二つ隣のクラスの男は、一週間の停学になったそうだ。


第5話   体育の時間にて 3




ぎゅ、と結んだ靴ひもを見詰めながら、思わず唇を噛みしめそうになった。時々ふと耳に入る、男の話。名前も知らないので確認の仕様もないが、あの男以外の何者でもない。    やっぱり、彼はカンニングをしてしまったのだ。

真っ白い運動靴と、ほこりっぽいグラウンドが、妙なコントラストを作っていた。それがこの間俺の頭の中に流れた映像と、ほんの少し一致してしまう。(モノクロの画面に、男がひとり)
ばれていたのだ。彼が、ばれてしまう事が、俺には、分かっていた。


久しぶりだった。この頃、藤代のオネーチャンが見えてから、油断していたのかもしれない。なるべく他人と関わらないように、もし、接触してしまっても、心の準備をして、俺には関係ない、仕方ないを決め込んでおけば、まったくもって問題はなかったのに(やっぱり、気持ち悪い)

さっと見上げた空は、小さくぽつんとした、黒い染みが見えた。ほんの少し、真っ白な雲の色と対比する点は、くるくると小さく、動く(カラスだ) 飛んでいる。カラスが飛んでいる。
(カラスって、かっこええな)

随分昔に沈んでしまった、自分の声が聞こえた。柔らかく響いた幼い声は、真っ黒な服に身を包んで、すいすいと空を駆けめぐる、小さな鳥をじっと見詰めていた。そして今の俺の、腰より小さな俺は、彼に、いったのだ。「魔法使いみたいやね」 小さな点へと、俺は真っ直ぐに人差し指を突き出して、呟いた。



ー! ぱすぱす!」


ふいに戻された視線は、俺の服の上へとつけたゼッケンを、小さくパタパタとはためかせた。真っ直ぐと向かってきたボールに、焦ったように体を動かして、ずるりと足下からバランスを崩してしまったらしい。
見える景色が、気づくとムキムキ。「ー、ぼーっとしてんな!」 首もとに垂らした笛が、ムキムキ教師が声を張り上げる度に、かちゃんっ、と小さな音を出して揺れた。


ごめんホント!」
「ん、別に大丈夫やで藤代くん、ぶっちゃけ俺の所為やし」

例えサッカーボールを力一杯パスしてきたのが藤代でも、彼に非はまったくもってない。謝られるのも居心地が悪いし、しゅんとした顔なんてされてしまうと、なんていっていいか分からなくなる。
取りあえず、大丈夫だというアピールに、じゃりじゃりとした砂の上へと落としてしまった俺の尻を、右手首と左手首を使って、立ち上がった「ほら大丈夫やん    あ、痛」 大丈夫じゃなかった。


ほんの少し赤くなった足首に、なんだこれ、と一瞬考えた後、「あ、ひねってるんじゃないか!」と大声を出した藤代に、え、これがそうなのか、と自分の左足首を、ぎょっ、と見詰めてしまった。大変だ、初体験だ。
ずれた靴下の奥で、ほんの少し赤く貼れている部分を、どうすりゃいいんだろう、とぼけっ、と眺めていた俺と違って、藤代の行動は速かった。これが運動部と、帰宅部の差なのかもしれない。「先生俺保健室連れてくる!」 と叫ぶやいなや、俺の右側へと、がばっ、と右腕を掴もうとしたので、俺はさっ、と左腕を上げて、「一人で、」「ばかっ」 ばか!?

バカにバカといわれたショックですっかり放心してしまった隙に、気づけば俺は、保健室の丸いイスへと座らされていた。



鼻の奥をくすぐるような匂いは、消毒液の香りかもしれない。保健室なんて一体何年来ていないのか、想像も出来なかった。病院だって滅多に行かないので、消毒液の香りが、病院を連想する事もない。

可愛らしい猫のキャラクターが、しっかと持った板には、確かに「出張中です」の文字が書かれている。いいんだろうか、と俺が言う前に、藤代はいつの間にかポケットの中に忍び入れていた銀色に輝く鍵を取り出して、ドアノブがガチャリと音を立てた「サッカー部って、けが人多いからさ。先生が出張中のとき、代わりに鍵あずかんの」
聞いてもいないのに、答える藤代は、きっと昔、藤代自身も不思議に思った事だろう。


足をひねってしまったときには、どうすりゃいいんだろうか。頭の中の最低限な知識を引っ張り出そうとしても、怪我をしてしまったときは、心臓よりも高い位置へと上げましょうなんて文章しか思いつかない。ところで不思議なんだけど、心臓より高い位置って、足先とか怪我したときどうすんの? 体が柔らかくないとしんどいんじゃないの?


半分他人事のように意識を飛ばしている間に、目の前にうつった、藤代の手にもった湿布を取り上げた。「ええ、自分でするから、大丈夫や」
不満そうな顔した藤代を、見ないフリをして、透明なシートを、ぴっと剥がす。
どうはりつけりゃいいんだろうか。適当にペタリと貼り付けてみると、藤代が、くいっ、と口先を尖らせた。「あー、それだめだって」
にゅっ、と藤代の手が、俺の左足首へと伸びる。

「触らんといて」


一度いってしまったのだから、もう俺に誤魔化しようはない。正直にいった方が楽だ、と本音を話したっていうのに、素早い動きで俺のふくらはぎをぎゅ、と握って、セロハンテープの小さいようなものを、くるくると人差し指で回す。「ちょっとだけだからさ、我慢してくれよ」


