会いたい



無意識に、言葉をつぶやいていた。乾いた唇を手の甲で拭って、壁に背を置いた。「クソ……」 ひどく声が出しづらい。同じ体勢ばかりを続けているせいか、体が馬鹿のように硬い。冷えきった牢獄は、じわじわと体力を奪い去った。「……いってぇ……」 鉄の輪が、すれた腕に食い込んだ。水の紋章はある。けれども、この場所では使えない。あのものぐさな魔術師は、律儀にも結界を張り巡らせているらしい。

舌を出して傷を舐めた。鉄の味がした。(テッド) あいつの魂は、どんな味がしたのか、よく覚えていない。


テッド、と女は笑った。
いつの間にか、旅をするようになった。お互い背中を向けて、しらんふりをしようとしたのに、気がつくとそっぽを向いて互いの手を握っていた。二人いるのだから、ウィンディから逃げ切れやすくなるのかもしれないと答えたそれは言い訳だ。危険も二人分増していた。
ときどき、俺はちょんと彼女の髪をひっぱった。彼女がパチリとまたたいてこちらを見たから、キスをした。はいつもはすました顔をしょげたように瞳を落として、お互いの指先を手持ち無沙汰にいじった。それから両手をひっぱって、またキスをした。(声が聞こえない)

瞳をつむって、彼女の声を聞こうとした。けれども駄目だ。モノクロの画面の中で、くるりと彼女は笑った。けたけたと楽しげな声がきこえるのに、きこえない。の声が聞こえない。(忘れている) もう随分時間が経った。忘れてはいけないと、何度も記憶を探るのに、いつの間にか、ポロポロと断片がこぼれていく。(思い出せない)

ぽつり、ぽつり、とどこか遠くで水滴が溢れる音がした。
ずるずると壁を伝って、床に転げた。(誰もいない) 硬い床の上に頬をのせて、瞼を閉じた。右手がひどく暖かい。渡したと思った。もう俺には何もない。そう思っていたのに。(まだ、覚えている) 声は聞こえない。けれどもまだ覚えている。彼女の仕草を覚えている。口癖を覚えている。
(守らないと)

紋章を、彼女を守らないと。
俺はこの場所から逃げ出さなければいけない。けれども硬く閉ざされた鉄格子の向こう側には、腕一本伸ばすところがせいぜいだ。重い両腕を上げた。じゃらじゃらと鎖が揺れた。(こいつも、なんとかしなきゃな……)
とにかく今は、体力を温存すべきだった。力を蓄えて、この牢を抜け出す。あの執念深い女魔法使いの好きにさせる訳にはいかない。ブチブチと断片的に途切れる思考に、奥歯を噛み締めた。体力がなくなれば、それだけ気力もなくなる。(寝よう) 寒さを誤魔化すように、体を丸めた。大丈夫だ。俺にはまだ目的がある。寝て、食って、力を蓄えなければいけない。大丈夫だ。


いつか必ず、チャンスはやってくる。






夢を見た。




     さん、さん!」
「……はいっ!」

もたれかかっていた壁から、慌てて体を引き離した。「疲れているのなら、部屋に戻っても構わないよ」 呆れと苦笑を半分に混ぜた言葉に、慌てて頭を下げた。「大丈夫です。今少し、寝かせてもらいましたから」 布を洗おうと部屋の外に出たあと、うっかり廊下で縮こまって、眠ってしまったらしい。情けない話だ。

解毒を行える薬師を探し、が旅立ってしばらく。ガランの城塞から動かせる人間はトラン城へと移し、相変わらず看病の日々が続いていた。快方に向かっている、と言いたいところだが、ガランよりもこちらの方が設備は整っているものの、万全とは言いがたい。墓の十字が増えるスピードがいくらか遅らす程度のことしかできない現状だ。ぜひとも、早々とした軍主の帰還を願いたいところであるが、そううまくいくものでもないのだろう。

「無理はしない方がいい。休めるときに休んでおかないと」
「いえ、本当に大丈夫です」

自分の限界なら、ある程度把握はできている     と、言いたいところだが、座り込んで眠ってしまったばかりの人間の口からは、少々言いづらい台詞だ。(まだ体が出来上がってないんだ)背が伸びきるまで、頼り甲斐のある台詞を吐くのは、お預けになりそうだ。

「それならいいけど。じゃあその布を洗って、ついでに新しい水を持ってきてほしい」
「わかりました」

渡されたバケツの中に、握りしめていたままの布を入れた。そうして視線をあげると、不思議気な顔をした青年と目が合った。「……あの?」「いや、ちょっとね。顔が赤い」 俺は医者じゃないから、確証のあることは言えないんだが、とつぶやいて顎をさする彼の視線に合わせて、私はぺちぺちと自分の頬を叩いた。

「熱がある、という訳じゃなさそうだ。……もしかして、何かいい夢でも見てたのかな?」
「うえっ」
「正解か」

じゃあ心配することはないね、と疲れた瞳の下に隈をのせて、けたけたと彼は楽しげに笑った。「どんな夢を見てたの?」 ちょっと気になるな、と腰をかがめる彼に、「いえその」と私は口元をもごつかせた。

テッドは、キスをするとき、髪を引っ張るのが癖だった。
「じ、自己嫌悪に陥りそうな内容です……」

熱くなった頬を手の甲でかくして、視線を逸らした。まるで自分は小娘か何かのようだ、と心の底で情けなく呟いた。



テッドは、生きているのだろうか。
それとも、すでに。




2013.03.05