私は彼に言葉を伝え、転がるように逃げた。逃げ去った。

     テッドは死んだ

     彼が、紋章を引き継いだ

その事実を認めようとしたとき、ひどく体の内部が傷んだ。息が詰まった。こんなの初めてじゃない。人は死ぬ、消える。自分自身でさえも、“何度か”死んだのだから、事実は実証されていた。別れはいつも唐突だった。簡単に人は死ぬ。テッドでさえもそうだ。(でも、彼は死なないと) 心の中でそう感じていた。テッドは人一倍注意深い。そして、生きるためには手段を選ばない節もあった。そのくせ、どこかそそっかしかった。

ふと、笑い出しそうになった。城壁に体を寄せる。かこん、かこん、と馬車が通った。けれども音が遠い。遠すぎる。雑音がする。(いや、テッドが死んだとは、限らない) ふと、顔を上げた。
そうだ、何故気づかなかったのか。

真の紋章を渡した所で、死にはしない。もちろん、そう簡単にぶちぶち外すものでもないが、自身が明け渡そうと、そして紋章自身が望めば、次の人間へと渡すことができる。そうか、そうだ、そうだ、と何度も自身の胸をさすった。けれども、そんなはずがないと気づいてもいた。

     テッドは、絶対にあの紋章を手放すことはない


テッドは紋章を恨んでいる。好いてはいない。ただ苦しんでいる。けれども、絶対にアレから逃げはしないだろう。好きだ、嫌いだという問題ではない。おそらくあの紋章は、彼にとって、彼自身であるのだ。これはただの想像だけれど、あながち間違ってはいないと思う。私にとっての使命が深く胸に宿っていることと、同じくらいに、彼は自身を恨み抜いて、その分あの場所から抜け出すことはできない。

テッドが死に、あの紋章ばかりが、マクドールの子息へと向かったのか、それとも、テッドが紋章を“手放さざるを得ない”状況で、自身から渡したかは定かではない。何にせよ、彼が生きている見込みは少ないだろう。私は呼吸を落ち着けた。恐らく今は、平然とした顔をしているはずだ。長く生きてきた。それだけ多く、別れもあった。
     悲しくないと言えば、嘘になる

そうだ。嘘だ。蓋をめくれば、胸のなかに渦巻く気持ちがあった。見ないふりをしなければ、辛くて仕方がなかった。泣き叫ぶ場合ではない。今、私は天魁星が目の前にいるのだ。何よりも、それが重要なはずだった。もう一度、ゆっくりと息を吐き出した。(昔はこんなんじゃなかった)
もっと上手く、自分の気持ちを抑えることができた。まるで見かけと同じ、子どもになったみたいだった。もう一度、深く息を吐き出した。瞼を閉じる。心臓の音は遠く、元に戻っている。(大丈夫だ)

マクドールの少年を思い出した。鎌を携えた死神は、あいも変わらずどこか楽しげにぐるりと彼の周りを回っていた。(ただ一つ、おかしなことがある) そうだ、おかしい。

あの死神は、私ごと私の紋章を喰った。
その口元からぽろりとこぼれ落ちたのが私の魂だ。紋章は、今、私の手元にはない。おそらく、テッドが持っているはずだと考えていた。けれども。

     ソウルイーターは、私の紋章を持ってはいない




それじゃあ、私と同じく、私の紋章もどこへやらか、こぼれ落ちてしまったのか。いや、それならば、紋章はすぐさま私の元へと戻ってくるはずだ。けれどもそれがない。おそらく、どこかに“ひっかかって”いるのだ。
それがどこか。何にか。少なくとも、このマクドールの少年の口を割らないことには始まらないな、と、宿屋の時計下からの隠し通路から通り、アジトへやってきた少年、青年、そして女性を見つめた。少年は・マクドール。青年はグレミオ。女性はクレオ。その二人は、マクドールの従者らしい。

ふうん、と私は彼らを見回した。お膝元である貴族のご子息が味方である帝国軍に追われるなんて、一体どんなあくどいことをやらかしたのだろう。頬に十字の傷がつき、斧を持つ、その割にはどこか優しげな顔つきの男はただひたすら不本意そうに頬をふくらませていた。後ろに控える女性はなすがままと言った風で、まさかここが解放軍の本拠地であったとは知る由もなかったご子息はと言えば、僅かに眉を顰め、「誰が仲間になるって言ったんだ?」と少年を解放軍に引きずり込もうとするビクトールに批判の声を上げた。

「ま、ままま。どうせ行くとこもないんだ。まさかお前、グレッグミンスターに帰るつもりかい? 冗談じゃねぇ。命がいくつあってもたりないぜ」
「確かにそうだけど」
「理解がはやくて助かるね」

へへ、とビクトールは肌に比べて白さが目立つ歯を見せながら笑った。その顔に一瞬毒気を抜かれたらしいフリックは、暫くした後に、「ちょ、ちょっと待て」「なんでい」「テオ・マクドールの息子だと? いくら帝国軍に追われていたからと言って、そんな……スパイともかぎらない。馬鹿を言うな!」

ここ暫く見ることのなかった彼らのつっかかりは、何だか奇妙に和んだ。いや、そんな場合ではないとわかっているのだけれど。「とにかく、暫くの羽休めの場とされては」 収集がつかないと感じたことと、ここで彼に逃げられてはたまらないと私は思わずの声を出した。オデッサは「そうね」と苦笑したように頷き、今初めて私に気づいたというように、マクドールは瞳を輝かせた。「くん、やっぱり君もここの人間だったんだね」「ええ」

