「う、うああああ」

やっぱり私は、膝を抱えていた。



第30話  考えろ、若人よ






ついこないだ来たばかりの広場で、やっぱりこないだと同じように、私は膝を抱えて、大きな木の木漏れ日の下で、レンガの上に、ちょこん。確か、長太郎さんという人に会った場所だ。
忍足さんが私の手を引っ張って跡部さん達がいる場所へと引っ張って行こうとしたとき、無意識に私は、その手を弾いた。あ、と思ったときにはもう遅い。後は死ぬ気の逃亡だ。

(………わすれてた、なんて)

違うんじゃない、分からなかったんだ。ユーシの声なんて、さっぱり忘れてしまっていた私には、はっきりとした確証が、なかったんだ。
(声を聞けば、きっと分かるとおもってた)

今は、どこかのMP3プレーヤーみたいに、耳にはっきりと再生することが出来なくても、きっと、その声を一つ聞けば、すぐに分かると思っていたのだ。けれどもそれは大きな間違いで、今でも私は、はっきりとあの時の声を思い出す事が出来ない。
もしかしたら。もしかしたら、私はあの声を何度も聞いていたかもしれない。今みたいに、人通りの多い場所へとちょこんと座り込んで、耳を澄ませていたとき。

聞こえていたけれど、まったくもって、気づいていなかった、だけなのかも。


そんな事を考えていると、ふいに涙が出そうになった。喉の奥の所が、何かに詰まっている見たいにぐっぐっ、とおしてきて、思わずごくんと唾を飲み込んでみたけれど、やっぱりそれは変わらない。パチパチと何度か瞬きを繰り返して、ぐ、と唇を噛みしめた。



気のせいか、その場所は静かだった。きっと、いつも人通りの多い時間帯を選んでいた所為だと思う。いつもと違う、音の響きが、もの凄く、変な感じだ。ほんの少し下がり気味になった太陽を、じっと見詰めた。「あれっ」

私の声じゃない。まったく近くで、男の人の声が聞こえた。相変わらず髪の毛が銀色でキラキラとしていて、とっても綺麗だ。大きなその人の背中にかかったテニスバックには、かすれた文字で、長太郎。

「また君だ」


大きなひと、長太郎さんは、人の良さそうな笑みを浮かべたまま、「ここいいかな?」と私の隣くらいに、ちょい、と手を伸ばした。取りあえず頷いてみると、ありがとう、と言葉と一緒に、仲良くレンガの上に、ちょこん。ガラン、と聞こえた音は、長太郎さんがバックを地面へと置いた音だ。


「いい天気だねぇ」

なんの気なしの会話なのかもしれない。大きな木の、枝と枝が重なった青い場所を見上げながら、長太郎さん。「です、ね」 答える私の言葉は、覇気がなかった。

ほんの少しの沈黙の後に、長太郎さんが、口を開いた。「そういえば、」はい。「探してた人、見つかったの?」




ごくん、と唾を飲み込んでしまった。いいえまだ見つかっていません、と答えようとしたけれど、あんまりにも不自然な間に、またごくん。「見つかったの?」 長太郎さんが、もう一度。


「………みつかり、ました」

よかったね、と長太郎さんがいうには、ほんの少し暗い音程だった。噛みしめた唇が、ほんの少し痛い。「みつかった、のですが」 ざわざわざわ。葉っぱがこすれる、音が聞こえた。「見つかる、はずがなかったのです」 いいや、違う。「わたしは、そのひとのことを、すっかり、忘れてしまっていたのです」


でも、見つかったんでしょう。と長太郎さんが。でも、だめなんです。私が。


「さ、さがしてた、ひとは、私の、恩人さんでした」
「うん」
「ずっとずっと、さがしてました。忘れないようにって、ずっと」
「うん」
「でも、だめでした」


そのときの事を、私はもう、本当に、何も覚えていない。唯一覚えている事といえば、真っ白な光の中で、彼の顔が見えなかった事、ユーシが口に出したセリフ、一つだけ。
その後、私がどうなったかという事や、唯一の手がかりだったはずの、彼の声なんて、もう遠い彼方になってしまっていた。

     情けない。自分が、彼の事をすっかりと忘れてしまっていた事じゃない。根拠のない自信で、大丈夫だと決めつけていた、自分自身が、とてもとても情けない。

溢れそうになっていた涙は、どっかに引っ込んでしまった。私が、いかに情けないのかという事を考えているだけで、胸の中に、ぱっくりと大きな口が開いてしまっているようだ。
「わたしは、」(どうしたら、いいんだろう)


