まっすぐに、手が伸びた。くるくる回る視界の端で、やわらかい手が俺を撫でる。
その手がとても大きいのではなく、俺が小さいのだと、はっと気づいた。


第2話   わすれるなわすれるな



、忘れたらいかんえ)

す、と彼女は俺の頭を撫でる。心なしか、光が多い俺の視界の中で、彼女の顔は丁度上手い具合で見ることはできない。俺は人にふれられる事が苦手だ。もし、そうだもし見てしまったらと心の中でいつも思う。

。忘れたらいかんえ)

けれども彼女にふれられる事はいやではなかった。思わずビクリと体を震わす事もなかった。彼女だけは俺に触れてもよかった。いや違う。(………お兄ちゃん)俺には妹が一人いた。(……お兄ちゃん)笑うと可愛らしいえくぼが出来て、俺はとてもその子がすきだった。

(あんたのな、その力は、不幸にするためにあるんやないよ。みんなみんな、知ってほしいんよ。みんな苦しいんよ)
(なんでおれがそんなもの見いひんとあかんの)
(そんなん知らへんわ。あんたやったんやから、しゃあない思いいな)
(いやや、おれこんなんいやや。触りたぁない、触ったらみてまう、みてまうんや)
、わすれたらあかん)


いやや。俺はいやや。
ぐるぐる回る気持ちの中で、ゆるゆると俺をなで続ける彼女に、叫んだ。けれども彼女はただ続ける(わすれたらいかんえ) 何を。何を忘れるなっていうの、何を、俺の何を。(いやだ) また俺は叫ぼうとして、喉の奥を震わせた。けれどもああ何でなのか。げふりと喉の奥に何かが詰まったように、何もいう事ができない。(忘れたらいかんえ)小さく、彼女の声が、小さく。(わすれたらいかんえ)ああ、姿も、とてもとてもとても、小さく、ああ、やめてくれお願いだいかないでくれ

(かあさん)


ぎゅ、と伸ばした手は宙を掴んだ。ぐるんと空気の中をすべって、瞳の向こう側には、まだら模様の茶色い木。腹の上に、何かが乗っているようで、重かった。ちょいと目をやれば、白いシーツの中で埋もれた、ちらりと見える緑と、つぶつぶした肌。「………ジョセフィーヌ……」(おっ前なんで)

ちらりとそいつは俺を見て、ふんっと軽く鼻をならしたかと思ったらそのままピタリと俺の腹にあごをくっつける(くっそ間宮、放し飼いにすんなよなコイツ)

おかげで一瞬にして冴えてしまった自分の頭を布団の中でぶるりと振った。
(あの人は、もういない)

俺はもう、あんな小さなガキじゃない。ガキじゃないんだ。振り回されるだけのガキなんて、もういやなんだ。ごそりと、深く、布団の中にもぐりこむ。
「………おい、間宮」

ほんの少しの間に、「なんだ、」と上のベッドから、少し不機嫌そうな声が聞こえる。(そうだ俺は、“”なんだ)(なんだ)

「………ジョセフィーヌ、また逃げだしてんで」


記憶の底で、ぬっぽりと沈む。ああアイツら元気かなと思って。
遠く遠く、微かな、懐かしい声が、聞こえた。

(忘れたら、いかんえ。幸せに、ならなあかんよ)


  


2007.10.09