「…………え……」
ここはどこだろう。生い茂った緑の中に、パジャマ姿のままつったっていた。布団の中で眠って、朝起きたらのご飯を作って、ろくもんの散歩に行って、明日は小テストがあるから、嫌だなぁとか、そんなことを考えていた。なのにこの光景はなんだろう。
ぺたぺたと歩く素足の感覚に、やっと現実なんだと気づいた。「……いたっ」 どうやら尖った石を踏んでしまったらしい。気をつけて歩かないと。遠くで、何かもめているような音が聞こえる。喧嘩の声だ。いや、喧嘩なんて、軽いノリの声ではなかった。わあわあと重なりあう声と、地を蹴る重い足音が聞こえる。私はただぼんやりとしていた。夢の続きのように、のたのたと足を動かしていると、ふと、ふと、木々の間から人間が顔を出した。私はぎょっとして瞳を瞬いた。
その人は額から血を流していて、むっと汗臭いく、頭がはげていた。年齢は、お父さんぐらいだろうか。人相がいい顔とは言えない。「くそっ……武田の奴らめ……!」 喉から擦り出すような恨み声を上げ、よたよたとこちらに歩いてくる。私は思わず後ずさった。
ばさっ、ばさっ、と何かを振り回して、枝を切り倒しながら、その人は道を作っていた。どうしよう、こっちに来る、と体を固くさせたのだけれど、その人はすぐに私に気づいたそして、ひょっと嬉しそうな顔をして、「女か!」と声を上げた。そのとき、私はハッと気づいたのだ。その人が振り回して道を作っていたものは、刀だった。ギラリと輝いた刀身に、「え?」と私は間抜けな声を出して、まるで本物のようだ、と頷いた。じわじわと何かお腹の辺りから嫌な気持ちが溢れてくる。
一体何で、自分はこんなに怖がっているのだろう、と思った。そして一瞬の後、そりゃあ、こんな奇妙な、戦国時代の格好のような人相の悪い人が、偽モノとは言え、刀を握っていると怖いだろう、不審者だ、と頷く。頭の中で、わざとそうやって論理的に考えることで、冷静になろうとしている自分に気づいた。ガタガタと足が震える体をへたり込ませた。何でこんなに怖がっているんだろう。だから、この人は不審者だからで、え、? そうなの?
「女か、女か、女か!」 その人はハアハアと口元から唾液を垂らすぐらいに叫び、歩幅を広くさせた。逃げなきゃいけない。そう思って、すぐさま体を起こした瞬間、「逃げるな!!」とその人は野太い声で叫んだ。「逃げるな! やっと、武田の奴らから命からがら逃げたんだ。ご褒美くらい、あってもいいじゃねぇか!」
あの人はなにを言っているんだろう。
必死で逃げた。足の裏が痛い。石で切れてしまったらしい。でも、逃げないといけない。ガチガチとお腹の底が震えて、歯の根があわない。こわい、こわい、そう思ったけれど、後ろを確認しない方が怖かった。私は振り返った。瞬間、髪の毛をひっつかまれ、ごろごろと斜面に押し倒された。ばこん。一発、ほっぺたを力の限り殴られた。
人に殴られたことなんてなかった。痛いと感じるよりも、何かが頬に押し付けられているようで、顔の形が変わってしまいそうだと感じた。無我夢中で、その人の下から逃げようとしたとき刀がぐさりと私の腕に突き刺さった。「
!!!!」 奇妙な、動物のような声が、自分の喉からあふれた。
腕が地面と縫いとめられ、それがあんまりにも熱くて、私はぼろぼろと涙をこぼした。多分鼻水も出ていただろう。指先がぷるぷると震えた。私の上に乗っかっていた男は、嬉しそうに顔を歪ませたのだろうけれど、目にたまった膜の向こう側があんまりにも遠くて、よくわからなかった。べろりと喉元を舐められた後に、服の間から、手のひらが伸び、乱暴に掴まれた。私はなんにもすることができなかった。無理やり足を開かれそうになったときに、男の首が、ころんと私の腹の上にこぼれ落ちた。「あ、あ、あ、いやあああああああ!!!!!」
ばっと飛び散った血液と、首から逃げるように、私は突き刺さった刀のことも忘れて必死で腕を振って逃げた。男はぽかんと瞼を開いたまま宙を見つめ、ゆっくりと瞼を閉じた。「お、おなご……!」
私に乗っていた男の向こう側で、がっちりとした鎧に身を包み、振るい終えたばかりの、血のついた刀を持ち、パチリとその人は瞬きをした。「な、何故このようなところに……いや、怪我をしているな!」 こちらに手を伸ばそうとしたその人から、私は逃げた。ごろごろと体をすべらせ、こぼれる血をぼたぼたと垂れ流し、ただ逃げた。
