なぜこんなことになってしまったのか。自身の見通しの甘さに歯噛みした。もみくちゃになりながら悲鳴があがる。テントの中で座り込んで、額を覆った。瞳を何度も腕でこする。ぼやけた視界の向こう側は、よく見えない。真っ赤な自身の手のひらが情けなく、ただ自然と顔が歪んだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
***
「これは……見事なものですね」
グレックミンスターを守る砦、シェサラザードは水の上に佇んでいる。そちらを攻めるには船が必要だが、まさか軍備すべてを詰め込んだ小舟を何隻も用意することはできない。時間をかければ可能かもしれないが、ちまちまと動いている間に、向こうの戦力が底上げされていく。今からそちらに向かうと宣伝しているようなものだ。
ならば、クワバの城塞しかないだろう、と考えるのは誰しも同じだ。だからこそマッシュは細い瞳をさらに細めて、「500です」 五本の指を出して見せる。「明日までに、500の船を用意してみせましょう」 まさか、そんな。できるわけがない。でさえも、目を見開いた。
「今なら帝国軍も、そしてこの場にいるスパイも私達解放軍がクワバの城塞を攻めるものと思い込んでいる。それが好機です。潜り込んだネズミが情報を渡す前に、シェサラザードに攻め入ります。これを利用しない手はない」
そう言い切った軍師の言葉を思い出して、見事にも湖畔に浮かんだ船に感嘆の息を漏らした。見れば岸辺には竜洞騎士団の一人、ミリアがへたりと座り込んで、「まったく、この私のスラッシュを、こんなことに使うとは……」と頭を抱えている。その隣の赤い竜は、一晩中、氷のブレスを吐き続けていたからか、心持ちげっぞりとした顔つきで、自身の主の頭に、ぽんと顎を乗せていた。壮観にも並ぶ船は、全てこの竜のブレスで出来上がった氷の船だ。
「シャーーー!!!! やったったぜーーーー!!!」と、叫ぶ男は、船大工のゲンだ。額のねじり鉢巻はいつも以上に気合が入っているが、目の下には真っ黒な隈が住み着いている。夜通しノミだかトンカチだかを振り回していたのだろう。功労賞ものだろう。
ウォーレンと共に無事救出されたビクトールは、楽しげに船を叩いて、「こりゃかてえや! しっかりしてるし、いっぱしの船だな!」とゲラゲラ笑っている。その背中を、当たり前だろと力の限りゲンが叩いているがびくともしない。
一刻の時間すらも惜しかった。こうしているうちにも、スパイから帝国に情報が漏れてしまう可能性がある。すでにメンバーは厳選されている。は先頭だ。その後ろにはテッドがくっついて、いつの間にやら仕入れたのか弓矢をかついでいる。彼はドゥーハの砦でも、活躍したとのことだ。
私はマッシュについた。本来、それほど接近戦に恵まれた体格ではない。できる限り紋章の気配を探り、すぐさま軍師に報告する。そして負傷兵の手当を行うべく、リュウカンと共に簡易の野営を作成し、砦に潜入した達の報告を待った。外には大量の油がある。達が中の水門を止め、脱出したところで油を流す。水の上にあるものが、まさか燃やされると思ってもみないだろう。対策すらもとってはいないはずだ。これもマッシュの案だった。
一分、一秒が長い。薄い天幕が、風に揺らされている。マッシュもただ静かに彼らを待った。そのときだ。そっと背をかがめながら、見覚えのある白髪の男がテントに足を踏み入れた。「サンチェスさん?」
血の気のない顔をしている。相変わらず、場違いに仕立てのいい服を着て、こちらに返事をすることなく、彼はゆっくりとマッシュに近づいた。(お恥ずかしい話、ワインを一杯いただかなければ、夜も眠れないんです) そう彼は苦笑していた。だからいちはやく、情報を知りたいのだと。だからだろうか、わざわざ軍師の元まで足を伸ばして、不安を取り除きたいのか。
その割にはなにかがおかしい。声を出すことなく、サンチェスはマッシュに近づく。どんどんと足早になる。片手を背に隠していた。マッシュは顔をしかめた。逃げようにも、彼が近づくスピードの方が早い。「
サンチェス!!!」 叫んだ。
