困った。困った、心底困った。
殿、信じてくだされ、某はろくもんでござるッ!!!
何度も叫ばれた言葉を思い返して、うううう、と私は頭が痛くなった。女将さんと旦那さんに、「ちゃん、こりゃあいったいどういうことだい?」と首を傾げられてしまったのだけれど、そんなのこっちが訊きたいし、説明して欲しい。いいや、彼は説明した。その説明に、私は未だに納得ができないのだ。
ある日私は、ふわふわの白い、大きなわんこを拾った。そのわんこは人懐っこいのに、私に触られるのを嫌がって、お散歩に興奮して、お風呂は嫌がって、ご飯を美味しそうに食べて、首元に六文銭をさげていた。あんまりにも可愛いから、弟と一緒にこっそり面倒をみた。
お父さんとお母さんは、家に帰って来ていないけど、まあなんとかなるかなって思ってた。事実、なんとかなった。六文銭を首につけていたから、ろくもんと言う名前をつけたそのわんこの頭を、よしよしと撫でた。いつもはなでさせてくれないけれど、そのときばかりは、彼はそっと静かに撫でさせてくれたのだ。すごくすごく嬉しいなぁ、と思ったら、彼はぺろっと私のほっぺたを舐めてくれた。
それがあっちにいて、ろくもんと一緒にいた記憶だ。気づいたら裸足のままこっちにやって来ていて、それから先のことは思い出したくもない。
(幸村様が、ろくもん……)
そう彼は主張した。
私はとにかくつっぱねた。そんなの知らない、変なことを言わないでください、ととにかく怒った。でも本当な別にそんなにムカムカしていた訳じゃなくって、自分でもなんだかわからなかったのだ。私はこっちの時代にやって来てから、ろくもんのことを誰にも話していない。別に隠すことでもなかったけれど、わざわざ話題に上がる話でもなかった。という名前だって言っていない。弟がいる、という話くらいは誰かに話したかもしれないけれど、覚えているかぎりでは名前までは言っていないと思う。
そう考えると、もしかして、とうっすらと考えてしまう。でも、そんなの変だ。犬が人になる、いいや、人が犬になるだなんて、信じられない。でも、私はこっちの世界にタイムスリップしてしまっている訳で、それが今更普通がどうとか考えるのも変な話だ。
いっそのこと、全部が冗談だったらよかった。全部が全部、あの幸村様のたちの悪いいたずらで、最後には「びっくりされましたか?」なんて笑って、ひょいっとカメラが向けられる。そしたら私は、ものすごく怒るけれど、心の底ではほっとするはずだ。なんだ、やっぱり冗談だったんだ。
ふと、お腹の上に、ごろんと転がった生首を思い出した。
冗談だったらよかったのに。
全部が全部、冗談だったらよかったのに。
幸村様がろくもんかもしれない。わからない。本当にそうかもしれない。
でも、そうだったからと言ってなんなんだ。なんにもならない。結局幸村様は真田幸村で、武士なのだ。ろくもんが武士かもしれないだなんて、考えたくもなかった。でも、あの武士だって、本当は私を守ってくれたと知っている。あの人が来なかったら、今私はこの場にいなくて、少なくとも、言葉にするのもためらわれるような行為に染められていたと思う。
首を転がした山賊も、死んでしまった。
そりゃあもちろん、首がなくなってしまったのだから、死んでしまうに決まっている。ある意味、一番可哀想なのも彼なような気もした。誰を恨むこともお門違いで、間違っていると分かっていた。けれども、心の中はずっとぐらぐらとしていて、何かに八つ当たりをしないと、不安で怖くて、仕方がなかった。だから私は幸村様に近づきたくないんだ。どんどんぐらぐらする。
とにかく、考えることをやめようと思った。
答えなんて、どこにもないから。自分の心が落ち着かないと、何にも答えなんてでないし、別に出したいとは思わなかったから。
***
「どのー!!!」
とにかく俺は、彼女に近づこうと思った。ぶつかりぶつかり、ぶつかってぶつかりまくるのみである。「旦那、それでホントにいいの? っていうか俺様ぶっちゃけどうでもよくなってきたけどね、最初は面白いと思ったけど、案外面白くないよね」と従者にあるまじき言葉吐き出すお気楽忍者はさておき、暇を見つければ、殿の店に向かうと決めた。とは言っても、そうほいほいと暇が空く訳ではないが、それはしょうがない。父上や、親方様の信頼を裏切る訳にはいかぬのだ。
俺がいけば、殿がいることは稀であったが、それでも構わなかった。女将に、「殿はお元気でござるか」と団子を食いながら確認すると、彼女はわずかに苦笑しながら、「元気ですよ。刀傷も随分よくなったしねぇ」と盆をぱたぱたと扇子代わりに扇いでいた。「うむ、そうか!」
