少年は逃げた




雨の中をひたすら逃げた。肌に突き刺さる水滴は、まるで針のように自身の奥へと滑り込んだ。ここはどこだ。俺は誰だ。何をしている。彼はどうなった。溢れ出る疑問に、自分は答えることができる。一つ一つ、思考の中で言葉を上げる。(ここは、レナンカンプ) いや、正確に言えば、グレッグミンスターと、レナンカンプを結ぶ街道だった。(俺は) ・マクドール。(俺は、逃げている) 逃亡している。誰から。追っ手から。それは誰だ。近衛隊だ。ウィンディに狙われたと彼は言っていた。
彼は。
(俺を逃した)

囮となった。
俺を逃した。顔を泥だらけに、ボロボロの体を引きずって、何度もすまないと喉から声をすり出した。彼は最後に、俺の右手を強く握った。「ここにいるんだ」 何がだ、と瞬くと、テッドは後ずさった。自身の右手を握りしめ、苦しそうに笑った。一瞬だけ瞳を瞑った。けれどもすぐさま体を反転させて、近衛兵の間を駆け抜ける。


     彼から譲り受けた紋章の名は、ソウルイーター

生と死を司るその紋章の名を、俺は頭の中の本のページをぴらりと開いた。27の真の紋章のうちの一つ。ただのお伽話だ。剣と盾が争い、砕け散った宝石たちの成れの果て。(お伽話?) 違う。つい先ほどまで自身が崇めるべきであったはずの主、バルバロッサ・ルーグナーは覇王の紋章を所有していた。ハルモニアには、円の紋章があるという。ハイランド国のブライト王家にも、また紋章が封印されていると聞く。
すべてはただの噂話のようなもので、仄聞だった。真の紋章を宿せば、人は不老となる。それがどうしてそうなるのか、実際のところ、理論的に証明と説明をできたものはいない。27の内、行方をくらませている紋章は多く、また紋章を宿し、不老となり続けるものも多くはない。聞きかじった書物の知識ではあるけれど、ファレナの女王国はその典型だ。婚姻の際のみ、その身に紋章を宿す。

人は長く生き続けることを拒む。
だからだろうか。いいや、違う。不老となるものが多くはないのではない。不老となった、多くの者たちは、その姿を消すのだ。小さな頃、部屋の中で分厚い本のページをめくりながら、俺はそう思った。誰も行方を知らない紋章達は、そんな姿を消した宿主と旅に出る。色々な世界をめぐる。彼らは多くの人と出会い、笑い、別れる。そしてまた次の街へ。
お伽話だ。そんな夢を持っていた。想像すると、少しだけわくわくした。

本当に、子どもの夢だった。(俺は) けれども事実であった。


     俺は、三百年間、世界を放浪して逃げ続けるはめになった


彼は長く言葉に間を混ぜて、苦しげに口元から息を漏らした。声を出すことも辛い様子だった。(今、俺は) お伽話の中にいる。


親友が、紋章を持っていて、それを国の権力者に狙われていて、だから俺はその紋章を預かり、街から逃げ出した。彼の一生のお願いを聞いた。言葉にすると単純だった。けれども喉に飲み込むことが辛かった。理解している。けれども実感はない。俺は今、“不老”なのだ。

外さないといけない。
そう思った。こくこくと、この紋章は自身の時間を止めている。逃げるべきだと、行きずりの熊のような男と共にただひたすら駆け抜けた。何も考える暇もなかった。だからこそ、ほんの少しの余裕ができた今、俺は一度に混乱した。
(外さなければいけない)
     どうやって?

彼はただ、俺の両手を握りしめた。赤黒い光りと共に流れた力は、俺の右手にへばりついた。恐らく、分かる。けれども違う。(守らなければいけない) 三百年だ。三百年。俺には分からない。想像もつかない。お願いだと握りしめられた手のひらをはじきとばせる訳がない。自分が国の反逆者となり、父の顔に泥を塗ったことを理解していた。父と同じく、皇帝に仕え、一生を終えるであろうと夢想していた道は閉ざされた。一生訪れることのない夢だ。けれども理不尽だったとは思わない。思えない。(何でだよ) おかしいだろ。

ただ彼が、テッドが無事で、生きていてくれることのみ祈った。
東の街、ロックランドを訪れたとき。自身の中で、何かの違和感を得た。飢え、地面にへばりつくように座り込む人々と、グレッグミンスターで、綺麗な服に身を包み、優雅に微笑む人々との差に、何かがおかしいと思った。ぴしりと入った小さな亀裂は、徐々に広がる。傲慢な近衛兵の態度に、あきれ果てたのだろうか。ピシピシと、耳元で音が聞こえる気がした。(だからだろうか)

だから自分は、こうしてテッドの無事のみを祈っているのだろうか。「違うな」 違う。声に出して、思う。「何がだ」 ふいに、野太い声が響いた。

「別に、ただ確認しただけさ、ビクトール」
「ふーん、さすが、テオ・マクドールの息子だな。余裕じゃねぇか。大物になれるぜ、お前」
「ありがとう」

軽く手のひらを振り、ふと口元に手を当てた。「大丈夫ですか? 坊ちゃん。旅が終わってすぐの出発でしたからね」「……グレミオこそ、息切れしてるんじゃない?」 心配性な従者へと、軽く声を出すと、「そんなことありません!」と、グレミオは顔を真っ赤にさせた。「ぐ、グレミオはまだまだ現役で、坊ちゃんをお守りしますよ!! ねぇ、クレオさん!」「はいはい」「適当にあしらわれてるよ」 クスリと笑ってしまった。

