ねえちゃん、ねえちゃん
声が聞こえた。
布団から飛び起きた。小さな声が聞こえた気がした。ふう、ふう、と口からあふれた息を飲み込んで、瞳を瞑った。首元からぽたりと冷たい汗がこぼれた。隣を見れば、女将さんと旦那さんの寝息が聞こえる。夢だ。ただの夢だ。(けれども) 泣いていた。
が泣いていた。
「か……もう、随分大きくなっておるのだろうな……」
「どうだろう、あの子、いつも背の順は前の方でしたし」
せのじゅん? ときょとりと瞬いた幸村様に、「背の順番の略称です」と答えると、なるほど! と彼は瞳を瞬かせた。パタパタと二人一緒に縁側に座って、溢れる紅葉に目を向けた。ぽろんとこぼれた一枚は、池の上に小さな波紋を描きながら、くるくると踊っていた。
「なるほど、理解でき申した」
うむうむ、と一人納得するように頷く彼に、首を傾げた。幸村様は、しばらく何か考えるように口を開いた後、ちらりと私を見下ろした。困り顔で、ちょいちょい、と私の目元を指さした。「寝ておられぬのだろう」 言葉の意味を理解した後、慌てて目の下をこすった。確かにこのところ、定期的にの夢を見るようになって、ひどく寝付きが悪かった。
うあー、と恥ずかしくなって顔を隠すと、「いけませぬ。うむ、いけませぬぞ」と幸村様はビシビシと人差し指を動かした。「休養をきっちりととることで、いかなるときにでも対応する身体を身につけることこそ、武士の努めというものでござる」「私はただの一般人ですが……」「…………えー、獣の努めでござるっ!」「人間です」
人間も獣で、ごごっ、ござるっ!! と幸村様にしては、いくらか賢い返答だった。
「いや、私もわかってはいるんですが……気持ちと頭は別といいますか」 寝よう寝ようと思っても、ひんひん泣くの声に、毎度ぎくりと体が飛び跳ねてしまう。「うむう、確かにそうやもしれませぬな……」 ううむ、と幸村様は腕を組んでコクコク、と体を揺らした。そしてパッと瞳を輝かせて、「どの、失礼!」「え、あ、うわっ!」 ひょい、と持ち上げられた。
うわうわうわ、と暴れても幸村様はまったくビクリともしない。「こらっ! やめなさいー!!」 ピタッっと止まった。それと同時に、勢い良く投げ出された。「へぶっ」 思わず変な声を出してしまったけれども、言うほど痛くはない。「でも、鼻はぶつけた……」「うおおおおお、そそそっ、某、申し訳ござらぬ! 怪我はありませぬか!」「ないです……けど、幸村様ダメでしょう!」
ビックリするじゃないですか、メッ! と手のひらを突きつけると、幸村様はしょんぼりと頭をたらして、ついでにちゃりちゃりと首元の六文銭を揺らしていた。「まあ、お布団の上で、そんなに痛くはなかったから、よかったですけど……」 ホッと彼は息をついた。何かこそばゆくなって、いそいそと布団の上に座り直すと、「そう、布団でござる!」「……はい?」
「どの、某と一緒に、寝ましょうぞ!」
久しぶりのこのパターンだった。
「どの……某は……某は……何故局部を強打されたのでござろうか……? 何かそそうをし申したか……?」
「すみません、今のはちょっと過剰反応した私が悪かったと思います」
一瞬そういう意味かと思った。
ぶるぶると内股になる彼を見ながら、そういえばさっき、きちんと眠れないと言ったばかりだったことを思い出したのだ。「こっちでお昼寝しろって意味ですよね、あの、ほんとすみません」「う、うむ、む」「あ、それじゃあお言葉に甘えて……」「うむう」 ぶるっと幸村様は震えた。多分痛かったんだろう。
