ものすごく、ドキドキした。



第6話  ご登校






体育祭がやっとのことで終了した。うう、お肌がカサカサだ! とぱちぱちとほっぺたを叩きながら一人にやにやっと笑う。「キモチワルイ」と呟かれた弟のセリフを聞かないふりをして、またゆっくりと、昨日のことを思い出した。「うふふふー」「変」「お弁当つくんないよ!」


山口くんに、ぐいっと手のひらをつかまれたのだ。もちろん、色気があるお話ではなくて、ただの借り物ならず借り人競争だったのだけれど、ぐいっと引っ張られた手のひらは硬くて、今でもものすごくドキドキする。
大きかったなぁ、とわきわきと手を動かしていると、やっぱりにへー、と頬が緩んでしまうのだ。
(私、調子に乗っちゃっても、いいのかな?)


少なくとも、嫌われては、いないんじゃないだろうか。私だったら、嫌いな人を、いちいち借りたいな、とは思わないからだ。
思ったことを、しっかりと口にすることができなくて、なぜだか見当違いのセリフを口走ってしまう私なのだけれど、もしかして、(好かれてる、なんてことは、思わないけど) そんなことを想像してしまえば、心臓がびっくらこいて、たちまち急停止してしまいそうだけれど。


ぎゅ、と握りこんだ拳をそのままに、私は目の前の少年の背中を見つめながら、うぐうぐと唸りこんでいた。


あの背中を、私が見間違えるはずがない。意外にもガッチリとしたラインはドキドキに、真っ黒い髪の毛に、まっすぐ伸ばされた背筋。(声を、かけても、いいの、だろう、か) 
さかさかさか、と後ろを追跡し、大きく吸い込んだ息は、しょぼしょぼと胸のうちから抜けていく。へたり、と力なく首を落としている間に、またどんどん開く距離に、慌てて追いかける。間が空く。追いかける。


(わ、た、しー……!)

ついこの間なら、もう諦めよう、とどこかで足を止めていただけだったのかもしれないけれど、何ともあきらめきることができずに、頭がぐるぐると回る。
ダメだろうか、声をかけちゃダメだろうか。迷惑だろうか。でも嫌われてないような気がするし、それでもやっぱり、駄目だろうか、かけたい。おはようって言いたい。朝から幸せな気分になりたい。でもうざいなぁ、なんて思われたくない。


ひとつ、大声をあげてしまえば、すぐさま終ってしまうのだ。


おはよう、山口くん! 大きな声で、これひとつ。
きっと山口くんは、うざいなぁ、なんて顔をせずに、びっくりしたように振り返って、「あ、おはようちゃん」と幸せドッキュンな笑顔で言ってくれるに違いない。違いない!(こ、こんじょう……!)

女の根性を、ここで絞らずどこで絞れというのだ!


「お!」

あげようとした声は、喉がかすれてうまく発音することができなかった。「お、お、お」 わきわきわき。指先をもにょもにょと動かしながら、どんどんと小さくなるその背中を見つめる。
「………おはよう」 誰もいなくなったその通学路で、一人ぽつんと、さみしく言葉を吐いた。
このチキンハートが、憎いです。





もうちょっと、勇気を振り絞っていたらよかったのだ。そしたらきっと今頃、幸せ気分で靴箱前にて靴を履き替えている状況だったに違いない。

いささか乱暴にげた箱の蓋を開き、中から上履きを取り出した。横山、と書かれた黒マジックの色が少々かすんでいて、なんだかさみしい気分のまま、指さきできゅっきゅ、とこすった。そろそろ上からなぞった方がいいのかもしれない。

短い溜息が下足場に広がり、忘れないうちに、と背負っていたバッグから、筆記用具を取り出した。「どっこらしょ」 おっさんくさい掛声だ。でもローテンション。

はーあーあー、とへろへろとしたまま、筆箱のチャックを開ける。ジジジ。開いたそこから、ちょうどバランスが悪かったらしく、中身がぽんぽん、と飛び出した。ついていない。スノコの上へと広がった筆記用具を見て、間から、下にもぐりこんでないよなぁ、と「どっこらしょ」 と腰を下ろす。またおっさんくさい掛声だ。



「おっさんくさいなぁ」

思わず聞こえた余計な御世話なセリフに、思わずぎっと睨むように上を向いた、「どうしたの、ちゃん」 
柔らかい笑みの少年は、よしよし、と私の頭をなでるように手のひらを移動させて、声に出ない気持ちを、パクパクと魚のような口であらわしていると、「よしよし」とまた手のひらを移動する。「おはよう、ちゃん」


何でこの人は、こんなところにいるんだ。もっと早くに、教室に行ったんじゃないだろうか。いやいやそんな。真っ白になっていく感覚を、ぐいっと自分の頭をつかんだ。(だめだ!)

だめだ!
変なこと言っちゃ、絶対だめだ!



「お、おはよう山口くん!」

ぽん、と手のひらを置かれた体勢のまま、とりあえずこれだけは言わねばならん! と口にしたセリフに、山口くんはきょとんと眼を開いて、ほんの少しの間のあと、とろりとした表情のまま、「うん、おはよう」


多分この瞬間、私は初めて自分に勝利した!





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2009.02.04
1000のお題 【506 学習能力】