前の話の続き。
ぼくの地球を守ってっていうか、ボクを包む月の光っていうか。




茫然とした。






意味が分からない。ただいまー、と言いながら開けられた扉の向こうでは、自分の弟の嫁さん候補のこれまた弟が仁王立ちになりながらも固く筋肉を硬直させぶるぶると両の拳を震わせており、その前には、可愛い(今となっては図体のでかい生き物だが)弟が、驚いたように頬を押さえ込み、床へと転がっていた。


なにやってんだ、こいつら。


そんなことを考える前に、はじめが腕を振り上げ、どこか幸せそうな表情をする輪へと拳を振り上げる。「ちょ、ちょ、ちょっとまて!」 後ろから抱きこむようにそいつを止め、「放せ、俺はこいつをぶんなぐってぶんなぐってそのニヤついた顔を変形させるまでぶん殴らなきゃ気がすまねぇ!」と恐ろしく物騒な発言を繰り返す親友に、「お前なにいってんの!?」 と、暴れる彼を押さえつけるように玄関先でファイティングだ。


一体輪は、はじめに何をしたっていうのだ。ありすさんのことに違いないと理解はしているが、それでもこのキレッぷりは尋常ではない。通常が1キレなら今は確実に100キレだ。理性がふっとんだかのように馬鹿力を発揮する親友に内心冷や汗を流しながら、「輪とりあえず逃げろ! 今すぐ!」 と叫んだ。
暴れるはじめの拳が脳天へとぶちあがり、ぐらりと視界がぶれた。これは痛い。


輪はといえば、ぼけーっと幸せそうな顔のままにへにへと笑みを繰り返していて、俺の弟はこんなに馬鹿だったろうかと一瞬意識が遠くなりかけたのだが、彼ははっとしたように、その場から消える。(瞬間移動!)(ESPの無駄遣いだ!)お前はどこの悟空だよ! と叫びたい気持ちを抑え、この暴れる獅子をなんとかせんと、と自分の心へと喝をいれた。


「待ちやがれクソガキがぁああ!!」 とドアがぶち壊れそうなほど、叩きつけるように扉を開けたはじめに、「いやいやお前が待てよ、輪が何したってんだ、落ち着けって!」「俺は、ジューッブンにレイセーだッッッッ!!! ぶち殺すあのガキ!」「嘘つけ明らかに発言が矛盾してる!」


叩き開けられたドアから大声をあげながらずるずる引きずり出される男二人に、二つ隣のご近所さんが「小林さん坂口さんどうしたの」ときょとんとした表情のまま僅かにドアから顔を覗かせていた。
すみませんなんでもないんですコイツちょっと酒入ってるんですと俺は半泣きでヘコヘコ頭を下げていると、「俺は酔ってねええ!」 と叫ぶ男の声が妙に信憑性を増す。「まあ夜だから、あんまり騒がないようにね」としめられたドアにほっとしつつ、暴れ狂っていたはずの男は、今度はぼろりと涙をこぼすように、柵へと手をかけた。
何をやっているんだ、こいつは。


「………飛び降りる気かお前」
「ちげーよバカヤロウ、お前の、お前の、本当にお前の」
「さっきから何なんだ。輪だってさぁ、そりゃあ昔はちょこっとおませお子様だったけどさぁ、もうそろそろ高校生よ? 自制心ついてると思うし、下手なことしねーって」
「したんだよあのガキは!!! しかもちょこっとか。あれがちょこっとおませなのかお前の中で!!!」
「あのお静かに、ちょ、くるし、マジくるし、ぐげ、襟をつかむな!」

「アクティブすぎるわ!」と怒鳴りちらしながら、彼は口元をへの字にし、「ほんとになぁもうお前ん家の貞操概念どうなってんだよ、もう俺、もう俺」

「どうなってんだといわれても。円ちゃんはまだまだちっちゃいしなぁ」
「弟の方だつってんだろ!」


人ん家の姉貴襲いやがって!


