「
どの、祭りでござる!」
ぽとぽとと汗があふれるある日、団子の串を掲げた幸村様が、熱さも吹き飛ぶくらいの笑顔で、パッと嬉しげに口を開いた。
私はぎゅっと盆を抱きしめて、きょとりと一つ、瞬いた。
「すみません、おかみさん、夜なんですが、少し出かけてもかまいませんか?」
「ん、ああ、そういやあ夏祭りだったねぇ。いいよいいよ、行ってきな。誰と行くんだい? 隣の畳屋の娘さんかい」
女の子二人は危ないから気をつけなよ、とタスキをはずす女将さんに、「あ、いえ、違うんです」 手のひらを振った。「まさか一人かい」 ちらり、と店の奥にいる旦那さんが、こっちを見た。「いえ、その、それも違ってまして」
ごそごそと店着を着替える。「幸村様となんですが」
呟いた私の言葉に、ぽかん、と彼女は口を大きくさせた。その後パッと両手を広げて、旦那さんに目配せする。うんうん、とおかみさん一人が頷いて、旦那さんは口元をへの字にした。
思い出すと、なんだか少し笑ってしまうな、と私は昼間のことを思い出して、たすたすと足を踏み出しながら幸村様を待った。お店に向かえに来る。彼はそう言ったけれども、せっかくだからと、店からしばらく離れた大きな柳の木の下で、ぼんやりと彼を待った。
とん、とん、とん、と遠くから太鼓の音が聞こえる。いつもの着物が、まるでお祭りのために浴衣を着ているみたいで少しだけ気分が面白くなった。
とん、とん、とん。
太鼓と一緒に、別の、小さな音が聞こえる。
「どの! お待ち申したかー!?」
ぱたぱた、と人ごみの向こうで幸村様が手のひらを振っている。私は慌てて、「ストップ、待って! ゆっくり!」 お客さんをひいちゃだめですよ! と声をかけた。幸村様はおっとと、と言う風に息を吸い込んで、慎重に見物客をかき分けていく。「どの、お待ち申されましたか」 そしてまた同じ事を繰り返した。
私はぶるぶると首を振った。そうすると、幸村様はパッと笑った。首元でちゃりんちゃりんと六文銭がはねた。私はそれにちらりと目をやって、もう一度幸村様を見上げた。近くで見上げると、案外彼の背は高いように感じた。
「よし、こちらでござる!」
案内は任せてくだされ! と彼はにっかり八重歯を見せてずいずいと進んでいく。ゆっくりと暮れていく日の中で、私はバタバタと手のひらを動かした。はぐれそうになる度にちょっとだけ小さな声を出して、きょろきょろと辺りを見回す。とん、とん、とん。太鼓の音が、少しずつ大きくなった。とんっ!
響いた音と一緒に、パッと手のひらを伸ばした。幸村様の袖がぐいと引っ張られて、彼は少しだけ振り返った。草履の間にざらざらとした土が入り込んで、少しだけ気持ち悪い。私は彼の顔を見たまま、少しだけ手を伸ばした。ほんの少しだけ小指を絡めたら、パッと幸村様は耳を赤くした。そのまま手のひらを握ると、ほっぺたがゆでダコみたいになっていた。
けれども彼は私の手のひらを離さなかった。ぎゅっと握り締めると、幸村様は口元をへの字にしておもいっきり握り返した。少しだけ手のひらが痛かった。ごつごつとしていて、堅い手のひらだった。
じっとりとかいた汗が、お互いの手をすべって、パッと離れたそれを、もう一度握り直す。さっきよりもぎゅっと近くに握りしめて、彼の隣に行くと、幸村様はぎゅっと歯を食いしばって、苦しげに地面を見つめて、今度は瞳を閉じた。真っ赤な顔のまま、ほんの少しだけまぶたを開いて私を見て、また口元をへの字にして目線を逸らした。べちっと反対側の手で、彼は自分のほっぺたを叩いた。
最初は困るくらいにこっちに突進してきたのに、なんだか変な人だった。私から一歩踏み出すと、どうしたらいいかわからなくなって、とにかく顔が赤くなる。声をかけようと思った。でもやっぱりやめておいた。代わりにくすりと笑うと、幸村様は不思議気に私を見下ろして、「破廉恥でござる」と一言呟いてお互いつないだ手のひらを見た。「……破廉恥でござる」 もう一回こぼした声は、自分自身に対して、何かを言っているみたいだった。それが面白くて、私はまたからからと笑った。
「ほっぺを舐める人は、もともと破廉恥だと思いますよ」
なんのことだ、という風に瞬いた彼は、数秒を要して意味を飲み込み、痛い所を突かれたという風に口元を情けなく緩めた。
