グランコクマの宿で、彼の本当の名を教えてくれたとき、ガイさんは不安の顔の中に、どこかほっとしたような、そんな雰囲気もあった。その気持ちが、今、とてもよくわかった。言ってしまったことに後悔はあるけれど、それでもやっと伝えることができたという安堵の気持ちに胸を押さえた。


二人で話すこともあるだろう、と私とガイさんを除いて、みんな消えてしまった。
私達は、互いに何を言うこともできないまま、ただ無言のまま机を挟んで、距離を開けたままだった。幾度かガイさんが深く息を飲んで、吐き出した。それからあまり見たことがないような、戸惑っているような、そんな顔を見せて、僅かに彼は口元を動かした。

「その、きみは……、なのか?」

その言葉をきいて、少しだけ笑った。

「以前にも、お伝えしたかと思いますが、は名字で、、が名前なんですよ」

一番最期の、ガイラルディア様との言葉だ。彼は顔をくしゃりとさせて、片手を顔で覆った。その姿を見て、ああ、そうか、と思った。
いくら言葉を重ねても、伝えたとしても、それを事実と信じるかどうかは、きっと別の話だ。心のどこかで納得しなければ、違和感だけが残り続ける。

(信じて、くれなくてもいい、と言ってたのに……)

やっぱり、心のどこかでは期待していた。きみはだったんだな、とガイさんが笑って言ってくれて、そんな彼にお久しぶりです、と返事をする。でも、現実はこうだ。彼はただ戸惑っていて、言葉を選んでいた。「きみは、初めから、俺の目的を知っていたんだな?」 それから私を見て紡がれた言葉が怖くて、首を振ってしまいそうになった。ただ、私は見て見ぬふりをしていた。彼の苦しみに、なんの手助けをすることもなく、のうのうと生きてきた。

返事をすることもできなくて、固まる私に、「いや、さっき言ってたことだよな。悪い」 そうガイさんが言ったから、「ち、違います! いえ、違う、というか……そうです。全部、知ってたんです」 慌てて首を振ったあとに、何を取り繕うつもりなんだ、と拳を握った。

そうか。そうか……、と、ガイさんは幾度も言葉を繰り返した。彼がついたため息が怖くて、震えて、できることなら、全部が嘘だと言ってしまいたかった。でもそんなこと、できるわけもなかった。

互いに無言のまま、気まずい時間が過ぎたとき、「少し、時間をくれないか? 冷静になりたいんだ」 決別の言葉だった。まるでそれは冷たい刃のようで、震え上がった。涙がこぼれないことに驚いた。わかりました、と返答した自分の声に安心した。いつもの声だ。これくらいのふりなら、もう上手にすることができる。


(私は、自分の自己満足を、押し付けた、だけなんだ……)

ガイさんが、優しいから、勘違いをしていた。
覚悟をしていたつもりで、本当は何もない。自分の伝えたいことを、一方的に彼に叩きつけてしまったことをひどく悔いて、情けなく、申し訳がなかった。






それから一晩たち、ナタリアさんはバチカルに戻ることを決意した。「あなたの過去のことは、正直、私にはよくわかりませんわ。でも、私達に向き合ってくださったということは、事実なのでしょう? 私も、逃げてばかりではいられませんわ」と彼女は短い髪をかきあげて、口元に笑みをのせた。

ナタリアさんにどう返答すればいいかもわからないまま、私はガイさんと言葉を交わすことなくバチカルに戻った。とは言っても、ナタリアさんは名目だけ言えば、“王女を偽った大罪人”だ。堂々と正面から乗り込むには難しい、と考えていたところに、イオン様だ。「そのあたりのところは、僕にまかせていただけませんか?」 とにこりといつもと変わらない笑みを落としていた彼なのに、やはり彼は最終兵器だった。


「私はローレライ教団導師イオン。連れのものは等しく私の友人であり、ダアトがその身柄を保証する方々。無礼な振る舞いをすれば、ダアトはキムラスカに対し、今後一切の預言を詠まないだろう!」



杖を地面に突き立て、叩きながら、胸を張り宣誓する彼を見て、ぽかんと口を開けてしまった。イオン様はローレライ教団の、最高指導者である。そのことは前提知識としてしっかりわかっていたはずなのに、やっぱりわかっていなかったらしい。彼の言葉に、キムラスカの兵は後ずさった。私達を捕らえることなく、彼らには、ただ平伏のみが許されていた。そうして、インゴベルト陛下との対談は、いとも容易く行うことができた。


ナタリアさんを、血がつながっていなくても、娘だと叫んだのはルークさんだ。例え髪の色が、瞳の色が違ったところで、記憶までは否定できない。ナタリアさんは、ただ毅然とした姿で、陛下と向き合った。自身が罪人であるというのなら、それでもいいと。ただ、今は、マルクトとキムラスカ、両国が手を取り合うべきだ。そう、ただまっすぐに背を伸ばして、彼女は主張した。
(ナタリアさんは、すごいな)

