この頃、奇妙なほどに、あのお侍様がうちの茶店にやってくる。しかも何故か、毎回毎回、「殿はおられるか!」と問いかけて、いないと聞かされれば、がっくり肩を落として去っていくらしい。一体どういうことだ。
常連客のお客さんは、「あのウブな幸村様が、何でかねぇ」「ちゃん、やるじゃないの、玉の輿だぜ!」とぐいっと親指を突き出されたのだけれど、そもそも私はその幸村様という人に会ったことすらない。一瞬、ぴろぴろと揺れる茶色い尻尾を見ただけで、正面顔すら拝んだことがないのだ。それでどうして、こんなことになっているんだろう。
自分でも知らないうちに、その幸村様という人にお会いしてしまったのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。こっちの世界にやってきてからというもの、私の世界はこの茶屋で終わってしまっているし、それ以外と言えば、あのときの
死んだ盗賊と、お侍しか知らない。
まさかあのお侍様が幸村様だったと言う訳ではないと思う。髪の色も、長さも違った。一体どうしてだろう、と私が一番混乱しているのに、「ちゃん、こりゃあ一体どういうことだい?」と女将さんと旦那さんが、ぐいっと首を傾げてこっちに問いかけてきたのだ。正直にわかりません、と答えたものの、「ねえちゃん、さすがにちょっと、姿を見せた方がいいんじゃないかしら。いくらなんでも、失礼だと思うのよ。幸村様は良い方だって、あたしは保証するよ」
どんっ、と女将さんが大きな胸を叩いた。
私だって、わかっている。これだけ町の人たちに好かれている人なのだ。悪い人な訳がない。(それでも) ぎゅっと唇を噛んだ。
そんな私を見て、女将さんは諦めたように首を振った。そうした後で、「仕方ないさね」と私の怪我をしていない方の肩を叩いて、「そら、そんな顔しなさんな。お客さんが逃げていくよ!」とにかっと白い歯を見せた。その姿を見て、私はホッとした。(大丈夫、会わなくっても、大丈夫)
そう思っていたのに。
「殿はおられるかぁああああ!!!!」
(ひぎゃあああああ!!!)
大きな声と共に、まるで台風のようにその人はやってきた。奥に引っ込む間もなく、私は台の下に引っ込んだ。木でできた長椅子には、赤い布が垂れ下がっていて、お客さんがいないのをいいことに、盆をそこいらにほっぽり出し、ぶるぶると震えた。「ぬ……? 誰もおらんのか? おおい」「はいはい、なんでしょ」 恐らく厨房から顔を出した旦那さんが、「あらま真田の旦那、今日もまたお元気そうで。お腹が寒くありません?」「うむっ、鍛えているからな!!」 お腹が寒いってどういう状況?
微妙に気になって、そそっと布をめくり上げたとき、恐らく幸村様と思しき男の人の姿が見えた。私はぽかんと口を開けて、(…………あかっ!!) 後ろ姿から赤いと思っていたけれど、想像以上に赤っ! 「主人、それでその、殿は?」「ん? なら、そこに……いませんな」 まったく盆だけ放り出して、どこに行ったもんかいねぇ、と呆れたような声に、すみませんすみませんと心の中で謝りつつ、じっと息を凝らして待った。
「そうか……それならすまぬ、また機会があるときに寄らせてもらうことにしよう」
「はいな、これからもご贔屓にしてくださいな」
すた、すた、すた、と聞こえる足音が遠くなった後も、私はしばらく台の下に潜り込んだままだった。さて、そろそろいいだろうか、とそわそわしながら頭を上げると、「あいたぁッ!」「のわっ」 ガツンッと頭が台にぶつかってしまった。
それと一緒に聞こえた悲鳴に、さっと背筋に嫌な汗が流れ、急いで台から抜け出すと、ぎょっとしたような顔をした茶髪のお兄さんが、パチパチと瞬きを繰り返して、「……おねーさん、いったいどっから出てきたの……」「す、すみません、その、これにはあんまり深くない訳が!」「深くないんかい!」 正直に答えすぎた。
本当にすみません、と崩れた着物を直して、ついでに土を落として顔を赤くしながら、「お客さんですよね、ご注文は?」「うん?」 深緑の着物を来た、若い男の人は、注文を言う前にとまじまじ私の顔を見つめた。「おたくがちゃん?」 知らない人に、いきなりちゃん付けで名前を呼ばれる覚えはない。
知っている人だろうか、と考えてみたのだけれど、これだけ顔が整っている人なのなら、記憶の端っこにでも残っているだろう。「ああ、はい、まあ、です……」と歯切れの悪い言葉を返して、じり、と後ずさると、お兄さんの方もハッと気づいたのか、「いやいや、ほら、真田の旦那のさ、噂。よく聞くじゃん?」 (ここでも真田さんか……!!) 自分の中で、まともに会ったことのない幸村様の好感度がガックンガックン下がっていく音が聞こえる。
「あの幸村様が、随分気にかけているそうだから、大層可愛い子なんじゃないかなーと俺様気になっちゃて」「はあ、普通ですみません」「いやいや、そんな謙遜しちゃわないで」
かわいいかわいい、と両手をひら〜っとさせながらニコニコ笑うお兄さんはどうにも軽薄なように見えて、素直に頷き難い。
思わず複雑な表情をしてしまったかもしれない。お兄さんは広げていた両手を、はたはたせわしなく動かした後、「あ、ごめんごめん、一方だけ名前を知られてるのは、気分もよくないよね」 いや別に、気になるのはそこではないのだけれど。「俺、佐助。そこらでちょっとした行商してんの、よろしく〜」「はあ……」
よろしくお願いします、と何をよろしくするのか分からないまま、頭を下げた。それにしても、「佐助って、忍者っぽい名前ですよねぇ」 猿飛佐助とか、木の葉額の漫画の子とか。
そう言った瞬間、佐助さんの笑顔が一瞬固まった。ような気がした。あれっと思ったときには変わらずにこにこ笑っていて、「そう? よくある名前だぜ?」「あ、そうですよね」 私と今では、時代も価値観も違うのだ。
はははははー、はははははー、とお互いにこにこ笑いながら、何だか笑い声が寒々しい気がするけど、なんでだろうかなー、と考えた。
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