Dona Dona

黒髪青年

「ごちゅーもんは」

ただいつも通り、へにゃりとした笑みのまま、聞いた。それだけだった。

「蕎麦」





黒髪の青年は、そう呟いた。同じアジア系のリナリーさんともどこか違う顔つきで、彼は長い髪の毛をポニーテールのように一つにくくり、一見すると女の人にも間違うほどに美人さんなのに、彼は一体何の機嫌が悪いのか、思いっきり眉間に皺を寄せて呟いた。

ぽけっとしたままの私に、「オイ」と低く低く声を呟き、「は、ヘイ!」 と反射的に私は顔を上げる。「ご、ごちゅう、もんは」

確認するかのように、声色を落として、彼を上目に見詰めると、その青年は、さっきいったじゃねぇかと明らかに面倒くさそうに眉間の皺を深くした。
びくり、と私の肩が震えてしまったのだけれど、後に引くことはできない。

「ご、ごちゅう、もんは!」
「………蕎麦」

無精無精に呟かれたその言葉を、私は自分の耳へと、しっかりインプットした。正確にいえば、その発音を、しっかりと。
びりびりと脳髄に衝撃が走って、ぶるぶると指先が震えた。多分嬉しさのあまりだった。あの、すみません、その、それ、
(Soba、じゃないんですか)

がばっとカウンター越しに伸ばした私の手のひらを、「アア?」と鬱陶しそうに彼は見詰めて、ぺいっと軽く手で叩く。
それでも私は諦めずに、上半身ごと乗り出すと、彼は呆れたように身体をのけぞらせ、口元を引きつらせる。それでも私はもっともっととぐいっと身体を乗り出す。そして、

「お、お話しましょう!」

久しぶりに口から飛び出した母国語に、ドキドキして死にそうだった。一番始めの発音が中々口から出なくて、それでもしっかりと私の口から耳に響いた言葉に、ハー、と長い、ため息なのかなんなのかよく分からないような、息が勝手に漏れる。

彼はそんな私を見詰めて、思いっきり眉を寄せ、「何いってんだテメェ」と呟いた。聞き覚えのあるその言葉にも私はドキドキして、たったそれだけの事なのに涙が出るほどに感動した。多分きっと、真っ赤に頬が紅潮しているに違いない。

「わ、私の言葉変じゃないですか、聞こえてますか、大丈夫ですか」
「……脳みそ湧いてんじゃねぇか」
「う、うああ、素敵なことば」
「ハァ!?」

感動のあまり両手をぎゅう、と握りしめていると、背後から真面目に仕事しろ! と怒声が聞こえた。彼、黒髪青年の背後に作られた列にはっとして、慌てて「蕎麦!」と背後で鍋を振り回す料理人さん達へと大声を上げる。

その隙にとやっぱりめんどくさそうに身体を回転させて、席へと歩きだそうとしていた青年の姿を、私はしっかりと目の端で捕らえた。

「ま、待って、お願い!」

きっと彼と私以外だれにも分からない言葉で、思いっきり問いかけても、振り返ってくれさえしない。それでも、諦める事ができなくて、すみませんと前のお客さんに頭を下げ、「名前、名前教えてください、私はです、お願いします!」

今までいう必要性なんてまったくなかったフルネームを大声で叫んでも、彼は思いっきり私を無視して、歩みを進める。
けれども、この質問にだけは、答えて欲しかったのだ。

「あなた、日本人ですよね!?」


ただざわつく食堂の声が反響するだけで、返事はない。


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2008.12.17



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