ひたり、ひたり
水が溢れる音がする。


これはただの気のせいだ。薄暗い牢獄の中で、ぽとりと遠く、ランプの灯りがこぼれている。毎日変わりもしない光景を見つめ、たまの変化は気まぐれな魔女一匹。

ふとしたときに、記憶が遡る。冷えた石畳に身体をこすりつけ、その感覚も忘れてしまうようなとき。時間も、場所も関係なくまるで夢でも見ているようだ。『テッド』 声が聞こえる。薄目を開けた。『テッド』 また聞こえた。でも気のせいだ。ぼんやりと長い影が出来上がる。
ひとつ、ふたつ。ゆらゆらと揺らめいて、ふと、影から抜け出した。ひそひそ。

見覚えのある影だ。記憶の中で、薄ぼんやりとした姿が、形が、何やら話しかけた。そいつらは牢の中で楽しげに話していてたまにこちらを見ては笑いかける。「テッド、元気にしているの?」 はっきりと声が聞こえた。

力なく寝そべる身体を、ハッと起こした。「!」 その瞬間、全てが消え失せた。ただ煌々と灯りが揺らめく。それだけだ。いるわけない。知っている。なのにひどく頭の中がぐらついた。瞳を閉じると、またひそひそと声がきこえる。このところ、うまく思考が働かない。

     あんたには、くっつけてある

ウィンディの言葉を思い出した。じわじわと、身体と思考が侵食されていく。
「ちくしょう……」
恨みがましげに呟いた声にも覇気がない。作り変えられている、と感じるのは、これでも元は真の紋章持ち主だからなのか、それとものこの紋章のせいなのかはわからない。普通の人間ならば、気付きもせずに喰われるだろう。

さわさわ、と影が耳元で囁いていた。これは俺が殺したものたちだ。あのときはああだった、苦しかった。「そうだな」 そのひとつひとつに頷く。「そうだったよな」 こいつらは居もしない。そうわかっているのに、答えられずにはいられなかった。
両手の指がすっかりと動きづらくなっていた。両手両足は、鎖で繋がれてしまっている。だから何もできない。

悪かったな、ごめんな。そんな言葉で終わらせたくもない。唇を噛んだ。がつんと音を立てて、石畳に額をうつ。血が滲んだ。それからゆっくりと顔を上げると、影は若い男になった。紫と緑のバンダナの男が、恨みがましげにこちらを見ている。「いや、お前は死んでないだろ……」

生きてるって、と呟いて、男と向き合う。どろどろとそれは崩れ落ちていく。「やばい」 自分が、危ないと、認識しているうちならいい。だたそれもそろそろ怪しい。「やばいって、俺……」
は、生きている。生きている。そう何度も頭の中で繰り返さないと、また黒い影が現れる。

(そろそろ、決行のタイミング、かもな……)

これ以上、伸ばすべきではない。準備は整っている。
周囲を見回した。それから錆びついた鉄格子を、がつりと素足で蹴り上げた。重苦しい音が響く。短い鎖が床に擦れ、赤く腫れ上がった足を痛めつける。ただそれだけだ。びくともしない。知っている。だがこの音で誰も来ない。大丈夫だ。
ひとつ息を吐き出し、腹のうちに隠しておいた“鍵”を撫でた。




***




足がもつれるのは、気の所為ではないだろう。服を破り、両足の裏に巻きつける。これで少しは走りやすくなるはずだ。
繋がれていた鎖と牢の鍵は、うまいこと持っていた鍵でごまかされてくれた。

これでも死なれては困ると言いながらも、そう何度も牢に来るのは面倒だったんだろう。ウィンディは、たまにやって来ては腐りかけの飯をまとめて投げ入れ去っていく。
その中に出されたスープを極限まで凍らせて鍵穴の形に作り変えた。鍵穴を合わせるには時間がかかったが、なんとかなった。なにもないところから水を作り出すには、落ちた体力を考えれば辛いものがあるが、もとがあるならなんとかなる。
(こっちのことを、舐めすぎなんだよ……)

これでも長い年月を生き抜いて来たのだ。牢に入れられた経験くらい、一度や二度では済まない。


牢から逃げ出そうとするほど、耳の奥に何かが囁いている音がきこえる。うるせえ、と誰にも聞こえないような音でつぶやく。そうすれば、ほんの僅かだが、それらは黙り込んだ。その間に思考をまとめあげる。まずは自分がどこにいるのか。それを把握することが必要だ。ここからは一発勝負だ。失敗は許されない。

グレックミンスターのどこかではあるはずだ。俺が赤月軍に捕獲されてから牢で目覚めるまで、そう長く時間は経っていないはず。窓がなく、扉が重い鉄製ばかりであることから、地下であることは間違いないだろう。
崩れ落ちてしまったときのために、下に行けば行くほど、扉はしっかりとしたものになりやすい。少なくとも、一階や二階、それ以上の深さにいる。

そうして、ウィンディは赤月帝国の后であることを考えると、ここはグレッグミンスター城なのだろう。……そうなのだろうか? そんな城の中に、人間一人を隠し切るほどに、あいつは今高い地位と権力を得ているのだろうか?
     本当に、それであっているの?