そんな破廉恥極まりない内容を叫ぶ彼に、俺は一瞬頭が真っ白になった。「え? ごめんなに? え? もう一回」「輪が姉ちゃんをおそ」「いやいいいわないで!」
彼を押さえつけていたはずの両手は、自分の耳へと持って行き、ぐらぐらと遠くなる平衡感覚に、思わずはじめと同じように、柵をぐっと握り締める。

赤ん坊ができたんだと。

と静かにつぶやいた彼の声に、俺はパクパクと口を動かした。「………っ、え」 やっとのこと転がした舌が、どうにも上手く発音できない。パチン! 自分の頬をぶっ叩く感触に、はっとして、いった。「な」「な?」


「名前どーすんの!?」
「兄弟でおんなじ反応するんじゃねえええええ!!!」






随分な騒ぎになった。坂口家小林家が一つの部屋へと集まり、でれでれと幸せそうな顔を続ける輪に父親よりも先にはじめが再びぶちぎれ、振りかぶった拳を何故か俺が勢いよく頬で受け止めることになり、円ちゃんはきゃっきゃと笑い、いつの間に酒が入りこんだ彼らはべろべろに、はじめはとうとう泣きだしながらゲロゲロ人様のトイレで胃の中身を吐き散らかす。

はじめの所為で止まらない鼻血と変わってしまった顔型に、あー、くそう、と氷を当てていれば、ありすさんがどこか困ったような顔をした顔をして、はいどうぞ、と箱型のティッシュを渡してくれた。

「ごめんね、はじめが」
「………ヤ、もー、なれっこッス」

だからって痛いものは痛いでしょう、とくすくすと笑う彼女に、赤く染まる鼻のティッシュはどうにも格好がつかんと、ほんの少し恥ずかしくなった。



少々不思議だ。あのぺったりとしたお腹の中には、俺の甥っ子もしくは姪っ子が入ってしまっているらしい。名前は木蓮の蓮だそれ以外譲れないと見当違いな方向に主張する弟に、少々生暖かい視線を送りそうだ。ちっちゃい頃はまだかわいかったのに。


なんとなく、会話をずらしたくて、「これから大変ッスね」と呟けば、ほんの少し沈めた彼女の影に、「あ、いや、違う、責めるとかそういうこといいたいんじゃなくて、その」 言葉が続かない。しりすぼみになる自分の声を耳で聞きながらも、俺は何で毎回こんなんなんだろうか、と、いくつになっても変わらない考えなしに、頭が痛くなった。


「そういえば、元気ですが、迅八さんとか、錦織さんとか、桜さんとか」
「ああうん、今でもね、時々会ってるよ。みんな元気。くんも今度一緒に会おうか」
「いやあ、なんか会いづらいなぁって。俺、結構バカやったし」
「みんなもね、時々言ってる。くん元気? って」
「はは……じゃあ今度、会いに行こうかなぁ…」


チクチクと、突き刺されるようなそれは、未だに棘を残していた。形がない、静かなものが滑り落ちる感覚が許せなくて、我慢ができなくて、ただただ混乱した。ぽんぽんと頭から飛び出た何かは、俺の視界をせまくするだけで、戻ってくることはなかった。


「ありすさん」

冷たい氷が、瞼へと当たる。あのときの自分は、一体何を考えていただろうか。こんな未来を、少しでも予想していただろうか。ただ、戻らない過去にしがみついていただけだったんじゃないだろうか。

なぁに、と静かに首を傾げる彼女に、ゆるりと瞳を閉じ、頭を下げる。

「ありすさん、本当にごめん」

ほんの少しの間の後、彼女はパタパタと手のひらを動かしながら、やだちょっとくんどうしたの、と驚いたような声をあげた。けれどもそんな彼女を見ないふりをして、俺は言葉を続けた。

本当は、ずっとずっと、俺は、彼女に謝りたくて仕方がなかった。


「ごめんね、ありすさん。俺、ありすさんにひどいこと言った。俺さ、輪が可愛いんだよ。今じゃあもうデカイだけだけどさ、あのときは可愛くて小さくて、守らなきゃって思ってた。だからなんだって言われたらそうなんだけど、俺、どうしたらいいかわかんなかったんだ。ごめんね、ありすさん、ひどいこと言ってごめん。ガキだったよ。ガキだった」


          あんたが、あんたがもっと……!