お前ら、呑気だねぇ、とある意味その台詞に一番合うような声で、ビクトールはぼんやりと呟いた。そんな彼へと、未だに疑い深い瞳で、グレミオはビクトールを睨む。対して、ビクトールはどこふく風のまま、ふいと指をさした。「おっ、そろそろだぜ」「本当ですかっ!」

現金にも、先程睨んだ相手に、パッと顔を輝かせるグレミオは、元来素直なたちなのだ。ビクトールもそれを分かってか、「おうとも。ほら見てみな、塀が見える」 明るい声色で、ぱたぱたと自身の砂ぼこりをはたきながら口元を和らげた。「しけた街だけどな」と言葉とは反対の表情で、ビクトールは嬉しげに歯を見せた。
俺は、ふと目を細めた。


(もし、違ったとしても)

もし、自分の心の内で、帝国に、僅かな違和感を覚えなくても。
(多分俺は、今と同じような気持ちだったに違いないな)
多少の時間はかかったかもしれない。今より、多くの混乱があったかもしれない。
けれどもおそらく最終的には、彼の無事を祈った。

     この紋章は、呪いの紋章だと、彼は言った

それは、ただの比喩なのか。
旅した三百年を、皮肉ったのか。どうにも、奇妙にひっかかるものがあった。右手がじわりと脈打つ。宿されたそのときから、紋章は静かに “呼吸”していた。脈を打っていた。
(守らなければいけない)

とにかく、今は地に足をつけるべきだ。右手を握りしめ、息を吐き出す。『ここにいるんだ』 …………誰が?


奇妙に、彼の言う呪いと、その何かが関係しているような気がした。


***


案内をするだけして、「それじゃあな! ここからは俺の仕事だ!」と軽やかに去っていくビクトールの背中を、俺とグレミオ、そしてクレオはぽかんと見つめた。俺たちを街から逃すかわりに、会って欲しい人がいる。その言ったのは彼ではないか。適当に見学でもしとけ、と言われたところで、どこで落ち合うかも決めていない。「……坊ちゃん、今から適当に逃げちゃいませんか?」 グレミオの提案に、「約束だからね」 駄目だよと俺は苦笑した。

あの男が信用できるかできないか。正直、はっきりと答えを出すことはできたい。敢えていうのなら、信用したいとは思っている。むやみに逃げることよりも、自身の勘を信じるべきだと感じた。今更彼が、俺たちを帝国軍に突き出す訳もないだろう。

「まあ、彼が言うように、見学の一つもしておこうじゃないか」

逃げるにせよ、どうするにせよ、地理を把握するにこしたことはない。「そうですね」と静かに頷くクレオとは反対に、グレミオは口元をしょんぼりさせながら、「はあ……」とどこか不満気な声を漏らしていた。「パーンさんがいれば、坊ちゃんをお守りするとき、心強かったでしょうに……」 一瞬呟いたグレミオの台詞は、クレオの無言の手刀により、黙り込んだ。「あ、す、すみません、坊ちゃん」「いや」

短く切った言葉に、グレミオは不安に思ったかもしれない。けれどもそれ以上の言葉が浮かばなかった。俺はごまかすように視線を辺りに見回した。「えっ……」 ふと気づいた影を追い、俺は城壁を駆け上った。「坊ちゃん!?」「どうしたんですか!」 背後の彼らの台詞を耳にしながら、一瞬振り向き、もう一度駆ける。

慌てて俺を追いかける彼らを背に、目の前をふと横切ろうとした“彼”に声をかけた。「きみ……」 特に大きな声を出した訳ではない。けれども、俺の胸よりも小さな少年は、ふいとこちらに顔を向けた。まるで何かを待っていたような、そんな風でもあった。この間会ったときよりも、幾分か背が伸びている気がする。彼は女の子のような可愛らしい顔を、一瞬苦しげに歪めた。そして右手を握りしめた。
その仕草が、まるで誰かを思い出したのだが、俺は首を傾げるだけだった。

「ぼ、坊ちゃん、いきなり走らないでください……!」 はあはあと息を切らしながらグレミオは俺の隣でため息をついた。悪い、と頭を下げると、目の前の少年はゆっくりと唇を開いた。「熊にご紹介された方ですね」

くま、とグレミオよりは落ち着いた顔つきで、クレオが小さくつぶやく。パッと思いついたらしい。グレミオは吹き出した。そして慌てて口元を押さえた。「お間違いはないようで。どうかこの街で、一番大きな宿屋へとお出でください」 そちらに宿をご用意します。彼はそう言って、一瞬だけ持ち上げたフードをかぶり直そうとした。「ちょっと」 待って、と言葉を掛ける前に、俺は彼にどう話すべきか逡巡した。
けれども出てきた言葉は、ごく平凡なものだった。

「久しぶりだね、くん」
「ええ」

随分、記憶力がいいんですね。マクドールさん、と彼は苦笑した。



2011.12.01