3 陸上部顧問C


     扱いづらい生徒っているじゃないですか。


俺はべろんべろんによっぱらいながら、ビールを力強くテーブルの上に叩いた。隣では同じ学校の、美術教師が、いつもはにこにこさせている顔を、今日ばかりは困ったように眉尻を寄せていた。けれども知るものか、とアルコールの勢いに押されて、俺は酒臭い息を吐き出した。えてして、中年の長話に捕まるのは、若い人間の宿命である。


「扱いづらい生徒っているじゃないですか。2年の若菜、あいつはその典型ですよ。教師だって人間です。苦手な生徒もいりゃあ嫌いな生徒もいる。まったく、学校全体で甘やかして、何を考えてるんですか!」
「せ、先生、もうちょっと声を小さくしましょうよ」

先生は片手をあわわとひらつかせ、そっと周りの様子を確認した。他の教師陣達は教師陣達で盛り上がっているらしく、男二人の会話に興味を払っている様子はない。若い美術教師は、ホッと息をついた。「ちょっと聞いてるんですか、先生」「き、きいてます、きいてます」

俺は調子に乗ったように弁を振るう。授業中、一時間も立ちっぱなしでしゃべりっぱなしの職業についているのだ。しゃべりも上手くはなる。まあ、俺は理科教師なので実験なんかある日には、生徒たちの行動をぐるぐる回りながらぼんやり見ているだけだが。

「若菜は宿題免除ですって。なんでそんなことするんですか。一人の生徒だけですよ、示しがつきませんよ。小学生のときからこの形でやってきたって親に言われて、校長も『はい、そうですか』ってなんで承諾するんですか。信じられませんよ。もし、周りの生徒に訊かれたらどうするんです、『若菜くんだけ、なんで宿題しなくてもいいんですか?』なんて。俺がききたいよ!」

どんっと勢いよくジョッキをテーブルの上に叩きつける。一瞬店員がこちらを向いたので、俺はそっぽを向いて知らぬ顔をした。新任教師は「でも若菜くん、きちんと宿題を出してるじゃないですか」「どうせ他の生徒のものを写したんでしょうよ」「……うん、まあ、それは」 ははは、と彼は苦笑いをする。ははは、ではない。

「学校はね、勉強を教えるだけの場所じゃあないんですよ」
「そりゃあ分かります。僕なんてほら、美術教師ですから」
「だったらあんたも分かるでしょう。宿題ってのはプロセスが重要なんだ。もちろん、問題集をやってこいってだけのテストの勉強だってありますよ。でもね、夏休みの自由研究とか、近所の人にリサーチしてくるとか、そういうのを通して子どもは自分で生きてく力を学ぶんじゃないですか」

俺は何か間違ったことを言っているだろうか。ときどき、物知り顔な生徒に、「先生、勉強なんてなんの役に立つの?」なんて訊かれることがある。そんなとき俺は渋面を作って、「なんだ、理科の勉強か? 俺は役に立ったぞ。そんで教師になっておまんまを食ってるぞ」と答えることにしている。自分の可能性を広げるためだとか、歴史の教師だったんなら世界の連続性を知るためだとか偉そうなことが言えたかもしれないが、自分はなんとなく気恥ずかしくてそういうことは言えない。

先生は困ったようにほっぺたをかいた。「でもですね、先生」「なんですか」「先生の言うことはもちろん分かります。でもね先生、僕らが教えるまでもなく若菜くんはもう十分、世界に自分を発信する力を持っている訳じゃないですか。僕らがすべきことは、ああ言う子を十分にサポートすることじゃないんですか?」「若ぁああい!!」「うわう!」

だからその一人を特別扱いするのがいかんというのです、と俺はあぶくを飛ばしながら叫んだ。先生はたはは、と苦笑いをしている。真面目に聞け、と言いたいところだが、これが彼の真面目な顔なのだということは、この頃分かって来たので言わないでおく。「先生、知ってますか。若菜くんは綺麗な絵を描くんですよ」「それがなんだってんですか」「あ、そうですね」 たはは、とまた苦笑いをした。


「まったく。若菜ときたら、この間は廊下で追いかけっこをしていたんですよ、いくつだと思ってるんですか!」
「そうですねぇ、駄目ですねぇ」
「あんたの妹も一緒にやってたんだよ!」
「あ、うちの子がすみません」

まったく。俺は陸上部の顧問もしているので、陸上部員であるのことはよく知っている。普段は真面目な生徒なのに、若菜がかかわると人が変わったようにお転婆になるのはいけない。まったく、全部若菜が悪いのだ。

「その追いかけっこを、なんでか廊下に座りこんでスケッチブックに描いている男の子もいましたが。あれもあんたの関係ですか」
「あ、多分それうちの部員ですね、すみません」