失礼しますー、とごそごそお布団の中に潜り込むと、なぜだか幸村様は私の隣にちょこんと座り込んで、じいっとこっちを見下ろしていた。「あの、幸村様」「なんでござろうか?」「なんで隣に座ってるんですか」「ああ、添い寝をご所望でござったか」 しからば失礼、とよっこいせと布団を持ち上げる彼を思いっきり蹴り飛ばした。
「何を考えています、一体何を!!」
「ん、え、いや、ろくもんのときには、よくこうして」
「知りません!」
幸村様がろくもんであったとか、そうであったとか、未だによくわからない。嘘ではないような気がするし、あいかわらずからかわれているような気もする。けれども首元でちゃりちゃり揺れる六文銭を見ていると、いつもどうでもいいような気分になって、べちりと幸村様のあごを手のひらで押し乗せた。「とにかく、今は幸村様は男性なんです。健全な男女がお布団に一緒に入る意味を考えてください!」
言い過ぎたか、と少しだけ耳元が熱くなって、後悔した。けれども幸村様は変わらずきょとんと首を傾げて、「だから」ともう少しわかりやすく言うべきかと言葉を付け足そうとしたとき、ぼぶっと赤面した。
お、と私はお布団から体をあげて、「幸村様」「そそっ、某は、おれは」 ばたばたばた、と片手で後ずさりながら、もう片方の手で必死に何かを否定している。「そそそそそそ、そのような意味ではあ……! 決して! 決してェ!」「わ、わかってます、大丈夫です」
ただの例えです、やめてください、とこっちまで釣られて真っ赤になって首を振った。唐突に静かになって、お互いぼんやり見つめ合っていると、妙に居心地が悪くなった。「それじゃあお言葉に甘えて!」 まるで時間が遡ったみたいに、さっきと同じセリフを繰り返してお布団の中に顔まで埋めた。「う、うむ!」 幸村様が変な具合に力の入った返事をした。そしたらまた恥ずかしくなった。
多分まだ、幸村様は部屋の中にいるんだろう。どっ、どっ、どっ、と聞こえる音がひどく近くて、頭の中がぐらついた。寝れるわけない。そう思ったのに、くん、と鼻をひくつかせて、(あ、幸村様の匂いだ)そう思った瞬間に、とろとろとこぼれてしまった。ゆっくりと落ちた。やっぱりは泣いていた。ねえちゃん、どこ行ったんだよう。ろくもんもいなくなっちゃったよう。母さんと父さんも、すっごく心配してるんだぞ。
ねえちゃん。
返ってきて。
「
殿!」
揺り動かされた。
薄く瞳をあけると、こちらに茶色の髪をたらした幸村様が、きゅっと瞳を開きながら、私の肩を揺さぶっていた。「殿、起きてくだされ、どの!」 ゆっくりの瞬きが、少しずつ速くなって、はっきりとさせた瞳をきょろつかせた。幸村様はホッとしたように、ぎゅっと私を抱きしめた。「ゆ、幸村様!?」「どの」「ど、どうしたんですか?」 なにかありましたか? とよしよしと背中を撫でると、あの真っ白で、大きな犬の背中を撫でているときと似ているな、と思った。
「殿が」
「私が?」
「落ちてゆくと」
「落ちて?」
床に穴でも空きました? と目を向けても、特に何があるわけでもない。「思い出した。落ちるのだ。どの、あちらにゆくには、落ちるのだ」「…………落ちる?」 聞き覚えはないはずなのに、カチリと頭の中でピースが埋まったような気がした。
ごそごそと私と幸村様はお互いから離れて、「ここで」と幸村様は真っ白な布団に大きな手のひらをついた。「眠って、落ちる。そうだ、某は、そうしてあちらに行き、帰ってまいった」 どのはどうであったか、と尋ねられて、私は少しずつ記憶を遡った。ざらざら、とけずれたビデオテープのような記憶は、あまり思い出したくはないことが多いからなのかもしれない。お腹の上に、ごろんと生首が転がった。肩をこわばらせると、幸村様に手のひらを握られた。ゆっくりと息を飲み込んで、彼を見上げた。「パジャマでした」
