子狐、こんこん
とりあえず、俺は風呂に入った。
「ふほあー……」
やっぱり慣れた風呂ってのはいいもんだった。俺は頭の上にタオルをのっけて、ほかほか湯気を立てながらよっこらせと椅子の上によじ登った。先に風呂に入った浦飯が、いつものポマード頭を落として、牛乳片手にふはー、と背もたれにもたれかかった。俺もマネしておんなじポーズをしてみた。「「ふほあー」」
尻尾がなかなかうまくかわかない。頭の次はと尻尾を膝の上にのせて、ごしごしとふいてみた。銀色の毛並みが今はぺたんとしょげている。「お前さー、それくっついてんだよなあ」「おう」「なんで?」「妖怪だから」「ほほー」
ほほほー、と変な声を出して、うらめしはまた椅子の背にのけぞった。「まあ、どーでもいいけどな」
「おう」 どうでもいいらしい。
少しだけ、気付いていることがある。
ここは、俺が知っている過去じゃない。もう少し言えば、俺がいた未来の、正しい過去じゃない。
そんなの当たり前だ。俺が浦飯に会うのは、これからしばらく先のことだ。妖狐の俺が浦飯の家で風呂に入るなんてことはないし、温子さんと一緒に布団に入ることもおかしい。俺がいることで、過去がずれてしまったのか、それとも元々こういう世界があったのか、俺にはわからない。ばあちゃんが言うように、魔界と人間界の結界がなくなってしまったことで、とどまっていた何かと一緒に、俺は別の場所に来てしまったんだ。
(だったら、どうやって戻れるんだろう)
そんなの知らない。でもひとつ、思うことがある。もう少し待てば、この場所に“俺”がやってくる。親父の首を狙った子狐が、ふんふんと鼻をならしてやってくる。きっとそのとき、何かが変わる。
(そうじゃなかったら)
そうならなかったら。どうしようかなあ、と考えて、このまま浦飯の家にいるのもいいかもしれない、と思った。でもそれは、やっぱり違う。
(うん)
俺は立ち上がった。それからトタトタと台所に行って、洗ったコップを持ってきた。それから今度は浦飯の隣に座って、牛乳をそそいだ。コップにくちをつけて、ぷは、と息を吐き出す。「うぼっ!?」「おお」 ひっぱるとイテーのか、と当たり前なことを言って、満足気に頷いている。なんでこいつらは勝手に色々と妖怪様の尻尾や耳をひっぱるのか。
「今度したらお前が寝てる間に鼻から指つっこむからなっ!」と自分でも特にいい脅し文句が思いつかなくて、鼻の穴を広げながら怒ってみた。げらげら、と浦飯は笑っている。温子さんは、奥の部屋でテレビを見て笑っていた。帰って来た。
南野の家じゃない。でも俺はまた、帰って来た。(もうしばらく) もう一人の俺が来るまで、もうしばらく。
ここにいよう。そう思った。
***
小さな妖怪が、びくんちょと尻尾をふくらませて目の前を通り過ぎる車に目を丸くした。「なんだこれ……うおうっ!」 ギャッと自転車に後ずさって、ガードレールにぶつかった。「うおお……」 なんだこれ。ニンゲンばっかだ。ときどき、周りのニンゲンが妙な顔をして彼を振り返った。自分の何かがおかしいのだろうか、とパチパチ顔を触った。耳も尻尾も、ニンゲンには見えないように隠しているはずだ。なぜだろうと首を傾げる彼には、魔界から飛び出たばかりのボロ布を羽織ったその姿が、ひどく奇妙であることには気づかない。
「妖狐、妖狐の蔵馬」
そいつが人間界ではミナミノシュウイチという名前であることは知っていた。ときどき、魔界で噂になっていた。そこいらの妖怪に聞けばすぐに居場所なんてわかる。そう思っていたはずなのに、彼の想像以上に人間界は人が多くて圧倒されて、尻尾と耳ばかりが震えた。「みなみのしゅういち、みなみの、みなみの……わっかんねーよぉ!」 叫んだ。ついでに両腕を振り上げた。「うわ」 見知らぬ男にぶつかった。
「大丈夫か?」
「あ、うん……いや、その」
ごめんなさい、と頭を下げた。ここは人間界だ。つり目で、自分よりも随分背が高いその男に、は口元を引き結んだ。「そんならいいけど。もしかしてさ、お前、道に迷ってんの?」「お、うん……」「地図とかある?」 持ってんなら見してみ、との前に、その男は座り込んだ。「持ってない」 男はちょっと口元を笑わせた。ひどくおかしげな顔だったのだが、それは持っていないと変なことなのだろうか。
「どこに行きたいんだ?」
「あの、その」
親父のところ、という言葉を飲み込んだ。「みなみのしゅういちってやつがいるところ」 あとあとから考えれば、この言葉はひどく稚拙なものだった。けれども男は頷いた。そうしてくしゃくしゃとの頭を撫でた。ぎくりと肩が小さくなった。
「それならすぐそこだ。案内してやるよ」
「い、いい!」
「そんなら説明だけな。ここ、まっすぐ行って、でっかい分かれ道があったら右だ。いいか、右だぞ。そしたらまた人に訊け。南野さんのおうちはどこですかって」
「お、おう……」
ちょっと色々量が多い。思わず指折り数えて、言われた言葉を確認した。「覚えた、わかったぞ!」「よし。迷うなよ」 くしゃりとまた頭を撫でられた。うん、と頷いて、狐はかけた。「あ、あとお前、あとで着るもの新しくしとけよ!」 背中から聞こえる声に、わかった! と返事をする。そうだ、服だ。ここは魔界とは違うんだ。
まっすぐ行って、右、まっすぐ行って、右。うんうん、と頷く。
ふと、あの男に礼を言うのを忘れていたことに気づいた。狐は振り返った。「いない」 けれどもどこにもいない。つり目で、背の高い黒髪の男は、どこからも消えていた。
***
「おっと」
一歩、踏み違えた。慣れない体はめんどくさい。でかくて邪魔で、視線が高い。
手のひらを見つめた。くしゃくしゃと撫でた、銀色の耳が生えた子狐を思い出した。ちびっこくて、どこに行くのかわからなくて、なんにも知らない俺だった。
懐かしいな、なんて思わない。長く生きた自身にとって、あれはほんの少し前のことで、わざわざ心にとどめるほど、でかい話でもなんでもない。(でも) なんだか愉快な気持ちになった。ちびな子狐がやってきた。俺がやってきた。
ぱたぱた、と長い尻尾が揺れている。さて。
カチリ、と正しい時が刻まれる。