大の男が、道端にぱったりと倒れている。ぼんやりと空を眺めながら、ひりひり痛む顔を押さえた。「旦那、またやられちゃったねぇ……」「うむ……。いやしかし、これはわざと受けたのであって、自身への罰として」「それはもう聞いたから」
とりあえず、起きてくんなきゃ、俺様恥ずかしいんだけど。
むにょむにょ寝転がりながら話す俺に、はいさっさと起き上がって、遊んでる暇はないでしょーよー、と怒られつつ、俺はとぼとぼと城に帰った。力の限り殴られた顔面を撫でながら、どすんと畳に座り込んだ。積み上げられた文書に、フンッと鼻息を荒くさせて、勢い良く紐をひっぱる。くるりと紙が広げられた。「はいはい、乱暴にしちゃだめよ。あと旦那、これ追加」 ぽいっと屋根裏から新たな山を投げつけられて、見もせずに片手で受け取る。
畳の上にほっぽり出し、着物の裾に手を入れた。うむ、と唸る。殴られた。「どうしたのさ」 天井から、ひょいっと顔を出したままの忍びの声に、また唸った。うむ。「殴られた顔が痛いって訳?」 そんな訳ないよねぇ、と佐助はカラカラ笑いながら、すとんと上から転がり落ちる。
「あんだけ毎日親方様と殴り合いで、女の子に殴られた程度でどうにかなる真田幸村様じゃあないっしょ?」
「む」
その通りだ。しかしながら、妙にキリキリと胃が痛んだ。「俺は腹が減ったのかもしれない」「さっきたらふく饅頭を食べたばかりでしょうが」「ぬ」 ぬぬぬ。
ううん、と眉をひそめて腹の辺りを撫で上げた。腹ではない。もう少し上の辺り、(心の臓か) もしや奇妙な病か何かか、と一瞬ムッと眉を寄せたが、おそらく腹が減っている。それだけだ。「それにしたってさぁ」 佐助は妙にしんみりとした口調で、ひょいと俺の前に座り込んだ。膝の上に拳をのせて、ちらりと外の景色を見つめる。
「旦那、腹の一つも立たないわけ? 旦那がいくら変わってるって言っても、男が女に殴られて、なんの反応もないってのはねぇ」
「む。何度も言ったであろうが。殿は俺の恩人であるのだし、そもそも殴られる理由は俺にある」
「百歩譲って、その言い訳を認めてやったとしてもだよ、お決まりの破廉恥はどうしたのさ」
女の子の顔を旦那が舐めちゃうだなんて、ちょっと俺様信じらんないなァ、と首を傾げる男に、うむ、とまた俺は唸った。すると妙にじわじわと顔が熱くなり、気づけば俺は佐助と同じように膝の上に拳をのせて、じいっと畳の上を見つめていた。「殿は、特別なのだ」「とくべつ」 妙に舌の回りが悪く、佐助はそう繰り返した。
「そうだ、特別だ。そもそも、俺は彼女と風呂をともにしたことさえある。もふもふをされた仲であり、した仲だ」
「まったくもって想像が出来ない仲だけれどもどうぞ続けて」
「ただ今は俺が人の形となり、奇妙に見えるだけであり、実際としてみれば、そう不思議なことでもあるまい」
気づけば彼女と弟と出会ったそのとき、撫でられることからひどく逃げてばかりいた自身のことは、すっかりと忘れてしまっていた。これが当たり前かなにかのように思うようになってしまったのだ。佐助はやはり奇妙な顔をして、どうにも言葉を出しづらいというようにため息をつき、「あるまいってねぇ……」 あのさあ旦那、と顔を上げた。「旦那は、やっぱりちゃんのこと、好きなんじゃないの」
俺は暫く首を傾げて、「うむ、好いている」 女将にも、暫く前に同じことを訊かれた。
この間は照れてたくせにさァ、と佐助はぶつくさと文句を言うものだから、「あれはお前がいきなり訊くからであろうが」 兎にも角にも、唐突だったのだ。
とにかく俺は、彼女を好いている。当たり前だ。
