第3話 あれは誰だ は精一杯の吐き気を抑え込んで、鳳の胸に頭を寄せた。大丈夫、大丈夫。鳳自身も、何が大丈夫なのかわかってはいなかったが、声をかけ続けた。見間違いだろうか? は考える。いや、ちがう。あれは見間違いなどではない。 長く続く廊下の中で二本の足だけがつったっていた。小さな子どもの足だった。ぐずぐずと崩れていく肉の塊を、今もしっかりと思い出すことができる。見間違いだろうか。普通の人間ならそう思うかもしれない。けれどもは違った。彼女の兄が、『あっちを見たらあかんよ』と教えてくれた何かに、あの気配はそっくりなのだ。 ぞっとする。 忍足はしばらくドアを背に押さえていたが、鍵はすでにかけてある。だから彼が戸を守る必要はない。カタカタと忍足の手のひらは震えているように見えた。そしてそんな自身をごまかすためか、笑い飛ばそうとして、けれども失敗してそのままその場にへたり込んだ。「……なんか、えらい妙なもん見た気がすんねんけど。気のせいや、ないんよな……?」 全員が力の限りアレから逃げたのだ。見間違いなどというものではない。鳳はを慰めるように背中を撫でて「誰かのいたずらですよ。きっと天井から糸か何かでつるしておいたんです。それを、ちょいちょいって、動かしたに決まっています」 彼自身、疑いを持っていた。もしかしたらプロジェクターか何かで映像を映していたのかも。氷帝は例外もあるが多くが金持ちの子息や子女である。他の学校とは比べものにならないくらいに設備が整っていた。けれども。(異臭がした気がした) あのときは動転していてそこまで気が回らなかったが、足が腐ると同時に腐臭が漂い始めた。今も鼻をつくような匂いが、こびりついているような気がする。 だったらなんだ、あれはお化けか何かだというつもりか。 ぐらぐらと自分の価値観が揺れている。けれどもそれを認める訳にはいかなかった。自分の腕の中にいる、自分が想いを寄せている少女は小刻みに震えている。これで自分が脅かしてどうするのだ。ただのいたずらだ。そういわなければいけない。 鳳はそう考えていたが、実際は違う。は怯えてはいたが、おそらく鳳や忍足ほど衝撃は受けていなかった。それは幼いころから培った慣れでもあった。 けれども彼女は彼らにそうと告げる気はなかった。まさか、あれはお化けであると言って、彼らを困惑させる訳にはいかない。自分には兄という不思議な存在がいたが、彼らはただの人だ。一般的な常識を持っている。 は唇をかみしめて、鳳からさっと離れた。鳳は人の好さげな眉を垂らし、「もう大丈夫なの? さん」 うんと頷く。そしてすぐさま窓に駆け寄り、ガラスに手をついた。太陽の光がじりじりと体を突き出す。教室内の時計を確認した。3時。いつの間にそんなに経ってしまったのだろう。あまりよくない時間だ。今から少しずつ“彼ら”の存在が大きくなる時間。今すぐに校内から脱出しないといけない。 この教室は二階だ。窓から下を見ても、下にクッションになるようなものもなく、飛び降りることは苦しい。いや、自分はともかく、彼ら二人なら問題ないのではないだろうか。それにカーテンをつなぎ合わせれば、いくらでも下につく。 窓の鍵に手を伸ばした。ガチャガチャと金属がぶつかる音がするだけでピクリとも動かない。やられた。内心で舌打ちをする。おそらくすでに閉じ込められたのだ。こうなったなら、“彼ら”の存在が小さくなる時間、明日の朝までこの教室の中で立てこもっておいた方がいい。 そう判断したは鳳と忍足を振り返った。彼ら二人はまるで奇妙なものを見るようにを見つめている。 「……ちゃん?」 「あ、いえ……どうやら窓の鍵は開かないようです。校内で不審人物がいるんでしょう。その人が施錠したのかもしれません。一人か複数かはわかりませんが、うろつくのは危険だと思います」 意外にしっかりしたの声に、鳳も驚いたように頷いた。少々無理やりだったか、と思ったが、しょうがない。このまま流れとして教室にとどまるようにしむけよう。そう思ったとき、コンコン、コンコン、と扉がノックされた。ガタガタと扉をゆする音も聞こえる。ヒッと、誰ともなしに悲鳴を上げて体を揺らした。 ガタガタ、ガタガタ。コンコン、コンコン。 「あ、開けちゃだめです……!」 鳳はを庇うようにして前に飛出し、カラカラの声を出した。忍足も頷く。扉にゆっくりと足を向けていく。はぎゅっと鳳の服をつかんだ。コンコン、コンコン。ガタガタ。けれども音は止まらない。( は飛び出した。「えっ」と驚きの声を上げる鳳と、そして忍足の横を通り抜ける。「あ、あかんて!」 ドアの鍵を開け、ガラガラと扉を勢いよく開けた。「さん!」 鳳の悲鳴があがる。けれどもすぐさま彼はぽかんと口をあけた。はその人物の腕をひっぱり、無理やり教室の中に入れ、再び扉を閉め、施錠する。 「ひ、日吉……?」 キノコカットの同級生を、鳳は何度も瞬いて見つめた。さすがの日吉も、唐突に中に入れられるとは思わなかったのだろう。きょろきょろと教室を見回して、「何やってんだ、あんた達は」と、呆れたような声を出した。 ← ■ → 2011.07.27 |