「こっちに来たとき、私は寝間着でした。多分、夜に寝て、そこから」
「やはり」
これかもしれない、と手のひらを当てた。けれどもやっぱり違う、と首を振った。「私、こっちに来てから、何度も何度も眠ってます。当たり前です。でも、別に、そんな」「場所だ」 ばしょ、と言葉を繰り返した。「眠る場所が重要なのだ。某のこの布団で眠るからこそ、意味があったのではないか?」「ええ、そんな」 確かに高そうなお布団ではあるが、まさかそんな不思議現象が伴うお布団であるなど、誰が予想がつくだろう。
「……でも幸村様、毎日このお布団で眠ってらっしゃるんじゃないですか?」
「そ、それはそうだが、こう……丁度いい具合というか、時期というものが必要なのやもしれませぬ」
「ううん……」
どうだろう、と釈然としない気持ちはあるけれど、100%の否定はし辛い。「お布団、ですか……」 うーん、うーん、と唸りながら、私はそっと敷き布団に手のひらをのせた。ふわりとしている。なんてことない布団じゃないか、そう思ったときだった。誰かが、ぎゅっと私の腕をつかんだ。
「え」
幸村様じゃない。幸村様も、ぽかんとして私の腕を見ていた。ぐいぐい、と腕はどんどんひっぱられて、布団にめり込んでいく。まるでそこに小さな穴があるようで、そこから先に無理やり進められているみたいだ。「え、え、え」 ぱくぱくぱく、と幸村様と一緒に口を動かした。「えええええー!!!!」「どのおおおおおおおー!!!!」 思いっきり、幸村様にひっぱられた。
すぽんっ、と案外あっけなく穴から私はすり抜けて、勢い余って幸村様と一緒にごろごろと転がった。
「ちょっとちょっとー、旦那たち、情事をするってんならもうちょっとおしとやかに……っていうかー、なにやってんのぉー?」
もー、野性的なんだからァー、とごそりと天井から反対に頭を覗かせた佐助さんが、幸村様に引っ張りあげられたまま、二人一緒にくっつく私達を見て、「あ、こりゃ失礼」といそいそと消えて行こうとした。けれども、私達から何の反応もなかったからか、彼はほんの少し不思議気な顔をしてゆっくりと部屋の中を見回した。そうして、真ん中にちょこんと敷かれた布団に目をやり、「ウワオ」 変な声を出した。ぎゃひ、と私も一緒に悲鳴を上げそうになって、ぎゅっと幸村様の着物を掴んだ。幸村様は膝の上に私を乗せたまま、ぽかんと大きな口をあけた。
なんていったって、幸村様の布団の上に、細い腕が、一本にょろりと生えていたのだった。
わきわき、と腕は何度も小さな指を動かして、そのうちいそいそと“向こう側”へと帰っていった。真っ昼間に行われるには、まるでギャグのようなホラー映像に、さすがの佐助さんも言葉をなくして、ストンと床に飛び降りた。わしわし、と何度も幸村様の布団を触って、「仕掛けは、ないみたいだねぇ……」 妙な幻術の類でもない、とくんくん彼は鼻を動かしている。
「…………ちょっとした提案なんだけど、俺様の気のせいってオチで片付けるってのは、どうかなあ?」
***
「俺様、まーったく信じてなかったんだけどなあ」と苦い顔をしながら顎をさする佐助さんと、私達は神妙な顔で向かい合った。あれは、確実に“あちら側”のものだった。「私、多分、あの手にひっぱられたら、元の世界に帰れるんじゃないでしょうか」 じっと畳の一点を見つめながらそう呟くと、「ええー?」と佐助さんは気味が悪気に喉をならした。「危ないもんだったらどうするのさ。正直ちょっと、怪しいと思うんだけどねえ」
そうだ、とも。違う、とも、幸村様は何も言わなかった。私は少し考えた後に、言葉を続けた。「あれは、弟の手だったような気がするんです」 佐助さんは、眉をひねった。