マッシュとの間に、無理やり体をねじり込んだ。突き出した短剣を力の限り両手で抑え込む。後方役とは言え、成人の男性の全力だ。額に汗が流れた。彼は紋章を宿していない。紋章の力を借りることもできない。息を吐き出して、勢いよく短剣を弾き飛ばす。カラカラと地面を滑る刃を踏みつけた。互いに荒い息のまま見つめ合った。組み伏せる間もなく、彼は手足をもがいた。渡すわけがない。取れるわけもない。そうたかをくくっていた。彼は私が踏みつけていた短剣の刃を両手で握りしめ、そのまますっぽ抜けた。
「……なにを……!?」
覚悟の咆哮だろう。サンチェスは、品のいい紳士の姿をかなぐり捨てて、血だらけの両手を私の両目にこすりつける。真っ赤に染まった視界を拭う暇もなく、鈍い悲鳴が聞こえた。マッシュだ。リュウカンが彼の名を叫ぶ声がする。
なぜこんなことになってしまったのか。自身の見通しの甘さに歯噛みした。血で染まった視界が、次第に薄れ、状況を理解した。サンチェスが、マッシュを突き刺した。ああそうだ、あのとき彼のことを妙に思ったじゃないか。スパイは彼だった。
いつの間にやら騒ぎをききつけたフリック達が、彼を拘束している。サンチェスは小さくうなだれ、何事か呟いていた。瞳から溢れる涙は、どういった意味合いのものかわからない。ただマッシュの腹から溢れるものが、彼の命と同等であることに気づいた。リュウカンがすぐさま処置を行っている。補佐をしようにも、あまりにも傷口が深かった。そしてその事実に愕然としている自身に困惑した。
マッシュは恐らく死ぬのだろう。そのことに震え上がった私は、案外彼を気に入っていたのだな、と一つ、雫がこぼれた。そうして力なく無力に座り込んだ。誰かに、瞼を拭われた。
はっとして顔をあげると、テッドだった。彼が苦い顔をしながら、血だらけの右手を見つめている。一瞬どきりとしたが、あれは私の顔にへばりついていたサンチェスの血だ。と共に、砦から戻ってきたのだろう。「……お前の血か?」 そうして一言呟いたから、首を振った。「そうか」
ため息をついて、マッシュを見た。「ちょいと失礼」 今更何の手当を尽くしても無駄だろう。青い顔をしたマッシュを、幾人もが見下ろしている。もいた。マッシュはうわ言のように、進軍を告げている。その間にテッドは入りこんで、左手をかざす。みるみるうちに、マッシュの傷口が癒えていく。ただあくまでも表面だけだ。こぼれた命は戻らない。ただほんの僅か、赤みがさした軍師の頬に、多くが感嘆の息をもらした。「、こっちに来い」 テッドが片手で私を呼んだ。
「水の紋章で、表だけ治してやった。でもそこのひげのじいちゃんでもわかるだろ。あくまでも一時しのぎだ。俺じゃこれが限界だ。でも、お前なら」
彼の言葉を、すぐさまに理解した。そうして、マッシュの傷跡に片手を乗せ、あらん限りに魔力を注ぎ込む。「これは……」 マッシュが、薄く瞳を瞬かせた。「そうだ、お前なら、その馬鹿みたいな魔力を循環させて、少しでも時間を引き伸ばすことができるはずだ」 それでも、終わりはある。
ただ、彼の目的を果たすことができる。
両の瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。ええ、と頷く。
「マッシュ、あなたの命、一分、一秒でも長く、生きながらせてみせる」
そう告げると、彼は細い瞳をさらに細めた。「それは……とてもありがたい」 とても優秀な副官だ、と冗談めいた彼の声を初めてきいて、何を言っているんだと口元を歪ませた。笑顔を作ったつもりなのに、おそらくとても、下手くそな顔だった。
***
何もすることもできなかった。
少しばかりの力を使っても、結局何も変わっていない。あの男は死ぬ。そうするとは悲しむのだろう。与えられた部屋で月ばかりを眺めた。テッドとこちらを告げる過去の甘い声を思い出してため息が出た。今の自身の右手には何もくっついてはいない。それがとても軽くて、不安でたまらない。
こんこん、と小さく扉をノックする音が聞こえる。自分の部屋に訪ねてくるなど、決まった人間しかない。「よお、どうしたんだ、親友」 明日は決戦だ。彼からすれば長い道のりだっただろう。それを初めから見届けることができなかったことが歯がゆくて仕方ない。
