースだ。でっぷりとした体を揺らしながらも、ひどく嬉しげに笑っていた。ちなみにディストも笑っていた。「いいざまですね! ジェイド!」 ジェイドさんを名指しだった。

そしてモースは言った。まるで勝利を確信したみたいな声だ。

「お前たちはバチカルにつれていく。戦争再開のために、役立ってもらうのだ」



***




「だせー! ここから、だーせー!!!」

がんがん、とアニスさんが短い足を振り上げて、牢の扉を蹴り上げる。「や、やめなさい、アニス!」「ティア止めないでよ! こちとら今まで品行方正、清く正しく生きてきたっていうのに、齢13、なあ〜〜〜んで、こんな狭いところに閉じ込められなきゃならないってのおーー!!?」 ガッコーン、とさらに激しい音が響いた。

アニスさんの気持ちもわかる、と両手を合わせればいいのか、どうすればいいのか。「お手上げですねえ」「旦那、笑ってる場合かよ……」「ミュウは!? ミュウはすり抜けられないの!?」「ぎ、ギリギリで無理なんですの……ごめんなさいですの……」「あーもうっ! 訳にたたなあーい!!!」 カオスである。

「ルークも、ナタリアも連れて行かれてしまったわ……無事だといいんだけど」

みんなを代表するようなティアさんの声に、しんと静まり返った。このままでは彼らの命が危ない。ガイさんたちを追って飛び出したはずのバチカルに帰還するのは、案外一瞬だった。ノエルさんを人質に、私達は船に閉じ込められ、海を渡ってバチカルに戻ってきた。ただし、大罪人として。ナタリアさんは王女を語り生きた罪で。ルークさんは、レプリカであるという罪だ。バカバカしいと一笑するには状況が悪い。

私達は彼らに手を貸した罪人、という名目で城の地下の牢にまとめて閉じ込められた。残念なことにも武器も取り上げられ、ミュウが悲しげに泣いてはアニスさんが暴れている。彼女が人形師ということは、すでにモースさんから伝わっているのか、ご丁寧にもいつもは背中にくっついているトクナまでいない。そういえば、トクナガを巨大化させるようにしてくれたのは、ディストさんとも聞いたことがあるから、そこからかもしれない。

なんにせよ、とガイさんはため息をついて、相変わらずの距離で私を見下ろした。「が、こっちにいるってのは、まあ、せめてもの救い、なのかね」 なんとなく恥ずかしくなって、見られていた黒髪を隠した。

兵士に連行されたときに、明らかに彼らは私を見て不審な顔をしていた。ナタリア様のご友人の様に似ていないか、とか、いやでも髪も目の色も違うし、そもそも服がおかしいだろ、よく似た他人だ、とかなんとか。一人はわはわしている間に、すっかり割り振りが決まっていた。


「どうですかねぇ。ルークとナタリアは同じ場所にいるとして、はさらに別の場所に監禁となるでしょうから、まあ、確かに最悪の状況よりも少しマシ、というところですかね?」

てっきりその場合は、は放ってさっさと逃げましょう、という結論に至るかと思っていたので、少しだけ意外に思ってジェイドさんを見た。「まあ、ここから逃げることができれば、の話ですが」 しん、と重苦しい沈黙が落ちる。ディストに連れ去られたノエルさんのことも心配だ。

これだけ堂々と会話しているのは、ありがたいことにも見張りの兵士が周囲にはいないからだ。とは言っても、地下の入り口には常に交代で兵士が入れ替わっている。時折来る定期的な見回りのときは、ひっそりと口をつぐんではいるけれど、それだけだ。牢の強固さには、よっぽどの自信があるらしい。それこそ、最先端の技術を詰め込んでいるとかなんとか、ナタリアさんに聞いたことがある。いい迷惑だった。

「もお〜! これ、なんとかぶっ壊せないかな!? 大佐とかどうです!?」
「あいにく譜術も使用できませんねえ。おそらく範囲はかなり限定的でしょうか」
「うわああん!」

お手上げだ、と諦めきれるものではない。一人両手のひらで顔を覆って、思考した。でも堂々巡りで、不安ばかりが去来してくる。ナタリアさんの心境を考えると、どうしても冷静でいられない。

「……? 大丈夫か?」
「……え、えっ、はいっ!」

彼がひどく心配気に私を見ていた。久しぶりに話しかけられたような気がした。言葉を選んで、考えて、青い彼の瞳を見つめた。「その、ルークさんもなんですが、ナタリアさんが……」「ああ」 言いたいことはわかる、というような返答だ。彼だって、長くナタリアさんと付き合ってきた。でも彼女の胸中は、きっと私達では推し量れない。

少し、互いに話しづらいような気がして、沈黙が落ちた。私は、ガイさんと何を話せばいいのかわからないし、ガイさんも私を扱い兼ねているような、そんな雰囲気だ。あのとき、あんなに怒ったガイさんは初めて見た。彼が幼い頃、ファブレ家に来たばかりの頃は、青い炎を灯したような瞳をしていたけれど、私が未来を“見る”と告げたときの彼は、まるで真っ赤な炎みたいだった。


