この話の律視点





昔から、視線を感じていた。そういうものには敏い方だと思う。「わあ、にいさんすごいすごい」と空中にふわふわ揺れる蛇口の水に両手を叩いていたとき。公園の木の上から、兄弟一緒に飛び降りたとき。その人は真っ青な顔をして、一目散にかけてきた。
「キャッチ、あぶない!」

全然危なくなんかない。なんたって、兄さんがいるのだから。彼女は僕と兄さん二人にぺちゃんこにされて、笑っていた。「いやー、危なかった。気をつけなよ」 はい、と昔は殊勝に頷いていた。なにかもやもやさせた気持ちを抱えてたけど。










「さっきの人って、影山くん達のお姉さん?」 と、言うわけではないよね、と花沢さんが首を傾げている。違うよ、と近所のお姉さんで、はとこなんだ。と上手に答えるほど、僕は兄さんほど素直じゃない。「お姉さん、仕事中だったのかな」 せかせかと慌てるように彼女は去っていった。コーヒーを片手に持ちながら、兄さんがぼんやりと彼女の背中を見つめている。
このところ、あまり姿を見ることがない。

少し前までは違った。家が近いものだから、よくよく見かけることが多い。ついでに挨拶すればいいものを、じっとこっちを見ているだけで、そのままどこかに消えてしまう。(見るくらいなら、声をかければいいんだ) 毎回そう思って、近くを通り過ぎる度に、意地でも気づいていないようなふりをしてしまう。

姉でもなんでもないのに、両親さえも、彼女をお姉ちゃんと呼んでいる。「お姉ちゃんがいるから、あなたたちも安心して外で遊ばせられたのよね」といつだか笑って話しているのをきいて、子どもながらに腹が立った。なんで自分が、あの人に面倒を見られなければいけなのだ。

気づいたときには、あの人はセーラー服を着ていて、そこに追いついた頃には紺色のブレザーだ。それがすぎれば、制服なんてどこぞに忘れてしまったような顔をして、ときおり自転車を転がして走っていく。ひっぱって、ひっつかんで、追いかけて。まったくもって追いつかなくて、気づいたら先に進まれている。
憤慨した。

「スーツだったね、お姉さん。大変そうだな」
「……そうだね」

少し、兄に返事をすることをためらった。今度もまた変わっていく。一歩だって進まない。(なんでだか、腹が立つ)



   ***



「おお、影山兄弟もいるじゃないか! まあいるか!」
さすがは正月、新年だね、と言いながら勢い良く障子を開けるその人は、本当に正しく年を歩んでいるのか、一度うかがってみたいところだ。「お姉さん、久しぶりです」 目の前では兄さんが行儀よく座っている。とりあえず、無言で会釈した。

「いいね! 礼儀正しい! そんな君達に朗報だ!」

懐から出した白い封筒を扇状に広げる。心当たりのあるその姿に、にわかに子どもたちがざわついた。「社会人だからね、潔くお年玉をあげるよ!」 大人の義務だからね! と言いながら配る姿は、若干のやけっぱちのようにも見える。「はい茂夫くん、律くんも」 事前に準備がされていたのだろう。黒い墨汁で宛名がしっかりと書かれている。「いりません」 なぬ、と彼女が口元をへの字にさせた。「子ども扱いしないでください」

おそらく今まで、自身はそう言いたかった。そうだ、こう言いたかったのだ。「いやいやだって」 彼女が眉をひそめる。「……子どもだし?」「違います」「……おねーちゃん、だし?」「あなたのことを、姉と呼んだことはありません」 まじでか……たしかに……と呟きながら、ガクリと膝を下ろす彼女を見下ろす。なにかひどく、すっきりしていた。

「り、律が受け取らないなら、僕も……」
そして震えながら、涙目で兄がお年玉を献上していた。

「いやいや兄さん、兄さんはいいよ! これは僕の都合だから!」
「でも……お姉さんが、お姉さんじゃないなら、僕も違うし……」
「いやいや、兄さんはいいんだよ!?」
「そうだよ、お姉さんって呼んでくれて、いいんだよ……!!」
さんは黙ってください!」
「グッフ」

辛い、高校生のはとこが辛い、と涙目で崩れ落ちる彼女を見下ろしながら、たったの一度きりも、彼女を姉と呼んだことがないことに気づいた。
そう、たった一度きりも。



2016/10/28
back
モブサイコアニメ化するってきいて多分いいんだろうなって思ったらやっぱりよかった。