助けてくれた。そのときの私はそれに気づかなかった。ただ、あの殺された男と同じくらい、人を殺したあの人も怖かった。逃げなければ殺されると感じた。「待て、そっちは
!!!」 声が聞こえる。逃げないといけない。はやく、あの人の前から消えないといけない。
私の思考は、ただそれだけで埋まっていた。だからこそ、何も見えていなかった。ずるりとすべった足に気づいたときには遅い。「あっ」 体が一瞬、宙を浮いた。そして真っ逆さまに崖下に私は転げ落ちた。まるで侍のような男がこちらに必死に手を伸ばそうとしている。私も腕を伸ばそうとした。けれども痛くて腕は上がらなかった。ふと意識は遠くなり、私は瞳をつむった。
目を開けると、誰かに抱きしめられていた。
見覚えのない女性だ。「可哀想に、山賊のやつらにやられたんだろうね、可哀想に」 恰幅のいい女性は背中にかごを抱えていて、ぼろぼろと涙を流して私の介抱をしながら、目を開いた私に気づき、心底嬉しそうに微笑んだ。「あんた、目が覚めたのかい、あんた!」 最後のあんた、という声は、私に対してではないらしい。年を取った男性が駆けつけ、「ああ、よかったねぇ、よかったねぇ」といいながら私の額を撫でた。
「怖い思いはしなくていいんだ。山賊は、武田のお武家さんが、退治してくだすったから」 なーんも心配しなくていい。そう言う優しい声に、私は頷いて瞳を閉じた。夢は見なかった。ただ真っ暗な闇の中で、私はぽつりとつったっていた。
***
いつかまた、あの奇妙な夢を見ることができないだろうか。
ほんの少し、そう期待している自分がいる。「旦那、ちょーっとぼんやりしすぎじゃない?」「……む」 うむ、と俺は頷き、筆に墨をつけた。頭が痛い。このような雑務は苦手でござる、と口元をうごうごと引き締め、目を細めつつ筆を振るう。
(……殿、……)「い、いやいやいや」 即座に頭を振るい、雑念を消し去った。「旦那ー、ちょーっとこの頃情緒不安定?」「そ、そのようなことは……佐助、お前、何故ここにいる」
武田の忍びは口元をにまつかせ、天井裏からひょいと片手を振り、くるりと畳に着地した。「山賊退治、おーわりっとね」「まことか!」
とある賊が、村々を襲い、金品を奪うばかりか、女を辱め、それに抵抗する男たちを片っ端から殺してゆく。
そんな噂が聞こえたのは、年が開けてすぐのことであった。噂を聞きつけた武田の軍はすぐさま討伐にと乗り出したのだが、「なるほどなるほど。して、こちらの損害は」「なしなし。やっこさん、慌てて蜘蛛の子みたいに逃げてったけどね。ちゃーんと始末しておきました」「む」
笑顔の裏の言葉の意味に気がついたが、俺はただ瞳を閉じた。「そうか」 人死がでていないのなら幸いだ。ふと、佐助が難しげに眉をひそめていることに気づいた。「どうした」と声をかえてみると
「いやあね、兵が一人、女の子を見たっていうんだけれども……」「戦場にか!?」「うん、まあ、ちょっと場所は外れてたけど。一応そこいらの住民は避難させてたはずなんだけどさぁ……頭に襲われてたところを助けたはいいものの、崖からおっこっちゃって」
おそらくそのおなごは生きてはいないだろう。俺は眉を顰め、額に手を当てた。重い溜息をつく。「あー、ごめん。これは言わなくってもよかったね。ただ、ちょっとなんだろうな。ひっかかっただけ」「ひっかかるとは?」「聞いたところによると、どうにも奇妙な服を着ていたらしくて、言葉も通じている様子じゃなかったそうだから、異国の人間だったのかも」
奇妙な服という言葉を聞き、俺は一瞬、あの夢を思い出した。奇妙な家に、奇妙な乗り物。奇妙な食い物。すべては自分の妄想の産物だと理解はしているが、どうにも現実的な光景だった。俺は随分想像力が旺盛だったらしい。
「一応崖下を確認してみたんだけど、その女の子は消えちゃってたみたいだし、今となっては謎のまんまなんだけどね」
「そうか。まあ、今日ぐらいはゆるりと休め」
「そーはいかないのさー」
俺様働きものの忍びだもーん。そんな言葉一つを残して忍びは姿を消した。俺はもう一度、殿のことを思い出そうと瞳を閉じ、いいやそのようなことをしている場合ではないと眉間をもんだ後に、巻物へと向かい、「うむむ」と言葉を漏らして眉を顰めた。「頭が痛いでござる……」
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