どんな生徒だ。俺が思わずしかめっ面をすると、ははは、と場を誤魔化すように、先生はチューハイを飲みこんだ。
なんだ、チューハイだと。この頃の若いもんはみんなそうだ。あんな酒だかジュースだかわからんもんを飲みやがって。男ならがっつり日本酒でも飲みやがれ。よし、俺は飲むぞ、日本酒だ。酒だ酒だ。家に帰れば女房がうるさい。さあ飲むぞ飲むぞ、飲んでやるぞ。

頭の中がぐるぐるとしている。何を見ても腹が立つ。あんちくしょう、あんたはなんでいつも白衣を着てるんだ、理科教師の俺とキャラがかぶるだろうが、と先生に言いようのない文句を言ったあたりで俺の記憶はぷっつり途切れた。




「…………おえー…………」


気が付いたら電柱にもたれかかって胃の中身を出しているところだった。
けれども何度えづいたところで中身が出ない。多分店のトイレで存分に出してきたんだろう。俺は電柱にもたれかかったまま、財布はケツのポケットに入っていることを確認した。そしてくるりと反転し、電柱に背中をあずけてずるずると座りこんだ。街灯の光が俺の周りをぽっかりと照らしている。家に帰るのも億劫だ。

自分が酒屋で何を話したのか、ぼんやりとしか覚えていない。取りあえず、始終先生につっかかっていた気がする。さすがに申し訳なくなったので、休み明けの学校で謝ろう、とうつらうつらしていたとき、ふと目の前に三人組の小さな影が通り過ぎるところだった。

「こらぁー、おまえたちぃー、なんじだとおもっとるんだぁー」

どう考えても大人の影ではない。こんな時間に未成年が何をやっとるか。俺は人差し指をぶらぶらさせながら、そいつらに向けた。「あ?」と子どもの、少年の声が聞こえる。ぽぽっと街灯に、そいつらの姿が照らされた。若菜結人がいた。「ああー?」 俺は思わず首を傾げた。

若菜の隣には、妙に目つきの悪い同い少年と、後ろ髪をかりあげにした少年がいる。なんだなんだ、こいつらは。「あれ、ゴリラっち」「何、結人の知り合いなの」「学校の理科教師だよ。ゴリラっち、何なの、顔真っ赤だぞお前」

若菜と、かりあげの少年が囁き合った。
てめぇ教師をゴリラ呼ばわりするとは何事か。俺はできることなら拳を振り上げてやりたいところだったが、そんな体力はありはしない。それよりも今は重要なことがあるではないか。「わかなぁー、おまえは今、一体ぃ、なんじだとおもっとるんだぁー。さっさと家にかえらんかぁー」 呂律がまったくもってまわらん。


若菜はああん? と顎をしゃくった後、「ロッサの練習だよ、サッカーの練習帰り。今から帰るとこだっつの」 あん? と俺は思わず眉をひそめた。こいつ、こんな時間まで練習してんのか。「……………………オエッ」 


取りあえず純粋に胃の中身が圧迫されて吐きそうになった。酒は飲みすぎるものではない「ギャー!!」 さっきまで、沈黙を守っていた釣り目の少年が、慌てたように両手を動かす。「英士、な、何か飲んだ方がいいんじゃないか……? 俺、スポドリなら持ってるけど」「一馬、よっぱらいにスポーツドリンクはやめときな」

呆れたように、カリアゲの少年が笑う。この状態にスポーツドリンクだなんて殺す気か。俺はおえー、おえー、と嗚咽を繰り返した。「あーあー、おっさん。なさけねぇなぁ。英士、ちょっと飲みもん買ってきてやれよ」「わかった」「お、俺も行く!」

若菜の野郎が、「おいゴリラー、さけくせぇー」と文句を言いながら俺の背中をなでた。そんで、「邪魔だな」と呟いて、ドスンとスポーツバックを地面に置いた。
俺はそのスポーツバックを見て、何か懐かしい気分になった。「そもそもなぁ、俺はなぁ、サッカーが嫌いなんだ」 オエー、と言いながら。

若菜は「はあ?」と言って眉をひそめた。
けれどもこいつは俺の背中をなで続けた。「まあ、そこらへんは個人の自由だろ」「俺は陸上がなぁ、すきなんだぞ。だから顧問もやってんだ」「そりゃあお疲れさま」「中学んときから、走ってたんだ」

でも駄目だった。
俺は足が遅かった。どう頑張ったって、周りの人間には勝てなかった。走ることが好きだけれど、俺は速くは走れなかった。大学に入って、教師になって、走ることなんてすっかり忘れていた。けれどもある日、陸上部の顧問が転勤すると聞かされたとき、「ああじゃあ、俺が顧問になりますよ」といつの間にか勝手に口が動いていた。

「おまえみたいな、足の速いやつはなぁ、みんな陸上にきたらいいんだ。なのに、サッカーなんてやりやがって」

なんぼのもんだ。速く走れるくせに、それだけじゃあものたりないってか。なんだってんだ。こっちにきやがれ。入部しやがれ。そしたら俺がしごいてやる。俺は選手としちゃあイマイチだけど、コーチとしたらそこそこなんだぞ。