というか、私の名前はではないのだが、中々に言い出しづらいな、と誤魔化したように笑うと、「こんな小さな子まで……」とグレミオが悲しげに眉尻を寄せていた。私は自分からやって来たのだ。解放軍にあらぬ噂を立たせる訳にはいかない、と口を開けようとしたのだが、その前にフリックが驚いたように声を上げた。「なんだ、知り合いなのか?」 私はぎくりと肩をすくめた。

貴族の子息と知り合いなどと、スパイの認定を受けているようなものだ。恐る恐るとフリックを見上げたが、彼は純粋に疑問に感じただけのようだった。多少の拍子抜けをしながら、結局私も、私を連れてきたビクトールも、彼の中では信頼を得ているのだと、僅かにくすぐったさを感じながら、念のために言葉を選び、口を開いた。

「ああ……、暫く前にグレッグミンスターで、お会いして。……ジャルムさんの紙を受け取ったとき、いくらか彼の力を借りたんですよ」

フリックは眉間に皺をつくった。直接彼の名を聞いた訳ではない。会ったことも一度きりだ。グレッグミンスターで叫び、憲兵へと連れて行かれる瞬間、私は彼から一枚の紙を受け取った。そしてそれを解放軍へと持ち込み、今に至る。「そうか」とフリックは彼の中で、何かを納得させるように頷いた。「礼を言う」 そして次にマクドールを見つめたとき、先程までの刺々しさは、多少和らいでいるように感じた。

「そう、それなら私からもお礼を言わないとね。、ありがとう」
「いや、別に、特に何をした訳では……」

やはり歳相応なところもあるのだろう。マクドールは照れたようにオデッサから視線を移動させた。その背後で、「坊ちゃん! グレミオはそんなこと、一言も聞いていませんよ」「そりゃ、言ってないもの」「ぼっちゃぁん」 ケラケラ笑うマクドールの、その後ろで僅かに口元を緩めるクレオを見つめて、随分仲がいいのだな、と思った。

「ま、とりあえず歓迎するぜ」 差し出されたフリックの右手を、マクドールは暫く考えたように見つめた。そして左手を出した。フリックは多少不審な顔をしたものの、反対の手を出し、握手をする。「ええ、さん、よろしくお願いします」「…………」 暫く黙りこくっていたサンチェスとハンフリーに、「ええ、よろしく」とやはり左の手で握手をする。その後ろでは、グレミオがやきもきしたような顔をしていた。その様子を、ビクトールは面白げに見つめている。

そして最後に、マクドールは僅かに腰を落としながら、私の前へと左手を出した。「くんも、よろしく」「え、ええ……」 だから、とは言わないでくれるかな。あのとき、丁度いい名前が思いつかなかったものだから、勝手に他人の名前を使ってしまったので、多少バツが悪い。罰の紋章の主に、バツが悪いとはこれいかに。と考えてみたのだが、案外面白くない。

?」 案の定、フリックは不思議気な声を出した。「あ、いえ、フリックさん、それは」 ただの偽名で、と声を出そうとしたとき、彼はまるで喉につっかえた小骨が、やっとこさとれたときのように、晴れ晴れとした表情をして、両手をぽこんっと叩いた。「なるほど、か!」 なにが。

「妙に女っぽい名前だと思っていたんだ。なるほどなるほど。は苗字だったのか。ね、ふーん。ま、ちょっと変わってるが、中々いいな」

本人はまったくもって悪気がないのだ。「フリック……」と相変わらず、呆れたような声でオデッサは額に手をついた。けれどもそれ以上は何も言わない。この間私が止めたものだから、私に気を使っているのだろう。「ん? それじゃあ、俺もと言った方がいいか? それとも今更変える方が変か」 何だかもう、どうでもよくなってきた。「……どちらでも」 どこかなげやりな声になってしまった。

勘違いしてもらえるのなら、その方がいい。記憶の中の友人に、勝手に名を借りることを詫びながら、まあ多分、彼はそこまで怒りはしないだろう、と適当に考えることにした。もしいつかめぐり会う日が来るのならば、両手いっぱいに饅頭を抱えればいい。

気のせいか、目の端で見えるマクドールは、笑いをこらえているように見えた。ただのひねくれた自分の気のせいかもしれない。「くん」 わざとらしく、強調している。「なんですか、マクドールさん」「でいいよ」「お気になさらず、マクドールさん」 慣れ合うつもりはない。いや、結局見捨てるであろう彼と、のうのうと交友を深めることができるほど、度胸はない。

「わかったよ、
マクドールは、わざと私の言葉を曲げるようにして理解した。呼び捨てになっている。不快な訳ではない。ただどう反応していいものか決めかねたので、無視をすることにした。しようとした。聞こえた転がり落ちるような足音に、すぐさま部屋の人間はそちらへと顔を向けた。地下に足音はよく響く。ビクトールがこちらを確認するように頷き、姿を消した。そして一人の男を抱えて戻ってくる。見ない顔だ。サンチェス達も首を振る。覚えがないらしい。

「……こ、ここは……」
「解放軍のアジトよ」

オデッサの言葉に、男は泥まみれになりながら顔を上げた。ビクトールに凭れかかったままだが、怪我がある訳ではないらしい。一晩中走り抜けたような格好だ。私は慌てて部屋の奥から薬を取り出した。怪我がある訳ではないが、さっさと眠らせてやった方がいいに違いない。男はとうとうと語っている。ふと、マクドール達が驚きの声を上げたのが聞こえたのだが、私は自身の手元に集中することにした。


2011.12.06