「多分、そうだろ。なあ、
返答をする自分にぞっとする。かなり、これはきている。誰がいるかもわからない中で、聞こえた声に勝手に口が動いていたのだ。脱出したあとに、ウィンディがくっつけたものを、悠長に取る時間や、つてがあるのかは不安だが、とにかく逃げ出さなければいけない。
(地上を目指すか)
今度こそ、声に出さずに腹の中でつぶやく。

冷たい石畳が真っ直ぐに続いている。ひたひたと、ひどく不気味だった。人けもないくせに、松明だけがごうごうと等間隔に燃えている。足元だけが、ひどく明るかった。

それが暗闇に慣れた自身には、少々辛い。ただ奥は薄暗く、獣の口のように、ぽっかりと穴が空いていた。慎重に少しずつ進んでいく。気づけば耳の底から響く声が、だんだんと小さくなっていて、ふと息をついた。

突き当たりにはぽつんと一つの花瓶があった。

肩でわずかに息を繰り返して、一歩一歩と近づく。なんの変哲もない花瓶だ。ほっそりと白い、小さな花が一本だけ。なんとなく、あいつを思い出した。白い女だった、そう記憶している。それよりずっと幼い頃に一度だけ会った少女も。

名前も知らない花に指を伸ばした。そのとき、ひどく遠くから足音が響いた。かつん、かつん、と軽い足音は女物だ。何故、今まで気づかなかったのか。すぐそこに、薄暗い螺旋の階段が上へ上へとつながっている。

すぐさま踵を返し、しっぽを巻いて逃げるべきか。早鐘のような心臓を押さえ込み、今更の決断に首を振る。死角から糸を縫うように待ち伏せ、女の背後からぬっと手のひらを伸ばした。「ヒイッ!」 短い悲鳴が俺の手のひらに押し込まれる。ただのメイドだ。「静かにしてくれ、命は取らない。入り口まで案内をしてくれればそれでいい」 実際には武器も何も持ってはいないが、彼女からは見えない位置で、拳の先を押し付ける。

ただの脅しだ。ただ、ナイフか何かを隠し持っていると彼女は勘違いをしてくれたらしい。健気にコクコクと何度も頷いて、指先が震えている。幸先がいい。「……なんてねぇ」 ぞろりと、蛇の舌のような声が響いた。「……いってぇ!」 力の限りに手のひらを噛まれた。「おお、まずいまずい。古臭い血の味だ」

目が、おかしくなってしまったのだろうか。小さげに震えるメイドの姿が、気づけばたっぷりとした髪を結い上げ、毒々しい真っ赤な唇をにやつかせる。大仰なマントを翻し、女はこちらを見下ろしていた。突き飛ばされた床の感覚を尻で味わいながらも、ひどく思考が空回った。何故お前が、と。
     いい夢を、見れたかい?」

女は、ウィンディは。長い爪がついたその指先で、俺の血がつく、その口元をぐいと拭った。


***


この場所に訪れる人間は一人。ウィンディがいる事自体はなんの疑問もない。ただ状況がおかしい。どこからともなく響いてくる足音。すぐさま表れたメイド。と、思えば变化する姿。何らかの紋章を使用して、姿を変えたか、こちらに幻術を見せたかのどちらかだが、なぜそんなバカバカしい趣向をわざわざしなければならないのか。
よっぽどの暇をあかせた阿呆か、と舌打ちをした。
そうだ、この女は、そういったやつだった。

すぐさま反撃をすべきか、それともお手上げとばかりに牢に閉じ込められるか。
頭の中でそろばんを弾く。牢の中に入れられれば、さらに厳重に閉じ込められることにはなるが、間違いではない。
ここまで来ることはできたのだ。ある程度の地形は把握した。
次に来たる時まで、爪のない小鳥のふりをすることもできる。となると、円滑な計画が崩れ去ってしまった今、使える手札を下手にさらけ出すことは得策とは言えない。いやしかし。「あっはっは!」 女は唐突に笑い狂った。

ああおかしい、とお上品に口元に手のひらをあて、身体をくの字にして笑い転げる。

「あんたは今、忙しく考えていることだろうね。なんでまた、やら。次にどうすれば、なんてね。なんてことはない。ここは私が連れてきてやったのさ。ああ、いや言葉に意味なんてない。文字通りだ。私が鍵を開けてやって、回廊を抜けてね。あんたは下ばっかりを見ていたね。そんなに足元が明るかったのかい? それからたまになにやら呟いていた。という名はきいたことがある。私からあんたたちがうろちょろ逃げ回っていたときにいた女だろう? あるときぷっつり消えてしまったから、あんたが食べてしまったんだろうと思ったけど、違ったのかい?」