ずっと長い間、の手を握っていない。けれども、弟の手なら分かる。きゅっと握った柔らかさは、確かにあの子のものだった。(でも) 大きくなっていた。自分の記憶とは、どこか違う。だからこれはなんとなくで、絶対の自信がある訳じゃない。
うーん、と佐助さんは、相変わらず首をかしげていて、「それじゃあ、ちゃんはもう一回旦那の布団で寝れば、ちゃんが言う故郷に戻れるってこと?」「……たぶん、ですけど……」 自分の声なのに、どこか違うような気がした。嬉しいのか、そうじゃないのか、いろんな気持ちが交じり合っていて、よくわからない。嬉しいが全部になるはずなのに、なんでかそうならない。
「あー、まあ、いいんじゃない? 弟の手だかなんだか知らないけど、やることって言えば旦那の布団で寝るだけだし。他に方法は思いつかないんだから、とりあえず試すだけ試してみたらいいさ。いざとなりゃ俺たちがいるし。ねえ、旦那?」
旦那? ともう一度佐助さんは幸村様に問いかけた。私も遅れて彼に目を向けた。幸村様は、ぎゅっと膝の上で拳を握りしめていた。瞳までぎゅっとつむって、一つ小さなため息をついた彼は、私と佐助さん、両方の視線に今更ながらに気づいたという風に、ギクッと肩を飛び跳ねさせた。「旦那?」「幸村様?」「あ、いや、うぬ。……某、思うのだが」 ちろり、と幸村様は布団を見つめた。「それで、どのがその、某の布団で、あちらの世界へ行って……いや、もし行けたとして。この布団は、どうするべきなのだ?」
そこまでは考えていなかった。うん、と顎をひっかいて、一つ答えを見つけたのだけれど、こんなことを行ってもいいものか、と言葉を止めた。けれどもその私が止めた言葉の代わりに、佐助さんが口を動かした。「ま、処分すべきだろうね。俺様はよくわかんないけど、妙なものには蓋をするのが一番ってね。燃やすでもなんでもして、跡形もなく処分すべきだと思うけど」
ぴくりと幸村様の肩が震えた。きゅっ、と彼は片目を細めると、「いや」 顔を上げた。
「この布団は……その、寝心地がいいのでな、処分というのは」
幸村様は、自分の言葉にハッとして、口元を押さえた。「いや」と、さっきと同じ言葉だったけれど、それよりも低い声を出して首を振った。私は佐助さんと目を合わせた。
「ま、わかんないけどさ。とりあえず、今日は帰ってもらったら? 夜になっちゃうしね」
佐助さんのその言葉をきっかけに、私は屋敷から帰宅することにした。
送ろう、という幸村様の言葉に、私は素直に頷いた。幸村様は奇妙に言葉が少なく、ただぽくぽくと足を動かすだけだったのだけれど、特に気まずいというふうには感じなかった。なんとなく、タイミングを計っている。そんな風に思えたのだ。「もし私があっちに行けて、お布団を処分してしまったら、どうなるんでしょうか」 とろとろと落っこちる夕日を見上げながら、問いかけた。返事はなかった。
「どの」
代わりに、幸村様は呟いた。
「今度また、祭りに行きませぬか」
「お祭り?」
紅葉する葉っぱを見て首を傾げると、幸村様も同じ事を思ったのか、「あ、いや、祭りの季節は、過ぎてしまいましたな」 困ったように彼は空を見上げた。「祭りでなくとも。今度、1日だけ。いや半日でも。どこかに……」 彼は言葉を詰まらせた。くっ、と喉で息をとめて、吐き出す。「団子を、食いに行っても構いませぬかな!」 唐突に、跳ねるような明るい口調で笑った。
「どうぞ」
出した返事は、案外静かな声になってしまった。「どうぞ、いつでも」 幸村様が、息を飲み込んだ音がした。一人分にしては、妙に音が大きいなと思うと、私も彼と同じような表情をして、ぐっと息を止めていた。
二人一緒に同じような顔をしていた。
「帰られますか」