きみがいなくなってしまったら、なんの意味もない。


その真意を考えようとして、困った。意味って、どういうことだろう。

おそらく互いに顔を落としていて、それから同時に顔を上げた。口を開けて、話しかけようとしたとき、「……んんん?」 不思議気なアニスさんの声がきこえた。「なにこれ……ネジ?」

ガイさんと顔を見合わせて、薄暗い牢の中で、彼女が指をさす先を、じっと目をこらして見つめる。手が届くか、届かないかのギリギリの距離に、ネジがあった。そして牢屋に刺さっていた。「……牢屋に、ネジ?」 どういうこと、ティアさんが呟くと同時に、自然と視線がガイさんに集まった。ネジ、いや鉄の譜業と言えば、ガイさん。「……音機関の、牢屋ってことかな?」「そんなことある〜〜〜!!?」 代表した心の声はアニスさんだ。


「いえ、可能性としてはありえますね。私のように譜術が使えるものが収容される可能性もある。譜業を用いて範囲的に譜術を封印、そして牢自体も強固なものになっていると……。バチカルではこうした箱型の、大型である音機関は珍しいでしょうし、まさか音機関マニアが収容されることはそうそうないでしょう」


そうこんな、音機関マニアが、とぴしりとジェイドさんはガイさんに指をさした。「……ん? ん? んん? 俺か!? いやいや、さすがに無理だろ! 確かにスパナの一つでもあればなんとかなるかもしれないが、まさかそんな」

最新型の牢屋とは一体、とナタリアさんに突っ込んだ過去を思い出しながら、ポケットの重さを感じた。ごそり。「…………あの、こんなところに、スパナが」 ひやり、とした視線が集まった。

「お、お嬢様って、スパナ隠し持ってるもんなの……? なんなの、鈍器なの? っていうか、武器は全部取り上げられたと思うんですけどぉー!!?」
「ち、違います! これはたまたま! アルビオールの整備をしたときにイエモンさんからお借りしたままで、そしてタマラさんの作業服に入れっぱなしで……! 身体検査も多分私が一人挙動不審すぎてむしろスルーされてました!」
「そんなことってあるーーー!?」

ステーンッ! とアニスさんが滑りコケた。とにかく私達はガイさんの知識と腕の長さを信じ、任せたスパナを持ちながら、ガイさんは必死で腕を伸ばした。本当にギリギリのラインで設置されている。「ジェイド……っ! あんたの方が、背が高いだろ……っ! 替わってくれよ……!!」「いえ最近、めっきり腕が縮んでしまって」「馬鹿言ってる場合か!?」 さすがのガイさんもキレている。


あ、そーれ! がんっばれ! がんっばれ! と兵士の方に聞こえぬように、けれども想いが伝わるようにと必死に応援していた最中、私達の目の前に、ぬっと赤い影が落ちた。「……お前ら、なにやってんだ」 冷たい瞳だった。




いやスパナで開くとかありえねえだろ馬鹿か屑かと罵られながら、私達はアッシュさんがキムラスカ兵の皆さんから奪い取った武器をしずしずと受け取り、さらには鍵を開けてもらった。いたれりつくせりである。私は特に受け取るものはないので、邪魔にならないように端にいると、アッシュさんと目があった。考えてみれば、彼とはまともに話したこともなく、別れてしまったのはしばらく前だ。

色々と事情はあれど、血のつながった実兄である。挨拶をすべきか、いやでもどう言うべきか。というかそもそも今は外見が違うから、パッと見ではわからないし、とすすりと逃げる方向を選択したとき、「……もう、体調は問題ねぇのか」 話しかけられたのか、一瞬わからなかった。

「えっ、あの、えっと、げ、元気です!?」

びっくりして変な答え方をしてしまった。ならいい、とアッシュさんが背中を向ける。なんでまた? というか、何をしっているの? と困惑すると、アニスさんが解説してくれた。

「アッシュとは、が気を失ってるときに一回会ってるんだよ。はルークが背負ってたんだけどさ」「ルークさんが!?」 さぞや重かっただろうに、と青くなった。「でもその前は大佐がお姫様抱っこしてて」「ジェイドさんが!?」 ヒッ、と震えながら彼を見た。メガネを押し上げているお決まりのポーズをしている。「そんで、に会ったときのアッシュの絡み方が、なんか、ちょ〜〜うざかった!」「うざかったんですね!?」「うるせえぞ! そこ!」

流れるように叫んでいたら、おそらく本気で怒られた。
ノエルさんに確認したときは、それほど長時間寝ていたわけではないと聞いていたのだけれども、一体私はルークさんの背中でどれだけのイベントをかいくぐってきたのだろう。考えれば意識が暗くなる。