「……一体なんのことだ」
そう言いながらも、どこか理解していた。
そろそろかい、と楽しげな声を出す女に、牢の中へ鍵を投げ入れられた。俺はそれをぷらぷらといじりながら、その“鍵”がある理由を自分の中で付け足した。そうだ。牢の中には結界が張り巡らされていた。水の紋章など使えるわけがない。なのに、それそらもわからなくなっていた。
さっさと歩けないもんかねえ、と文句を言う女よりも、随分後ろを歩きながら視線を揺らつかせる。白い花を見つけた。そして立ち止まった。

ウィンディはくるくると指先を遊ばせた。そうしてこちらをちらりと見下ろす。「そろそろ育ちきったと思ったから、出してやった、それだけさ」 ぞくりと、身体の奥に芽吹いた種が、ぐるりと撫で付けた。

「ブラックルーン、なんてね。便利な紋章もあるもんだろ? まあ芽吹くまでが人によっちゃ多少の時間がかかることが難点だけど」

さあこっちにおいでよ、と手のひらを向けるウィンディが、ひどく優しげに見える。いやそんなわけがない。そうであるのに、あたりの景色までも変化する。記憶が塗り替えられていく。唇を噛み締めた。
     さっさと死ねばよかった

でも手遅れだ。
ゆっくりと立ち上がる。ウィンディは、こちらになんの警戒もしていない。ただ視界にある、白い花だけが、心を保った。花瓶だ。これだけは本当だった。こんな薄暗い館には似つかわしくはない、丸い、優しげな色をした花瓶。手を伸ばした。奇妙なものを見るように、こちらに目を向けるウィンディを横目に、勢いよく叩き割る。頬に跳ね跳んだ水を手の甲で拭い、バラけた破片を握りしめる。

「馬鹿なことを……!」

自身の首元に突き立てる前に身体が拘束された。いや、実際には指先一本も動かぬようにと女がこちらの魂を縛りこんだだけだ。ただそれだけ。
(……水の紋章がある)

俺の左手には、水の紋章がくっついている。その反対には、あいつのそれが。
あんたには、ちょっとした切り札になってもらわなきゃいけないってのに、と困った子どもを見るかのようなため息をつく女は気づかない。拭いもれた水が、ほたりと床に円をつくる。左手の紋章が、花瓶の水で濡れ、滴った。隠さなければいけない。
だから、死ねない

それはもう決めてしまっていたことだ。
「じゃねえと、あいつらに顔向けできねえ……!」
「あんた、一体なにを     
「ただの最後の抵抗だよ」

ウィンディは陶器の破片などではなく、この水こそを拭い去るべきだった。水を媒介にして、溜め込んでいた魔力を何倍にも膨らませる。風船がはじけ飛ぶ寸前のような、そんな感覚が肌をびりびりとうちつけた。「やめな!」 このブラックルーンと呼ばれる紋章は、魂にしがみついている。それがどうした。こちらはそんなものは喰い飽きた。自身のものくらい、好き勝手させてもらう。根比べだ。

肌の底までこびりついた呪いを力の限り引っ剥がした。ただの一瞬、自由になった身体から、この場から、魔力が高々と突き抜ける。大気が震えた。その一本の柱は、次第に小さくなり一筋の光になる。
ああ、と息をついた。瞬間、あぎとがつるりとこちらを飲み込んだ。
虚ろな瞳の向こう側で、ちりちりと小さな白い花が揺れている。

「……驚かせるんじゃないよ。逃げられもしないくせにさ」

あとはカクリと人形のように返事をするだけだ。けれどこの魔女は気づいていない。僅かな心が、右の手に残っていた。ぐるぐるに右手の紋章に魔力を巻き付けて、これだけはと隠し通す。呪いが引き離された一瞬、それだけに全てを注ぎ込んだ。身体はもう動かない。俺は負けた。認める。けれど、これだけは。

「さ、面倒な仕事は終わったんだ。いちいちここにやってくるのも骨が折れる。さっさとこっちについて来な」

こくり、こくり。頷いた。じゃらじゃらと手足の鎖の音が反響する。

右手ばかりが熱い。ウィンディは、一体俺に何をさせようと言うのか。、すまない。悪い。ごめん。何を伝えても足りない。

俺はここにいる

死んでしまった女に、心の底で呟いた。
     まだ、お前の紋章は、ここにいるから。



***


ふと、顔を上げた。
ひどく膨大な魔力が、空を駆け抜けた。ひどく懐かしい気配がする。
星空の中、幾度も瞳を瞬かせた。

「…………テッド……?」

呟いた声が、どこぞに遠く、響いていく。




2018.10.24