第2話  逃亡と遭遇




「なんや        

パタリと、風もなく閉じた下足場のドアを、振り返りながら、忍足はくるりと目を丸くし、、鳳を視線を一巡した後に、彼はパチリ、と瞬きを繰り返した。

「大声出すから、驚いてしもたやん」

自分へと視線を流し、ニヤッと猫のように笑う忍足に、はすこしビクリと身体を震わせ、力なく笑った。なんとなく、とても、嫌な気がしたのだ。
「ごめんなさい」と、笑顔を取り繕いながらはどこか早口で頭を下げ、じゃあ行こうか、と鳳が明るく言葉をかける。
うんと頷き、たっとは鳳を抜き、先頭へと早足で歩いた。ドクドクと暴れる心臓を押さえつけるように、誤魔化すように足を動かし、びたびたと響く廊下の音が妙にはっきりと聞こえる。

その後ろを鳳が所在なさげにぱくぱくと口を動かして、そのまた後ろでにやついていた忍足がいた事を、は知らない。

暫くの間、三人とも無言のまま、二年の教室へと向かった。
氷帝学園はそこらの学校とは規模が違う。校舎の数もさる事ながら、その一つ一つが長細く、きっちりと計った事はないが、少なくとも100メートルリレーを十分に出来る長さがある。その長い廊下には二つの階を挟んで一学年の教室となっており、同じようなものが、幼稚舎から大学までそろっている事を考える。
小学生までの廊下には「走らないように」と可愛らしいイラスト付きで描かれたポスターがいたるところに貼られている。流石に中学生となると、思い出したかのように、時々ペタリと貼られているだけだが、教室の移動などは、早め早めにと余裕を持って行動をしないと、大変な事になる。
中学から入ったは、まだ十分に校舎を把握できていない。
と鳳のクラスは、四階建ての校舎の、二階、階段と、誰も使ってはいない空き教室へと挟まれていた。


「なぁ、ちゃん、やったっけ」
「は、はい!」

忍足は足を速め、の隣へと並んだ。鳳も慌てて、反対側のの隣へと並ぶ。
自分より背の高い男子二人に挟まれる状態となり、一瞬は困ったように眉を寄せたのだが、すぐに元の表情へと戻し、「なんですか?」と忍足へと尋ねた。

「やぁな、下の名前、聞いてへん思ってな」
「ああ………です。
「ほー、ちゃんって呼んでええ?」
「ちょ、ちょっと忍足さん」
「構いませんけれど」
さぁん!」

挙動不審に声を荒げる鳳に、忍足が「なんやちょっとうるさいでぇ」と、必要以上にイントネーションをつけ、身体をくねられる。むぅとした鳳の表情がお気に召したのか、忍足は嬉しそうに足を進ませた。
カラカラと喉をころがせ、の一歩手前へと両手を頭の後ろに乗せながら踏み出した。
変な人だなぁ、とは頭をひねり、無言での歩みへと合わせる鳳を視界の端で捕らえる。
丁度そのとき、パチリと鳳と目が合い、自分が驚く前に、大きく鳳が目をそらした。あまりにもあからさまなそらし方に少しきょとんとして、まぁいいかと正面を向く。
その後慌てたように鳳が、「さん!」と声を掛けた。「なに?」

彼は口をもごもごとさけた後に、「ええ、っと」と視線をくるくると辺りに回す。何を見ているのだろう。もう一度、「なに?」と首を傾げながら答えると、また鳳がきょとりと目をぐらつかせた。
      嫌われているのだろうか?

はふと考えた。
彼は時々、こんな困った表情をする。自分には何を困らせているのかはっきりしなくて、そんなとき、少しだけやきもきしてしまう。
嫌うくらいならば、話しかけなければいいのに。そう思う。それとも、わざと見せつけるかのように話しかけるのだろうか。
は鳳長太郎という人物をよくは知らない。知り合い以上、友人以下、つまりはただのクラスメート。それでも、彼の人物像は、どちらかというといい印象にあった。いつも朗らかな笑みをたたえているからなのだろうか。
少なくとも、が今、一瞬想像した事実とは少々認識が異なった。
だったら、彼はなんなのだろう。それともが知らないだけで、本当はとっても嫌なひねくれている少年なんだろうか。
(まぁ、どっちでも、いいかな)

彼はクラスメートだ。自分が筆記用具を忘れたならば、躊躇なくにこりと微笑み、「はい」と貸してくれる、いい人。まぁそれでいいか。



達は廊下の角を一つ曲がり、突き当たりにある階段へと足へと目指していた。既に暗く、まるでそこだけ落ちくぼんでいるかのような階段が、遠巻きへと見える。
すぐそこだ。タカタカ足を動かしていると、ふとは、気づいた。

その瞬間、ぞわりと体中の寒気が立ち上がり、ひくっと喉が動く。たたたっ一番前を歩いていた忍足の隣へとは足を速めた。「さん?」 ほぼ反射的に鳳も前へと飛び出、の横へ並ぶ。
瞬間、ぴたりとは足を止め、両に挟む男子二人の服の裾を、ぎゅっと握りしめる。ほんの少しつんのめるような形になりながらも、少年二人は不思議そうに歩を止めた。
「………気分でも、悪いんか?」
忍足が呟く声。

ぐ、と息を飲み込みながら、二人のジャージを掴み、顔を下へと向けていた。本格的に心配になってきたのか、鳳はの肩へと手を置こうとした。けれどもまたが、二人のジャージを持ったまま進む事で、その手はぶれてしまう。
一瞬彼は、に嫌がられでもしたのかと自分の手を寂しげに見詰めたのだが、止まり、進み、止まりを繰り返す事で、一つ、気づいた。その瞬間彼は、体中の皮膚を搾り取られたかのような感覚を感じる。丁度脊椎あたりを、ゆっくりと、誰かの人差し指でさすられたかのような、感覚。


