
2 美術教師B
僕は小さなころから絵を描くことが好きだった。今現在、中学校の美術教師をしている。中学生の絵を見ると、自分にはない、ぴかぴかしたものが宿っていて楽しい。きっと天職なんだろうなぁ、とにこにこしながら妹に話すと、「そうだね、天職かもね」と適当に返事をされてしまった。彼女も、僕が勤めている学校の生徒である。妹の絵も見せてもらったけれど、彼女はあんまりこっち方面に興味はないらしい。それよりも部活で駆けずり回っている方が楽しそうだ。
まあ、そういうのは人それぞれだから。
僕は一人でうんうん頷きながら、生徒たちの作品をチェックする。出来上がった作品に評価をつけて、彼らの授業態度を思い出した。中々難しい作業だ。みんなになるべくいい評価をあげたいところ。そんな中で、ふと一つだけ未完成の作品を見つけた。
真っ白い画用紙に、ぽつぽつと絵具が乗せてある。下書きをした後がない。きっと即興で絵具をつけたのだ。誰だろう、とくるりと画用紙を反転させた。
わかなゆうと
僕はその名前を確認して、ああなるほど、と頷いた。そして画用紙を両手で持ち、もう一度正面へと向けて、両手をぐいっと伸ばしてそれを見つめる。「うーん」 どうしたものか。
それから僕は30秒くらい考えた後に、「うんうん」と一人で頷いた。そして美術準備室を抜けだした。
「……ありえねーんですけど、めんどくせー」
「まあまあ、そう言わずに」
若菜くんは放課後の美術室にて、くるりと筆を回転させた。そして未完成の自分の絵をみながら、苦い顔をしている。若菜くん、きみの絵はまだ出来上がっていないみたいだから、放課後完成させに来てね。彼の教室(僕の妹と同じ教室でもある)に訪ねて声をかけたのだ。その瞬間、彼は激しく面倒くさそうな顔をした。「今日も放課後はサッカーの練習かな?」「いや、今日は休みだけどー……あ、しまった」 若菜くんはペロッと舌を出した。休みって言わなきゃよかった、という彼の後悔だろう。
若菜くんは真面目に美術室へとやってきた。そして「めんどくせー」「めんどくせー」「めんどくせー」とおもちゃのブリキみたいに、同じ台詞を会話の節々に入れる。うふふ、と僕は思わず笑って、若菜くんの机の前に椅子を持ち出し、机に肘をついて彼の作業を見物することにした。
若菜くんは水入れに筆を差し込み、僕を奇妙なもののように見た。「先生、邪魔なんだけど」「いいじゃない、見学させてよ」 そんな僕らの様子を、美術部員達がちらりと見つめてくる。放課後の美術室は彼女たちが使うことになっている。
「あのさぁセンセ。センセは新任だからしらねーかもしんないけどね。俺、学校側にちゃんと話し合いができてんだよ。学業よりもサッカー優先。これだってさ、練習とか試合とかで来れなかった分じゃん。だから別に、提出なんてしなくても適当に成績つけてくれりゃいいんだけど」
「うん知ってるよ。そういうことは、ちゃんと各担当教師に連絡がされているからね」
そこらへんは、きちんと親御さんが学校へと足を運び、僕の預かり知らぬところで決着がついている。学校側としては彼の活躍を全面的にサポートする体制だ。「でも僕、若菜くんの色が好きだから、完成させて欲しいなぁ」 せっかく途中まで出来ているのに、完成品が見ることができないなんて悲しい。
僕がにこにこしていると、若菜くんは「あーあ」とため息をついた。そしてパレットに色を乗せた。そして何の迷いもなく、さっさっさ、と紙の上に筆を走らせる。「うん、やっぱり綺麗だね」「ドーモ」 若菜くんは若干照れたように筆を動かしている。彼は僕の台詞を誤魔化すように、「先生って、シスターに全然似てないね」と僕の名前を呼んだ。僕は、うん? と言って、手のひらから顔を浮かせた。「のこと?」 僕の妹の名前である。
若菜くんは「うん」と頷いた。画用紙の上は、きらきらしている。彼が筆を動かす度、どんどん綺麗になっていく。
若菜くんとは同じクラスだ。は時々、ぶーたれた表情で若菜くんのことを話す。「若菜くんと、仲がいいんだね。ときどき、家で君のことを話してるよ」「えっ」 若菜くんの声が若干どもった。「は、話すって?」 あれ? と僕は首を傾げた。
「うん。若菜くんがいちいち自分の宿題を見てきて困るとか」
「……あっそう」
そして少しだけ落胆したように肩を落とした。あれ?
今度は僕は、別の意味で首を傾げた。若菜くん、さっき言ってなかったっけ。サッカーよりも、学業優先。「若菜くんって、宿題は免除されてるよね? なのになんで、の宿題を見るの?」
自分で言った後に、あ、言わなきゃよかったかも、と後悔した。
若菜くんは無表情のままに固まっていた。筆を持って、画用紙に向かい合ったまま固まっている。僕も一緒に固まった。まさか自分の妹の話で、教え子とカチンコチンになる日が来るとは思わなかった。
とにかく僕は気付かないふりをして、多少わざとらしいけれども、「ごほんごほん」と大き目な咳をついた後、「まあまあ若菜くん、ちゃっちゃと完成させよう、ちゃっちゃと」とパンパン、と両手を打ちならした。若菜くんも、「お、おう!」と言いながら、さっさか筆を動かし始めた。
僕はポリポリとポテトチップスをかじりながら、野球中継を見ている妹へと声をかけた。「ねえ、」「何、お兄ちゃん」
僕は、ん、ん、と喉の調子を整えながら、「僕、思うんだけどさ、サッカー選手って、結構いいんじゃないかなぁ」「今野球見てるから」 すげなく断られてしまった。
「お給料、もうかるんじゃないかなぁ。スポーツ万能なんて、かっこいいよね」
そこまで言うと、は眉をひそめながらこちらを見つめた。「どうしたの? お兄ちゃん」「……いや、なんでも」
僕なりの、プッシュである。
2011.06.02