若菜は俺の背中を撫でていた。けれども俺のえづきもおさまったと見るや、勢いよく背中を叩いた。ぽんぽん。「そこらへんは、個人の自由だろ」 おんなじ台詞を言いやがって。お前は勉強しやがれ。ボキャブラリーが足りねぇんだ。お前は将来、サッカー選手になるんだろう。でももしかしたら、ならないかもしれない。俺と同じ、理科教師になりたくなる日が来るかもしれない。俺は他の教師とは違うぞ。そんときのために教えてやるぞ。勉強は楽しいんだぞ。プロセスなんだぞ。


気づけばゆっくりと瞼が重くなっていって、そこらへんから記憶がなくなった。
次に起きたら、俺は公園のベンチに座っていた。足元には何故だかオレンジジュースの缶が置かれている。なんだかさっきまで、若菜と話していた気がするが、飲み屋で散々愚痴を言ったからかもしれない。夢でも見てたに違いない。というか、夢じゃないと困る。

よれよれになったスーツをひっさげて家に帰ると、女房に怒られた。落ちていたオレンジジュースは、持って帰った。俺は休日を家で過ごして、いつも通りに学校に行った。
そんでいつも通りにと追いかけっこをする若菜結人を見た。そしてその姿をスケッチブックに描き写す、奇妙な一年も発見した。

もしやあの奇妙な夢は正夢かもしれない、もしそうなら、学校中で俺の痴態が若菜結人の手により、噂の種となっているかもしれない、と戦々恐々としていたのだが、そんなことはないようだった。若菜の性格なら、きっとあることないこと言いふらすに違いないから、本当に夢だったんだろう。

白衣に手をつっこんで、ぶらぶら廊下を歩いていた。そしたら、「あ、せんせーい」と子どもみたいな声で呼ばれた。振り返ってみると、先生が何やら画用紙を脇に抱えて、パタパタとこちらに走ってくるのが見えた。こっちも白衣を着ていて、俺とキャラがかぶっている先生だ。

「……ああ、先生、こないだの飲み会ではとんだ失礼を。ちょいとばかりヒートアップしすぎました」

俺がぺこりと頭を下げると、先生はきょとんと瞬きを繰り返して、「ああ、あのことですか」とまったく気にしていないとばかりに軽く頷き、「そんなことよりも」と脇に抱えていた画用紙を俺の前に広げて見せた。「じゃじゃーん!」

中々斬新な色遣いだ。混じり合う色合いが微笑ましくて、エネルギッシュだ。「先生が描かれたんですか」俺は訊いた。先生は、いいえ。と首を振った後、「若菜くんですよ。2年の若菜くん。ほら、僕、こないだ言ったでしょう。若菜くんは綺麗な絵を描くって」
そういえば、そんなことも言っていたかもしれない。

先生は絵を突き出した体勢のまま、何かを待っていた。俺はなんだろうと先生の反応を待ったのだが、彼は何かを待ち続けた。そしてはっと気がついた。先生は、俺のこの絵の感想を待っているのだ。

何やら気恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、俺は眉を引き締めた。「ええ、いい絵ですな」 先生は、でしょう。と満足げに笑った。



先生が消えた後に、俺はなんとなく窓を開け、体を持たれかけた。生徒たちの様子がよくわかる。そんな中で見覚えのある茶髪の生徒がこちらへと走ってくる。若菜結人だ。「おい、若菜!」 俺は思わず呼びとめた。

若菜結人はそのまま俺の前を走り過ぎようとしたが、「なに? ゴリラっち」とブレーキをかける。「ゴリラとはなんだ、ゴリラとは」「だってゴリラじゃん。先生それで理科の教師なんて詐欺だぜ」 けけけ、と若菜は相変わらずの憎まれ口を叩きながら笑った。

普段ならどなり声の一発もかましてやるところだったが、俺はなんとなく公園のベンチにころがっていたオレンジジュースを思い出した。「若菜、今度ジュースの一本でもおごってやろうか」「はぁ!?」 若菜は心底意外そうに眼をまんまるにした。俺はなんとなく愉快な気持ちになった。

その瞬間だった。「若菜ぁー! つかまえたぁー!」と言いながら、が若菜結人を背後からはかいじめにする。どうせまた追いかけっこでもしていたんだろう。おいおい、もうちょっとおしとやかにせんか、と窓越しのにと声をかけようとしたのだが、その前に苦しげな顔をしながら、同級生に密着されにやつく若菜結人が目についた。

俺はハー、とため息をついた後、「さっきの話はなしだ。なし。、元気なのもいいがほどほどにしとけよ」と言い残してその場を去った。「あれっ先生!?」というの驚き声と一緒に、叫び声も聞こえる。「え、なしって? なしって? うあっ、ちょ、いてえってシスター!」「シスター言うな!」

まったく、中学生ってやつは元気で羨ましい。




2011.06.04
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