いつの間にか落ちたように暗い日の中で、彼ら三人の長い影が、目の前の廊下を覆った。(おかしい)影が、こんなにも長いはずがない。
今は、夏だ。太陽の位置も高い。そして、まだ昼を少し回っただけの時間帯だったはずだ。
無意識に唾を飲み込み、または進む。

タッタッタッタッタッタッタッタッタッタ
ピタリ


鳳は、確信した。

足音が、一つ、多いことに。




複数の人間の足音に隠れているようで、分かりづらい。けれども、それは確実に、一つだけ、種類の違う足音が聞こえた。
鳳と、忍足と、が履いている、柔らかい布と、ゴムで覆われた履き靴と違う。
まるで、裸足の足で直接廊下を歩いているような、そんな足音。
ひたり、と足を乗せ、足の裏の皮が、一瞬冷たい廊下へとくっつく。そして、それを剥がす。ひたり。繰り返す。ひたり。ひたり。ひたり。
(……………っ)

の手のひらが、微かに痙攣している。
鳳は息をのみ、忍足へと目を合わせる。誰かの悪戯なのか、ただの気のせいなのか。
鳳はの手のひらを包むように持ち、ぎゅう、と握りしめた。指先までもがひんやりと冷えた彼女の手のひらに驚き、けれども構わず握る。柔らかい。
うん、と忍足が僅かに顔を縦に動かし、鳳もそれに習った。ゆっくりと、振り返る。

瞬間、長い廊下が目の中の大半をしめた。
直線は僅かに収縮しながら一番遠い風景を目指し、左の窓からは明るい空気と、光が照らされている。けれどもその分、低い地面を黒く映していた。
何もない。誰もいない。

誰かが、ハ、と安心したように息を吐いたのもつかの間。
三人は、目を見開いた。


廊下の真ん中に、ぽつんと一つの足があった。
ぽつんと、立っていた。暗く映し込まれた中で、一つ、ぽつん。
ふくらはぎから、丁度膝下部分が途切れ、その上には、何もない。切断面は肉が盛り上がったかのようなっており、強大な力で無理矢理に引きちぎられたもののように見えた。
けれども血は一滴も垂らしておらず、真っ白い二本の、子どものような足は素足のまま、立っていた。

あまりにもピタリと風景にとけこんでおり、一瞬、何が起こったのか、誰も理解が出来なかった。
けれどもその絶妙なバランスは、ただの一瞬で解ける。

ぐずり、とまるで脳みその一部がとけ、腐ったような音が響く。その次に、ぐちゃり。盛り上がった肉の切断面が連続的にぐちゃぐちゃとふくれ、また凹む。ゆっくりと動いていただけのそれは次第にスピードを増し、辺りにぐちゃりぐちゃりと僅かな肉片をとばした。血は、流れない。

ゆっくりと、その右足が、まるで宙を歩いているような錯覚をさせる動きで、足を、出した。
そしてまた、片足を、ぺたり。


は、足を後ろへと引きずる。握られていたはずの鳳の手のひらが、冷たい。
「ひっ、」
ガチガチと歯の根がかみ合わない。ゆっくりと、ゆっくりと近づく何かに、あり得ない程の速さで心臓が動き、身体のバランスがとれず、鳳にすがりつこうとした。「い、ひっ」 すりつぶしたような声。

「いやああああああああああ!!!!!」



跳ね上がったかのように、鳳と忍足は、駆けた。鳳の手のひらに引きずられる形で、も足を動かした。はぁっ、はぁっ、はぁっ、と疲れた訳でもないのに荒い息が喉を通し、彼らは駆けた。目的の階段へと上り、ダカダカと地面を蹴るように登る。
後ろを、振り向くことができない。
体中の毛がぞわりと逆立ち、耳の後ろが、じんじんと痛かった。目の前が白く、頭の中身が上手く動くことがない。

階段を上りきり、長い廊下を彼らは走る。「廊下を走るな」そう書かれたポスターが、嫌みなくらい鮮明に映り込んだ。


階段を、登ってはいけなかった。その事に気づいたときには遅く、腕を一気に動かし、もがいていた。この校舎からは、逃げなければいけない。けれども、二階はダメだ、一階じゃないと、ダメだ。
は、頭の中であの崩れていく肉芽を思い返し       喉の奥から、何かが溢れてくる。片腕で必死に押さえ込み、ぼろりと目の端から涙がこぼれた。息が、できない。
ぎゅう、と鳳の手のひらを握ると、彼ははっとしたようにへと顔を向け「忍足さん!」

開いている教室の中へと、力強く扉を開け、その中へと飛び込んだ。をかばうようにドアから遠ざけ、忍足が、前と、後ろと、曇りガラスのような小さな窓の鍵を閉める。
メガネがずり落ちる寸前に、右の腕で顔を掻き上げ、「ハァッ!」と彼は息を吐き出した。


鳳とは力なく座り込み、は彼の胸の中へと頭を寄せた。僅かに振動する肩へと鳳は大きな手のひらを乗せ、もう片方ではの背中を撫でた。「大丈夫、吐いてもいいよ、大丈夫」 しきりに優しく声を掛けるが、その、彼の声も僅かに震えている。

は頭を振りながら、ぼろぼろと目の端から涙を零した。ツン、と鼻の奥で何かがひっかかったようで、苦しい。げぇ、と溢れる胃液を飲み込み、口を横へと伸ばしながらも、声を押し殺した。
        一体、何があったのだろう。


皮肉にも、当初の目的と同じ教室で、彼らは長い沈黙を落とした。




  


2008.11.01