「忘れてしまったものは、仕方がないよ」


とっても、どうでもいい事のように、ぽつりと長太郎さんが、呟いた。「し、仕方ないって、なんですか!」彼にこんな事を話している事や、その言葉に、どうしようもないような、苛立ちがわき上がる事は、ただの八つ当たりだと、ちゃんと分かっている。けれども、分かっている事と、思わず口に出してしまうセリフとは、やっぱり同じじゃないのだ。


「だって、どうしようもないじゃないか。人間いつか、忘れてしまうんだから」
「そんなこと、ないです。私が、もっとしっかりと覚えておけば、わすれなかったかも、しれないです」
「君は、覚えているじゃない」
「ちがいます、わすれちゃいました」
「ううん、覚えてる」


長太郎さんが、小さく頭を揺する形で左右に振ると、ぱさりと銀色の髪が、光を反射した。優しそうな笑みを浮かべたまま、几帳面にも、自分の手のひらを、片膝ずつに置いたままで。


「君は、恩人さんが、君を助けてくれたことを、覚えてる」
「そういうんじゃ、ないんです」
「君は、恩人さんを忘れていないから、ずっとずっと、探してる」
「だから、違うんです」


じゃあ、いい方を変えようか。柔らかいトーンで、ゆっくりと、長太郎さんは、前を見据えた。


「別にね、君の事を慰めようとしてる訳じゃないよ。けどね、俺だっていっぱい忘れる。今は分からないけれど、その時忘れないように、って思っても、忘れてる事はいっぱいあると思うんだ。うん、でも不思議だよね、ふと、思い出したりする事もある」


彼が何をいいたいのか、私には理解が出来なかった。長太郎さん、と口を挟もうとしたけれど、ゆっくりと伸ばされた彼の人差し指が、私の唇あたりで、しー。彼は続けた。


「でもね、思い出した事だって、やっぱり、断片的だったりすると思うんだ。一部分だけ、ぽこっと。なんだか白いカーテン越しみたいな、ぼんやりとしたような記憶だったり。でも、そんなぼんやりしたものでも、やっぱり、覚えてるんだと思う。全部を全部、鮮明に覚えている事が、覚えているっていう事じゃないと思うんだ」

だからね、と。ほんの少し聞こえた、他の人たちの声が、今の私の耳には、まったく聞こえない。鳩さんのバサバサとした羽ばたきも、ぴしぴしと頬を打つ風も、ごつごつとした、おしりがレンガにぶつかって、痛いような感覚も、何故だか。

長太郎さんは、目尻を柔らかくしたまま、ゆっくりと私の手のひらを握った。「だからね、君は覚えているんだよ」そんな、と私は今度は声を上げなかった。違う、上げれなかった。パクパクと唇を動かしても、上手く声を出す事ができなくて、妙なところでつっかかる。なんでだろう、と思ってみれば、ポロポロと冷たいような何かが、頬を伝っていた(現金だ、私は、とても、現金だ)

「もう一度聞くね」

頷いた。

「君は、恩人さんが、君を助けてくれたことを、覚えてる」

頷いた。

「君は、恩人さんを忘れていないから、ずっとずっと、探してる」

頷いた。

「そして、」



ほんの少し、声を潜めて。

「君は、恩人さんを、今でも、ずっと探してる」

当たり前だ、頷いた。「なんで君は、恩人さんを探していたんだろう」 なんでだろう 「嬉しかったよね、見つかって」 嬉しかった 「なんで、嬉しかったの?」 なんでだろう



なんで私は、ユーシを探したいと思ったんだろう。
私が声を出すことしか出来ない赤ん坊だった私を、見つけてくれた、唯一人の男の子を、なんで捜していたんだろう。また会いたいと、ずっとずっと思っていたのは、なんでだろう。
だって別にいいじゃないか、私は今、生きているんだから。昔のことなんて、もういいじゃないか。見つかるはずも、なかったじゃないか。きっと、彼自身も、もう覚えていないに決まっている。

それでも、私は、彼の記憶がかすむぐらいの長い間、ずっとずっと、彼を捜していた。10歳だ、私は。もう、二桁も、私は彼を、探していたんだ。「なんで、だろう」

やっと絞り出した声に、こくんと長太郎さんは頷いた。銀色のチョーカーが揺れる 「なんでだろうね」


これすらも、私は忘れてしまったんだろうか。
(いいや、ちがう)

いいや、ちがう。


「あ、あり、がとう、ございました!」

長太郎さんに、出来る限りの力一杯の笑みを送った。零れたままの涙を拭いていないものだから、頬がピリピリと固まっている。ついでにいうならばっちい事に、鼻水まで垂れてしまっていると思う。女の涙は強いなんてきっと嘘だ。けれども長太郎さんは、私と同じように、にっこりと笑った。どういたしまして、と聞こえた声は、爽やかだった。