藤代らしからぬ、といえばいいのか、落ち着いたような、まるで俺を諭すような口調に一瞬唾を飲み込んだ。気づけば両肩から伸びる、半透明で、ぼやりとしたような腕の輪郭が、オネーチャンだと気づいた。直接頭にたたき込むような、甲高い声で、『我慢なさい』 姉弟コンボだ、これは。


俺が文句をいわない事をいいことに、藤代は慣れた手つきで、その白いテープを、ふくらはぎの下あたりを、くるくると巻き付けた。ひっついたテープの感覚が、気持ち悪い(はやく、終われちくしょう) 厄日だ。今日は、厄日だ、絶対。

「………ごめんなー」

伸ばした語尾に、思わず目を細めてしまったけれど、未だに忙しなく動く彼の手つきに、ふ、とため息を漏らしそうになった。「別に、ええって。ぼけーっ、としとった俺が悪いんやって」 事実だ。授業中だったという事をすっかり失念してしまっていた、俺が悪い。何度もいうようだけれど藤代に謝られてしまっては、俺が困る。

「それにやね、俺別に何の部活も入ってへんし、捻挫とか、そんなん別に困らへんしな」
「でもさぁ」
「せやから、考え事しとった俺が悪いんやって」


堂々巡りになるような、バカバカしい言葉の掛け合いは、ほんの少し、そこで止まった。消毒液の匂いと、ぴっ、とテープを伸ばす音だけが聞こえる。
藤代の隣では、オネーチャンが、弟の奮闘する姿を、微笑まし気に瞳を細めて、見詰めていた。


いちいち謝られる事も鬱陶しいけれど、延々と会話がない時間も苦しいのだと、久しぶりに気づいた。よくよく考えてみれば俺は、個室に二人きりになるなんて事はルームメイトの間宮以外なかったし、アイツは元々無口だ。その上、のそのそと地面を徘徊するジョセフィーヌのおかげで、色々と紛らわされているというか。


「この頃さ」

藤代も同じ事を考えたのだろうか。吐息のように小さな呟きに、聞こえないフリを決め込むのはとても簡単だったけれど、テープをくるくる回し続ける藤代に、小さく、「なんや?」

、ぼーっとしてるよな」
「そうや。ぼーっとしとる」
「何で?」
「春眠暁を覚えずっていうやん」
「なんだそれ」


俺個人としては、春じゃないだろ! とかいうツッコミを期待していたっていうのに、藤代にそれを求めるのは、ちょっと酷だった。せめて笠井がいるときにいってやるべきだった。
ギシギシと、座る椅子が、足の体勢を変えようとする度に、音がする。

「せやから、いうたやん、考え事」
「考え事」
「せや」
「どんな?」


藤代は、くるくると手首を動かしたままだ。ほんの少しずつ、Uの字のように、白く埋まっていく俺の左足を見て、うん、と小さく頷いた。オネーチャンときたら、弟とその知り合いの会話には傍観を決め込んだのか、くるくると保健室の中を回っている。時々微かに、鼻歌のようなものまで聞こえてくる。耳に響く音が、一つ増える。

「カンニング、考えとる」


絞り出した声に、藤代が、ふっ、と顔をあげた。大きく目をあけていると、ちょこんと目尻についた黒子が、ほんの少し強調されるような気がする。ざんばらに切られた前髪の下に、くるくると瞳が動いた。「、そんな事考えてんの」「ちゃう、俺がするんとちゃう」「じゃあなんで」
藤代の止まった手のひらは、いっこうに動くことはなかった。ふい、と藤代から、俺は視線をそらして、日差しが突き刺さるような窓辺へと顔を向けた。明るい太陽が、グラウンドの砂を反射しているように見える。

「二つ隣の、アレや」
「ああ、バスケ部の、……なんだっけ。の友達だった?」
「ちゃう。名前も知らん」

知っているのは、顔だけだ。しかも、おぼろげな。握りしめた手のひらが、ほんの少し汗ばんでいるように思えた。
薄いガラスの膜の向こうに、大きな空が広がっている。グランドから見る空と、室内から見る空は、ほんの少し違う。太陽の光に、目を細める必要がないからだろうか。
ぽつん。黒い点が、また見えた。羽ばたきも、泣き声も聞こえない。
(そうだ、俺は魔法使いだった)

「なぁ藤代くん」
「ん、なにー」
「もし、」

もし、俺が、ソイツのカンニングがばれるって、知ってたら、どうする?


喉の奥まででかかったセリフを、ごくんと無理矢理飲み込んで、口元を引き締めた。そんな事を藤代にいってもしょうがないし、だからどうしたといわれるのが関の山に違いない。「できた」 軽い声と、ぴりっ、とテープを切る音がする。これがテーピングというヤツなのだろうか。念のため、そっと上下に足首を動かしてみると、ほんの少し邪魔なことを除いて問題なく動いた。

「授業、もどろっか」
「そやね」

そうだお礼をいわなければならない。すっかり自分の足首へと回していた意識を、藤代へと向けて、顔をあげた。満足そうな表情を浮かべて、体操服の袖を、ぎゅ、と短く折っている。「、俺思うんだけどさ」「うん?」

「なんていうか、俺も、ソイツのこと知んないけど、カンケーないが、悩む必要とか、全然ないと思うよ」


とても、正論だ。ぐちぐちと胸の中で暴れ回る俺に、見習ってもらいたいぐらいに。視界の端では、オネーチャンが、バカね、といいたげに、ふんっ、と鼻をならしている。「ー、はやく行かないと、怒られる」
せやね、と呟いて、一歩踏み出した足は、ほんの少し、痛んだ。
(そうだ、正論だ)


けれどもほんの少し、抱えていたものが楽になったことも、事実だった。




  

                         アトガキ

寝ながら書いたら凄い事になってた

2008.06.26