「まあまあ旦那、口ばっかじゃなく、手も動かしなさいよ」とペイッと佐助は片手を振った。うむ、と俺は慣れた手つきで墨をすって、筆をつけると、その間も佐助は何やら考えこむようにしてうーん、と顎に手を置いた。「好いているってさぁ、そういう意味なの」 意味がわからん。「そういう意味も何も、そういうことだろう」 言葉の意味はひとつだろうが
紙についっと筆を転がす。さてどう言葉を続けたらいいものか、とじっと自身の筆の先を見つめると、「人として、じゃなく、女の子としてってことかなって訊いてるんだけど」 ぐりっと文字がいびつに歪んだ。
「お、おなごとして……?」
「言いたいことはわかるでしょうよ。これ以上の説明はさせないでよ」
「わからぬ」
「わからぬって」
「違うのではないか?」
そうだとすれば、きっと自身にもすぐに分かるはずだ。俺は気持ちを“ろくもん”に変えてみた。朝起きれば、姉弟がいて、散歩に行こうと笑っている。俺は親方様の元に帰らねばと思いながら、彼らに好意を抱いている。そして帰る方法も分からない。殿、。気づけば紙にそう書いていた。いかんいかん、と新しいものを用意する。「違うのではないかってねぇ」 曖昧だなぁ、と忍びは肩をすくめた。「俺様はそうじゃないかって思うんだけど、旦那じゃないからわからんねぇ」
「そうだな。俺もこの頃は常に親方様のことを考えている半分で、この頃は殿のことが頭から離れぬが、まったくもってわからんな」
「ブボッ」
よくわからぬな、とウムウム一人で頷いていると、「この人は」と言うように佐助は片手で顔を掴んだ。長い長い溜息をついて、「旦那が変なのか、俺様が変なのか、それともちゃんがおかしいわけ?」 もうなんな訳? と言葉を繰り返して、もう疲れたよ、勝手にして、と言い残し、佐助はそそくさと消えていった。不思議な奴だ。
***
「ちゃんのことばっか考えちゃう」
「うむ」
「考えると胸がいたい」
「うむ」
「できるなら一緒にいたい」
「うむ」
「いやんあはんなことだって、ホントはちょっと興味ある」
「ぬ、ぬ、ぬぅ?」
いやんあはん?
最後は少しよくわからなかったのだが、とりあえず頷いた。痛い頭を抱えたという風な顔つきで、どすんと俺の目の前に座った佐助は、「まとめます」 ぬ。と俺はコクコク首を動かした。「それは恋です」 座り直した。思わず外の池を見つめた。「恋だっつってんでしょ! 池の魚を見るのはやめなさい!!!」 怒られた。
それから暫くののち、俺は切々と佐助から、恋とはなんぞやという話を聞かされた。興味深い話であるが、さてそれが自身と殿と符号するかと言われればいささか不安である。あいかわらずよくわからぬ。しかしながら、佐助も佐助で背を向けて去ってから数日、自身で話をまとめあげらしく、根気強かった。
同じく俺は数日をかけ、やっとのことで、なるほどと理解した。つまり俺は、殿のことが好いている。恋をしている。なんだかそんな気がする。確かにそんな気がしてきた。「むおおおお!!!!」 俺は叫んだ。腕を振り上げた。そして即座に駆け出した。「ちょ、ちょっと、どこに行くのォ!?」と佐助の悲鳴が聞こえた気がしたのだが、無視をした。ガラガラ下駄の音を鳴らしながら、砂埃を舞い上げ俺は走った。走った。走った。「殿ォ!」 覚えのある茶屋の前には、ぎょっとした顔の彼女がいる。思わず破顔した。
「……な、なんですか。他のお客様もいるんですから、お静かに!」
慌てたように眉をひそめる殿にどきりとしながら、俺は口元を引き結んだ。そして彼女の両手を俺はぎゅうっとつかみ、「俺と、めおとになってくだされ!!!!」
気づけば俺は股間を蹴り上げられ、地面に向かい悶絶していた。
さすがにこれは、ちょっと痛かった。
「なんで旦那ったら、こう先々、先走っちゃうの?」
「ぬ、ぬ、ぬおおおお……」
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