問いかけられると困った。「帰られると、思いますか」 その言葉には、返事ができた。「たぶん」 なんとなくだけれども。
できるかどうか、成功するかどうかわからない。そんな風に佐助さんは話していたけれども、なんとなく、私は大丈夫なような気がした。なるほどこれだ、と頭の中でピンときた。
やっと帰れるんだ。そう思うのに、跳ねるような気分はなくて、そのことが、妙に悲しくて、悔しかった。幸村様は、はー、と息を吐き出した。ぽてぽて、と通りを歩いて、夜が近づくからか、少しずつ人の気配が消えていく。「考えてみたのだ」 着物の裾に腕を通しながら、幸村様はぶらぶらと足を動かした。
「俺が、もしあちらに行き、帰ってこれぬとしたら、どうなるか。親方様について行くこともできず、俺は使命を果たすことができず、文字通りのただの犬として終わる。これは困る」
ひどく困る話だ。と幸村様は唸った。
「某は……あちらにおるとき、とても楽しかった。けれども、帰らねばならぬとわかっていた。殿、俺は男だ。男だから、殿を好いている。しかし男であるからこそ、帰らねばならぬ義務が分かる。殿にも、あちらですべきことがあるのではないだろうか」
言葉が出なくなった。
えぐ、と一回息を飲み込んだ。何度も飲み込んで、けれども耐え切れないとなったとき、幸村様は慌てたように私の手をひっぱった。ごろごろと逃げるように土手に滑りこんで、ばたばたと両手を暴れさせながら、着物の裾で私の目元をぬぐった。ひぐ、とまた変な息が出た。耐え切れないとばかりに、幸村様は私の後頭部をつかんで、自分の肩に、私の額をあてた。
ごつんとして痛かった。けれども安心して、ぺたりと濡れた草木の上に座り込みながら、ぼろりと涙がこぼれた。え、え、え、と何度も赤ん坊のような泣き声を、ちぎれて泣いてを繰り返した。幸村様は、何も言わなかった。ただ大きな手のひらで、ごしごしと私の髪をなでていた。「両方って、ないんでしょうか」 答えはなかった。私だって、わかっていた。
「の手のひらは、大きくなっていたな」
幸村様にも、わかったらしい。うん、と私は頷いた。「おそらく、あちらでは、こちらと同じ程度の時間が流れているのだろう。某のときとは違う」 怖くなった。怖くて掴んだ幸村様の着物を、幸村様は握り返した。
「某は、ここにおりますから」
ずっとここに、おりますから。
幸村様と一緒に、お団子を食べた。いいお天気だ。そう言って、私達は空を見上げた。こちらでたくさんの知り合いができた。故郷に帰ると、一つ一つお礼とお別れの言葉を言って、頭を下げると、女将さんに泣かれてしまった。
全部が終わった後、私は幸村様のお布団に入った。幸村様と、佐助さんはじいっとこっちを見下ろしていて、なんだかへんな状況だと思った。こんなの眠れる訳がない、と文句を言うと、幸村様はちょっとだけ苦笑した。それでは、某、背を向けておりますから。こちらには、いさせてくだされ。そう言って、よっこらせと背を向け直す幸村様の手を握ろうとした。けれどもやっぱりやめておいた。“落ちる”ことができなくなる。そう思ったからだ。
眠れない。そう思ったはずなのに、夢は案外足早にこっちに向かってやってきた。さあさあ落ちろ。落ちてしまえ。
わんっ
白い、大きな犬が通った。そう思ったのは、きっと気のせいだ。ねえちゃん。
懐かしい、声が聞こえた。
***
「…………殿?」
振り返った。
布団の中には何もない。まるで、つい先程までそこにいたとばかりに、こんもりと形作る掛け布団が、なにやら寂しく感じた。「ほんとに行っちゃったんだねぇ」 ぽつんと呟く佐助の声に、ああ、と頷いた。
親指と、人差し指をこすり合わせた。彼女は消えたのだ。
← ■ →