「んなことどうだっていいだろうが! さっさとナタリアを救出に行け! 俺はまだすることがあるからな!」

すっかりお冠のままに消えてしまったアッシュさんを見送って、彼から確認した通路を駆け抜けた。途中に出会ったキムラスカ兵には、ごめんなさいと謝りながら、道を譲っていただいた。武器と譜術と、ついでにトクナガさんさえいれば怖いものなしだ。飛び込んだ部屋の中には、ルークさんとナタリアさん、二人がそろってソファーの前に立っていた。ティアさんの譜歌で即座にそれ以外の部屋にいる人物を昏倒させ、ミュウさんが嬉しげにルークさんに飛び込んだ。よかった、間に合った。


なんでここに、と驚くルークさんに、「説明はあとで! さっさと逃げようよ!」とアニスさんが慌てて扉をあけた。けれどもナタリアさんは首を振った。


「お父様に、陛下に会わせてください。陛下の真意を……聞きたいのです」

私達は顔を見合わせた。そうして、ルークさんの助力もあり、インゴベルト陛下が待つ扉をゆっくりと拳で叩いた。


     父と子


血の繋がりのない彼らに、絆はあるのだろうか。
ナタリアさんの姿に動揺するインゴベルト陛下を見上げながら、そう思った。私とクリムゾンには、血の繋がりはある。けれども、その逆はどうだろう。彼のことを父と呼ぶことには、今も抵抗があった。それは昔から変わらない。けれども、それはただの私だけの問題で、クリムゾンからすれば迷惑な話だ。生まれた子供に、奇妙な記憶が紐付いていたのだから。

答えを出すこともできないままにナタリアさんは陛下に別れを告げた。「せっかく牢から出してやったのに、こんなところで何をしている! さっさと逃げろ!」 ディストと、ラルゴと呼ばれる六神将の一人である大男の手から、飛び込んだアッシュさんの力を借り、私達は脱出した。城から抜け出した先には、見覚えのある兵士たちがそろって敬礼をしてナタリアさんを迎えている。


「ルーク様! ご命令通り、白光騎士団の者がこの先の道を開いておりますぞ」

駆けつけたのはペールさんだ。最後に会ったのは、少し前のことなのに、ひどく懐かしかった。ご命令通り、とはアッシュさんのことなのだろう。「ペール!」とルークさんが驚きの声を上げて、「ありがとう、でもお前は逃げろ!」「ペールさんなら、大丈夫です。とってもお強いんですから!」 なんて言ったって、とても頼りになる方なのだ。

私の言葉に、ガイさんは首を傾げた。「なんで、きみがそのことを知っているんだ?」 むぐ、と自分の口元を押さえた。「……まあいいか。ルーク、心配するな。ペール爺さんは俺の剣の師だ」 あとは頼むぜ、ペール、いや、ペールギュント、と彼の肩を叩いたとき、ペールさんは、おそらくと理解した。やっとこのときが、と僅かに唇を噛み締め、深く頷く。「ガイラルディア様。ご無事をお祈りしております」 そうして、彼の本来の名を呼んだ。


ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは、ルークさんにすでに真実を告げている。折れ曲がったはずの腰を伸ばし、ペールさんは剣を構えた。城からの追跡者に、彼は見事な剣さばきを見せ、こちらに背を向ける。「さあ、お行きなさい!」 彼一人ではなかった。市制に飛び降り逃げ惑えば、そこいらにいるただの大人や子供たちが手に手をとって、なんとも情けない“武器”を手にしている。

「ナタリア様、お逃げください!」

男は、ぱかぱかフライパンを必死で動かし、隣の老婆は普段は地面に突き立てるはずの長い杖をええいと持ち上げ無闇矢鱈に振り回した。「姫様が、無実の罪で処刑されようとしているとききました! お顔は存じ上げませんが、上の階から逃げてこられたということは姫様でしょう!」 はやく逃げて、と小さな子どもが叫んでいる。

「な、何を……」

ナタリアさんは震え上がった。「わ、わたくしは、王家の血をひかぬ偽物です……。ですから、私のために危険を冒してはなりません。どうか逃げて!」 ナタリアさんの悲鳴に、みんなあっけにとられて、それから笑った。あんまりにも声が重なったから、それはまるで渦のようで、ナタリアさんはぽかんと口をあけたまま瞬きばかりを繰り返した。そんなのどうだっていいんだよ、と彼らは口々につげた。

自分たちのために、療養所を開いてくれたのはナタリア姫で、職に追われた自身のような平民を港の開拓行事に雇ったのもナタリア姫だ。言葉は止まらない。どんどんと市民がなだれ込んでいく。その津波のような彼らに押し流され、出口へたどり着いた。キムラスカの兵士も私達に追いつけない。

ナタリアさんは泣いていた。溢れる涙を拭うこともできなかった。それでもバチカルの市民である彼らはナタリアさんに声をかける。生き延びて、帰ってきてください。戦争を止めてください。すごい、と思った。全部、ナタリアさんが民のためとしてきたことだ。

私達は疾走した。バチカルの城が、雲に隠れるように遠くなる。「だから、言ったじゃないか」 そんなとき、ふと、ガイさんが呟いた。ルグニカ平野で、あのとき。



「きみは     どこまでも王族なんだってさ」







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2019-12-20