血も、生まれも関係ない。彼女はただ王族として、この国を憂いでいた。すでにインゴベルト陛下のお心は、ナタリアさんに傾いている、ような気がした。ただ一国の王として、決断をすることができなかった。「ここは一度、引きましょう。後日改めて、陛下の意思を伺いたく思います」と飄々と口にしたのは、やっぱりジェイドさんだった。なんのかんのと、彼の手練手管で無事に城を脱出し、一晩宿に泊まることになった。その間に、陛下のお心が固まってくれればありがたいのに。

バチカルと言えば、ファブレのお屋敷があるけれど、さすがにそちらに顔を見せるわけにはいかない。シュザンヌはさぞ嬉しげに喜ぶだろうけれど、クリムゾンはあまりにも王に近すぎるし、その上私はいまだに黒い髪の色のままだ。生まれ育った街の、それも宿屋にいるのだ、と思うとなんだか不思議だった。

「……その、、さん」
「へ!?」

そしてルークさんにかけられた声に、驚いて飛び跳ねてしまった。

「え、その、なんか俺、おかしなこと言ったか?」
「言いましたよ! とってもものすごく! びっくりしました!」

彼なりに理解を深めようとしてくれているのはわかるけど、深めすぎである。「ルークさんは、気を! 使いすぎです! 私はあなたの姉ですよ!?」「そ、そうだよな、うん……って姉じゃねえよ! 妹だよ!」 さすがにそれは嫌だって言ったろ! と叫ぶ彼に、慌てて口元を押さえた。うっかり本音が漏れていた。

でも、「そうだよな、は、だもんな」と笑ってくれた彼に、なんだかとても救われる気持ちだった。


宿の部屋は、個室だった。おそらくナタリアさんの心情を考えてのことだろう。ここはいうなれば敵地のようなものだから、本来ならいつものように二人部屋にすべきなのだけれど、部屋自体は隣接しているから何かあればすぐに対処できるし、なにより宿屋の店主も、こちらの事情に精通している。この間の騒ぎのときに、ナタリアさんの顔を見たという彼は、すぐさま彼女に頭を下げて、本当によかった、と幾度も涙をこぼしていた。彼も過去に、ナタリアさんの行動に救われた一人だった。



ナタリアさんは、本当にすごい人だな、とベッドの上に座って、ぼんやりと窓を見ていたとき、扉がノックされる音が聞こえた。万全の体制をとっているつもりだけれど、それでも万一、ということはある。警戒をしておいて損はないはずだ。私はいつでも逃げれるように窓枠に手をかけて、「はい」と返事をした。ゆっくりと、扉が開けられた。ガイさんだった。

お互いぼんやり見つめ立っていたとき、「あの、入ってもいいか?」「えっ、あ、はい、えっと、どうぞ!」 慌てて手のひらを差しのべた。ここはファブレの家ではない。彼がこそこそとする必要もないのだ。

でもそれでもいつもと同じように彼は椅子に腰掛けて、私はそこよりも少し離れたベッドに座った。けれどもそうしたあとで、こんなところではなくて、彼の隣の椅子に座ってもいいのかもしれない、と思った。もう距離を開ける必要はないのだ。そう思考したあとで、女性に触る、触らないの問題ではなく、私に近寄られたくはないかもしれない、と気づいた。今頃その考えに至る自分のお気楽さに笑ってしまった。


何をもってガイさんが来たのか、まったくもってわからなかった。彼の表情を窺ったところで、読み取ることもできない。ただ、どちらかと言えば、何かが抜け落ちたような。すっきりしたような顔をしているような気もした。「少し、時間が欲しいって言ったろ?」 そうガイさんが言ったものだから、何を言われているのかわからなくて首を傾げた。


「えっと、あの……」
「ん? いや、言ったよな。うん、言ったぞ」
「た、たしかにおっしゃってましたけど、あれはそのとりあえずあの場をおさめるためのもの、といいますか」

社交辞令というか。そういった類のものだと思っていた。
ガイさんはぽかんと口をあけて、「まさか! 本当に少し、冷静になりたかっただけだよ」と驚いたような表情をしたあと、「ごめん、俺の言い方が悪かったな」 と謝った。

いや、確かに言葉通りに捉えるのなら、ガイさんの言う通りだ。あのときの私は、ひどく卑屈になっていたのかもしれない。でも、冷静になったところで、なんだと言うんだろう。嫌な想像ばかりが膨らんでいく。まるで傷口にナイフを向けられているようで、両手を胸元に合わせて、どんどん体が小さくなった。「……?」 ガイさんが、少し腰を上げた。それから、少し彼は考えて、ゆっくりとこちらに近づいた。