伸ばした手のひらで、彼女の襟元をつかみ、俺は叫んだ。本当は殴ってしまおうかと思った。おそらく俺は、自分で鏡を見ることもできないぐらいの顔つきだったはずだ。喉からすりだした声は、まるで血で滲んでいるようで、今でも耳に残るその声は、身ぶるいがした。

襟をにじりしめたままの彼女は、とても簡単に崩れ落ちてしまいそうだった。ぼろぼろと零す涙を見て、何か気持ちがおさまらなくて、振り上げた手のひらを突き飛ばすように、迅八さんにぶん殴られた。「お前なにやってんだよ! 何してるかわかってんのかよ!」        うるせえ黙れ! 

いけないとわかっていたのだ。けれども見つからないはけ口に、痛む頬を隠すように、ただ汚い言葉で罵倒した。自分が何をいったのかどうか、はっきりと覚えていない。ただのぼせあがる感覚だけが胸へと残り、視界が白く染まっていた。
けれども、彼女は覚えているんだろう。
きっときっと、一生忘れることがないんだろう。



ごめんなさい、と土下座するように下げた頭に、やだやめてよ、と困ったように呟く声の合間に、鼻をすするような音が聞こえて、ふいに顔をあげれば、目がしらを押さえた彼女が、こくりと息を飲み込んでいて、「やめてよ、ありすさん、泣かないでよ。俺ありすさんに泣かれたら、どうしていいか、わかんないよ」

こっちまでぶれてきた視界の中で、瞳を一生懸命にこする彼女が「別にね、泣きたくてないてるわけじゃないのよ、ほんとに、気にしてないから、気にしてないからね」「嘘つかないでよ、俺のこと殴っていいからさ」「ばかね」


ぱんぱん、とありすさんは短く、自分の口元を叩き、柔らかく眼尻に皺を寄せ、八の字眉毛のまま、困った子どもを相手にするかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。



「あのね、くん、あのときは私、こんな風になるだなんて、全然想像もしてなかったのよ。くんと、今こうやってお話できるなんて思ってなかった」

くすくすと笑う彼女の言葉が、少々胸に響いた。顔を伏せれば、こっちを見なさいとでもいうように、彼女はひょいと俺の顔を持ちあげて、にっこりと笑う。「それだけでね、凄くすごくうれしいの。私、それだけですっごく幸せなんだよ」

「過去があるから、今があるって、素敵な言葉ね。でもね、とらわれ過ぎても、きっとダメなんだと思う。本当に、そう思うもの。もちろん、蔑ろにしちゃだめだよね。難しいね。輪くんの名前は、輪廻って意味なんでしょう。過去と、未来がくるくると回るんだね。くんは、輪くんのお兄ちゃんじゃない。知ってるもの。くんは、優しい子だって、知ってるからね、大丈夫だからね」


とんとん、と優しく叩かれた背中は、ほんの少し苦しかった。ただの慰めにすぎない言葉が、ゆるゆると氷解することが、悔しかった。きっと自分は、楽な方へと逃げたいだけなのだ。許されたとそう感じたいだけなのだ。

撫でられた頭は、少々気恥しく、耳が赤く染まった。「ありすさん」 掛けた言葉に、「なぁに」と彼女が優しく答えた。

「輪を、よろしくね」
「うん」
「元気な赤ちゃん産んでね」
「うん」
「ちゃんと、幸せになってね」
くんもね」
「うん」


いつの間にか、俺は大人になっていた。けれどもやはり、図体ばかりがでかくなっているだけで、いつまでたっても、ちゃんとした、胸をはれる人間になれない。なんでだろうか。自分のまわりの人間は、こんなにも素敵なのに。

苦しいなぁ、と思いながら、「うん」、ともう一度深く頷いて、にっと笑う。まだ、男の子か、女の子か、そんなことさえもわからないのだけれど。(かっこいい、大人になろう) この子にとって、胸をはれる大人になろう。
まだまだ、成長することのない心を乗せるように。
(待ってるからな)


伯父さん、待ってるからな。





2009/01/24
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