その言葉を聞くと、俺は随分安心した。ふむふむ、と幸せいっぱいに団子を口の中にふくめば、「……それで、真田の旦那様」「うむ?」 まるでこそこそと内緒話をするように、女将は俺の耳元に手のひらを向けた。「うちののことを、気に入ってくださったんで?」
「…………む? 気に入るとは?」
「あの、ですから、好いてくださってるんで?」
「うむ! もちろんだ!!」
殿と、その家族には、返しても返しきれない恩がある。恩人を無下に扱うなど、真田家末代までの恥。彼らを嫌う理由などどこにもなく、また好意をもたない理由もわからない。もちろんだ! と茶を飲み込み、もう一度頷くと、女将はパッと明るく笑った。「ですよねえ! そうだと思ってたんですよ! に訊いたって、なんだかもごもごするだけだし、でもね、私はねぇ、旦那とはお似合いだと思うんですよ。あの子はちょっと奇妙なところはあるけれど、気は利くし、器量良しだし、ねぇ旦那。うちの子のこと、よろしくお願いしますねぇ」
絶対ですよ、と何度も念押しされた言葉に、俺は力強く頷いた。もちろんだ。女将は大きな体を、ぴょんぴょんと嬉しげにはねさせながら、店の裏手へと戻っていく。俺は何故、彼女があんなにも嬉しげにしているのかと奇妙に思ったのだが、それも一瞬だ。刀傷も、随分よくなったし、という女将の言葉を思い出し、うむ、と唸った。
そして、一体どうすれば、俺は彼女に恩を返すことが出来るのだろうか、とぼんやりと青い空を見上げて、もごもごと団子を口の中に入れると、思わずそれが喉に詰まって、ゲホゲホとむせた。
それからまた日が経って、また殿の茶屋を訪れた。おそらくまた彼女はいないだろうなと思いながら、小さな布袋を片手にひょこひょことやって来たのだが、女将は俺の姿を見た途端、ぴょんっと飛び跳ねて、慌てたように店の奥に帰っていた。そしてすぐさま、「あの、なんなんですか女将さん、お団子を作っている最中なんですが」と着物の袖をぬぐって、困ったように首を傾げる殿の背中を、「ほらほら早く早く」と押しながら俺の前へと連れてきた。
たすき掛けから覗く、彼女の白い腕を見て、思わずポッと顔が熱くなったのだが、何をしておる、とぶんぶんと力の限り首を振った。
殿は俺を見た瞬間、一瞬きょとんとして、すぐさまムッと非難気な目付きで、「女将さん」と声を出した。女将はホホ、と口元に手を当てて、「それじゃあ、あたしはの代わりに団子でも作ろうかね!」と妙に大きな声を出して、また店に奥へと消えて行く。
殿は軽くため息をつくと、観念したように俺を見上げた。「それで、幸村様、ご注文は?」「あ、いや、今日は団子を食いに来た訳ではござらぬのだ」「はい?」
きょとりと首を傾げる彼女に、俺は手に持っていた布袋をひょいと向けて、「これを」 殿は、やっぱりどこか警戒した目付きで俺を見た。俺はにかりと笑いながら、「薬でござる。先日、女将から傷も随分よくなったと聞いたのだが、それでもやはり、まだ肌がひきつるのではないかと、持って来申した」
よく効く薬でござるから、使ってくだされ。と言えば、彼女は困ったような顔をした。暫く何かを考えるように眉を顰めた後、覚悟をしたようにするすると手のひらを伸ばして、ひょい、と俺の手から細い指先で薬を取る。
「せっかく、持ってきて下さいましたし。ありがとうございます」
「うむ! 足りなくなれば、いつでも声をかけてくだされ!」
「わかりました。万に一つも気が向いたら声を掛けるかもしれないしですし掛けないかもしれませんが、お気持ちはありがたく受け取らせて頂きます」
「うむ、うむ!」
万に一つに気が向いてくだされよ! と俺がにこにこ彼女に笑うと、殿は困った顔をした。けれども、彼女の手にある布袋に、また気分は高揚して、嬉しくなった。「それでは! 某は失礼しまする!」 パッと茶屋から駆け出した。
受け取ってくださった、くださった! と軽やかな足取りで屋敷に戻ると、ひょいと天井から顔だけを覗かせて、ばさばさ髪を反対にした佐助が、「こっそり見てた俺が言うのもなんだけれど、あれで喜んじゃうって、旦那って案外つくす男なんだねぇ」と呆れたような声を出していた。
何を言う、と「殿は俺の恩人なのだから、当たり前だ」と俺がムッとしながら反論すると、「そうかねぇ、そうなのかねぇ、俺様にゃー理解ができないねぇ……」と言いながら、佐助はしゅるしゅると天井裏に消えていった。
俺はふうと息をついて、それではそれでは、と巻物を広げながら、かしかしと手元の墨を水に溶かす。ふと、彼女の指先を思い出した。(受け取ってくださった) ふと、ニヤつく口もとを抑えようと、パチリと頬を叩くと、指についた墨が、ぺちりと頬にくっついた。
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