みこしが来る。じゃんじゃんじゃん、と鳴らした鈴の音が、目の前いっぱいに広がっていく。むわっとした熱気に、いくらか首が汗ばんだ。幸村様の首元では、ちゃりん、ちゃりん、と小さな円がときどきかすかにぶつかり合った。
道いっぱいに通り過ぎる大きな屋台の周りを、見物客がひしめき合う。今更になって、お店の手伝いを抜けてしまったことを後悔した。いいよいいよ、と女将さんは言っていたけれども、今日はきっと稼ぎどきだったはずだ。ときどき口元に団子をくわえた人たちが通り過ぎる。そのたびに幸村様は少しだけ羨ましそうな顔をして、ぶるぶると首を振った。
「幸村様は、よくお祭りに来るんですか?」
「んぬ?」
大きな声で叫ばないと、彼の耳に伝わらない。「幸村様は、よくお祭りに来るんですかー!?」「うむ! 暇があればでござるがな!」 にかっと嬉しげに笑う彼は、確かに祭りの風景によくよく似合っていた。
私は幸村様にひっぱられて歩いた。私が持っていた団子を二人でもぐりと口にふくんで、しゃんしゃんと聞こえる鈴の音を耳にする。少しだけ気持ちが明るくなった。けらけら、と勝手に口元が笑っていた。幸村様は、相変わらずほっぺを赤くしたまま、ぎゅっと私の手を握って、嬉しげに私を見下ろした。「某は、どのが笑ってくださると嬉しい」 彼はよく気持ちを教えてくれる人だと思った。「ほんの少しずつでも、どのに、恩を返してゆきたい」 ぎゅっと、また力強く、彼は私の手を握った。
「…………幸村様が、ろくもんだからですか?」
なんだか、ちょっとだけ口元が笑ってしまった。このところ、彼とその話はしていなかった。うむ、と幸村様は力いっぱいに頷いた。けれどもしばらくして、どこかを考えるように真っ暗な空を見上げて、いくつか星の数を数えるくらいの間を開けた後、「某は、真田幸村でござるから」 よくわからない。「真田源次郎幸村として、どのを好いておりますから」
ぱっと色合いが明るくなった。
にかりと笑った彼は、出会った頃とはどこか違っているようで、けれどもやはり同じだった。私が変わっただけだった。幸村様といると、色が変わる。気づいてしまった。私はパッと瞳を大きくさせて、またしぼませた。とんとんとん、と心臓の音が大きくなる。何かがぐわりと喉の奥から湧き上がった。
どのを好いておりますから
もう一度、声が聞こえた気がした。ぽとりと、汗が滑り落ちた。私は気づいてしまった。
もう、こんなにも暑くなってしまったことに、気づいてしまったのだ。
いつしか、季節は変わっていた。こちらに来たばかりの頃は、ほんの少し肌寒かったはずなのに、どんどん時間ばかりが過ぎていった。私が変わったことと同じくらいに、周りの季節は変わっていった。息を飲み込んだ。でもダメだった。喉から苦しげな声があふれた。幸村様は、きゅっと目を見開いて、私を見下ろした。私は彼を見上げた。ぽたぽたとこぼれた雫が、地面に丸い円を作った。
緩んだ幸村様の手から逃れて、私は何度も顔を拭った。飲み込んだはずなのに、喘ぎばかりが大きくなった。何度も必死に飲み込んだ。我慢しなきゃいけない。そう思うのに、我慢すればするほど、苦しくなっていく。ずっ、と鼻をすすった。「どの」 ぼんやりとしたような声で、幸村様は私の名前を呼んだ。「殿」 今度は、もう少し芯が通った声だった。
「幸村様」
情けない声だった。ぼたぼたと涙ばかりがこぼれて、どうすればいいのか、またわからなくなった。
「かえりたいです」
子どものような声を出した。「帰りたいです。お母さんとお父さんがいる場所に。のところに。幸村様、わたし、かえりたいです」 腕を、ぎゅっと幸村様に握りしめられた。彼は苦しげな顔をしていた。それは少しの間で、私はパッと幸村様にかきだかれた。「すみませぬ」 彼の胸元に、額を当てた。「殿、すみませぬ」 さぞ、お辛かったでしょう、と小さな声で、彼は呟いた。力いっぱいに抱きしめられた腕が苦しくて、私はほんの少しだけ、喉のひくつきが小さくなった。
「某が、必ずあなたを元の場所にお帰ししまする。必ず、某が」
しゃんしゃんしゃん、と祭りの音が聞こえる。ざわつく人ごみの中で、まるできょきりと切り取られたかのように、私と幸村様は二人一緒に抱き合った。ぼろぼろと涙をこぼしたまま、何をいうこともできずに、抱きしめ合った。
← ■ →