いつもよりも、ずっと距離が近い。慌てて避けた。なのにガイさんがこちらに手を伸ばした。わずかに、彼の指先が私の頬に触れた。びくりと震え上がったのは同時だった。びっくりして、驚いて、恐らく私は顔を真っ赤にして口元を押さえた。ガイさんも、同じような顔をしていた。「わ、悪い」「い、いえ……その、でも、すごい、です」 ちょっと前まで、こんなことできなかったはずなのに。

ガイさんに、ほんの僅かでも触れられた箇所が、ひどく熱くて、嬉しかった。こんなときでも、そう感じてしまう自分が嫌になる。「の、おかげだよ」 そうガイさんは、静かに呟いた。聞き間違いかと思ったのに、ガイさんは青い瞳でじっと私を見つめていて、どこか口元を緩ませていた。


「だから、のおかげさ。確かにきっかけはダアトだったけれど、が教えてくれたんじゃないか。彼女たちの気持ちを」


彼が、何を言っているのかわからなかった。あの、でも、とバカみたいに言葉を繰り返して首を振る。何をどう言えば、と混乱して、それから、「わ、私の言ったことを、信じてくださるんですか……!!?」 ガイさんは何を言っているのか、と不思議気な顔をした。「信じるもなにも、言ったじゃないか。俺も君を信じるって」


     俺は君の信頼が嬉しいし、それに応えたい。それに万一、きみがどんな人間で、どんな姿だったとしても、俺も君を信じるよ


「で、でも、それは……!!」

ダアトへの道のりで、たしかに彼はそう言っていた。けれども、あのときと今とでは状況が違う。「私は、ガイさんをずっと騙していたんです!」 そうだ。いくら綺麗な言葉を言ったところで、本当はそうなんだ。もっと醜く伝えればよかった。真実を彼にさらけ出せばよかったんだ。なのに私はその勇気が持てなかった。

「……それは、俺も同じだろ? むしろ、俺の方がひどいかもしれない」
「ガイさんは、仕方ありません!」
「俺だって、きみに同じことを言いたいよ」

静かな声なのに、ひどく重たく響くような、そんな声だった。「時間が欲しい、と言ったのは、きみに、どう言えばいいのかわからなかったんだ。俺はきっと、君を傷つけていた。そのことが、ひどく申し訳なかったんだ」 なんでそんなことを言うんだろう。やめて欲しい。優しくなんてしないで欲しい。

     ずっと、辛かったな」


声が、溢れた。
我慢をしていたはずなのに、ぽろぽろと両目から水滴ばかりがこぼれ落ちて、泣きたくなんてないのに、息を整えようとすればするほどに苦しくなる。そんなことない、と首を振りたかった。生まれた場所も、住んだ屋敷も、家族も、全てがなくなってしまった彼の方が、よっぽど辛くて、苦しかったはずだ。そうわかっているのに、涙がとまらなかった。「信じてなんて、くれるはず、ないと」 そう思ってたのに。

嗚咽がこぼれた。涙が落ちる度に、彼はすまないと私に謝った。「また俺は、君を悲しませたんだな。本当に、悪い」 そう言った。「信じるよ。いや、信じる、じゃないな。わかっているよ。証拠なんてものが、どこにもなくても。君がであったことを、心のどこかで納得しているんだ」


     いくら言葉を重ねても、伝えたとしても、それを事実と信じるかどうかは、きっと別の話だ。心のどこかで納得しなければ、違和感だけが残り続ける。


なら、その反対もあるのだろうか。そんな私にとって都合がいいような奇跡が、あるんだろうか。


滲んだ視界の向こう側で、ガイさんは困ったように笑っていた。「できることなら、君の涙をぬぐってやりたいんだが、まだそれは難しいな」 こちらに手を伸ばして、それから小さく拳を握った。「、君の話を聞いて、俺は何を言うべきか、伝えるべきか、ずっと考えていたんだ。でもいくら考えたところで、出てくる答えは一つきりで、これ以上、うまい言葉は思いつきそうにない」


「俺は、君が好きだよ」


ぱちりと瞬いた。こぼれた雫が顔を覆った自分の手のひらに伝う。「きみがであったとしても、・フォン・ファブレだとしても、考えても、出てくる事実は一つだけだ。俺は、君のことが好きなんだ」 彼の言葉が、ぼんやりと頭の中に染み入っていく。

「……はい」

びっくりして、ただ呆然と呟いた。

「私も、ガイさんのことが、好きです……」 

それから、勝手に言葉が飛び出ていた。
気づけば涙は止まっていた。それから、ひどく頬が熱くなって、顔をそむけた。とてもとても恥ずかしくて、彼の顔を見ていることなんか、到底できるわけもなかったからだ。







BACK TOP NEXT


2019/12/27