レンガから飛び退いて、長太郎さんと、一歩分の距離を置く。ぺこん! 力一杯頭を下げたものだから、頭の後ろの髪の毛まで前に来てしまったけれど、気にしなかった。もう一回、「ありがとう!」

そんで、飛び出した。


がー! と駆け抜ける最中に、ちょっと汚いけれど、袖口で一生懸命顔をぬぐった。もうすっかり、喉の奥を押されているような圧迫感なんてない。
すっきりとした気持ちのまま、走る、走った。

効果線のように伸びる景色に、足を思いっきり上げる。下げた。
さっきのかけっこなんて比じゃないぐらいに、隣で走る自転車よりも、もっと速く。
ばさばさ揺れる髪の毛が、ほんの少し邪魔だ。跡部さんのお家まで、あとちょっと。ざー! と風が私の背中を押して、まるでほんのちょっとでも速くなるために、手伝ってくれているような気分だ。

(なんで、私は、ユーシを探していたんだろう)


ずっとずっと、会いたいと思っていた。



茶色い、大きな壁が、目の前にそびえ立った。レンガとレンガの間にあるくぼみへ、私の小さな手のひらを載せて、ガリガリとひっかいてみる。チクショウ無理だのぼれねぇ、と思って、すぐそばに立つ灰色の電柱へと手を伸ばした。景色が、地面が、ほんの少し遠くなる。



ユーシを、私は見つけた、見つけてしまった。彼はとても大きくなっていて、ああこんなに時間が経ったのか、と思った。
もう思い出せないような彼の声は、確か小さな少年の声だったからだ。



電柱を、壁よりも高い場所へと登った。手のひらで、つっかかる場所を握ったまま、足を固定させる。場所を見極めた。(高いところは、恐くない)ぐ、と足下に力を入れる。



大きくなったユーシは、やっぱり私が会いたいと思っていたユーシで、見つけたいと思っていたユーシだった。
ずっとずっと、私は、きっと分かっていなかっただろうけど、気持ちの中でぐるぐるとしたものを、抱え込んで、ずっとずっと、



飛んだ。本日二度目の飛びを、見事にご披露してみせた。
バタバタと服がほんの少しはばたいて、手のひらと、両足を、前へと移動させる。なんたって私は、高いところは恐くないのだ。(それはきっと、救いがあったからだ)

バサバサバサ! 枝と枝の間をすり抜けて、私の体は止まった。つい先ほど、登って塀の上を駆け上がらせて頂いた場所だ。頬がほんの少しぴりりとするのは、細かい枝でひっかいてしまったからだと思う。親指を、ぴっ、とこすってみると、赤い後が残った。「うん、べつに、いたくない」

もう一度、芝生の上に飛び降りて、お猿さんよろしくな、四本足で失礼。
運が悪かったのか、丁度私の着地地点へとたたずんでいた跡部さん家の使用人さんが、「ヒイ!」という短い悲鳴を上げて、ささっ、と後ずさり。

ごめんなさい、という挨拶もそこそこに、使用人のお姉さんに、「忍足さんは、どこですか」「はい?」「客人さんの、忍足さんは、どこですか!」


指さされた方向に、ばっ! と駆け出させてもらった。不思議と息は乱れていない。もう一度、頬をぬぐう。


メガネの人は、私を見るや否や、「ちゃん!」と怒ってるのか、喜んでいるのか分からないような複雑な声を上げた。「忍足さん」私もいった。
よくよく見れば、お庭に出された真っ白なテーブルに、跡部さんやらがっくんやら、カバGさんやらが優雅にティータイムをしているではないか。
一瞬むかっ、としたけれど、いいや、今はそれどころじゃない!

がっ、と駆けだした足は、真っ直ぐ忍足さんに向かう。急いでテーブルから立ち上がった忍足さんも、私へと向かう。


(ずっと、ずっと、)



ゆっくり、ゆっくりと私はスピードを落として、さっきの長太郎さんと同じぐらいの、あと一歩の距離で、ピタリと止まった。ほんの少し、肩が上下に動く。

忍足さんが、何かをいっていた、ぱくり、ぱくり、と動いた口を、私は見た(ずっと、ずっと、ずっと)飛びついたお腹が、ゴスッ! と音を立てる。ひっつかんだ真っ白いシャツが、ぎゅうう、とたくさんの皺を作った。
ぽかりと暖かい体温に、どくん、どくん、と心臓の音が聞こえる。


「侑士さん」 声が、ほんの少し、震えてしまった。「なんやのちゃん、なんで泣いとんの」「侑士さん」「ちょ、鼻水ついとるで、どないしたん!」

ぎゅ、と、掴んで。

「ありがとう、ございました」
(多分、それだけがいいたかった)





  


2008.06.14