「ちょっと、月見でもしようとね。テッドもそうだろ」
「まあな」
とはいってもただの方便だ。あちらもそうだろう。立派とは言えないベッドに腰掛け、一つしかない椅子を進める。そこに座るお坊ちゃんはグレックミンスターのときと見てくれはひとつも変わらないのに、全てが変わっていた。ふと、奇妙に知り合いと姿がかぶった。彼女が偽名として使っていた男の名だ。
「あの軍師はどうだ?」
「くんがつきっきりで魔力を注ぎ込んでいるよ。マッシュも自身の気力で保っているところもあるだろう」
あれは確実に急所を刺していた。マッシュはサンチェスの断罪を望まなかった。重鎮の一人である彼が元は帝国にいた人間となると知られれば、軍の士気に関わると、あくまでも普段どおりにするように通達した。現在もサンチェスは自室のこもり、自身で切り裂いた両の手のひらはすでに治療を受けている。フリックが彼の言動に目を光らせているが、恐らくもう何もすることはないだろう。長く周りと己を騙して生きてきたものだから、次第に自身がどちらに立っているのかわからなくなった。そう告げていた、とは説明した。
あくまでも俺は蚊帳の外の人間だ。そうか、とテッドはつぶやき、聞くたびに違和感があるその言葉に、とうとう声を出してしまった。「その、。って名前なんだけどな……」 とは言っても、濁らせてしまった。しかしには伝わったらしい。
「偽名だろ? 知ってるよ。多分最初は適当に名乗ったんだろう。そんな出会いだったしね。否定をするにも面倒だったんだろうけど、こう呼ぶたびに、時折彼女が絶妙な表情をするのが面白いからさ。俺もそのまま呼んでるだけだよ」
「あ、そう……」
お前って、そういうとこあるよね、とため息がでた。
「くん、いや、からきいたよ」
何を、と確認する必要はないだろう。彼女の砕けてしまった紋章と絡める話とすれば一つだ。「ただその割には、随分淡白な反応に見えたけど」「まあ、そうだな。昔のと、今のは別人だ。そうあいつに言ったからな」
月が丸い。あんまりにも丸いから、怖くて怖くて仕方なかった。明るい月夜に照らされて、いつウィンディに見つかってしまうのか。そう息を潜めて生き続けていた。でも彼女と出会って変わった。
「……ほんとにそうかな?」
「そんなわけないだろ」
探るようなの言葉に、思わず本音を返した。あれはだ。ひと目見たときから、だとわかった。確かにあのとき俺の右手にひっかけていた時の紋章が叫んでいた。でもそれだけではない。見かけが変わっても、声が変わってしまっても、年が変わっても、だった。互いに恐怖があったから、はっきりと関係を言葉にしあったことはない。ただあれは恋人のようなものだったと認識していたし、今もそう思っている。そしてそういった行為もした。
竜洞騎士団に担ぎ込まれたとき、狭いベッドの中で、との会話を瞳を閉ざしながら聞いていた。俺のせいで、彼女の紋章が砕け散ってしまったと知って、どうしようもない苦しみが襲った。あれだけ大切にしてきた、彼女のものを奪ってしまった。その事実が苦しくてたまらなかった。でも彼女はこうも漏らした。
この現世では、やっとこさ私は、人として死ぬことができる
一度きりの人として、死ぬことができる。
確かに、あれも彼女の声なのだろう。
「のことは今でも好きだ。心底愛してる」
そう告げたとき、「うおわあ」とが思わず椅子から転げ落ちた。「……なんだお前、人が真剣なときに」「いやごめん、思わず。ほんとごめん」 俺も青少年なものだから、少し照れたんだ、と首元をひっかく。当てられたのか、確かに耳のふちが赤くなっている。こちらもつられた。
「俺はあいつには幸せになってほしい。彼女が望む、人としての生を満喫してほしい。それには俺は邪魔ものだ」
は首を傾げた。そうしたあとで、ハッと息を飲み込んだ。察しがいい彼だから、恐らく理解しているだろう。「、この争いが終わってからでいい。ソウルイーターを俺に返してくれないか」
月の光が、ふと雲に隠れた。そうしてまたゆっくりと、窓から部屋を照らしていく。
「都合のいい話だとは思ってはいる。ただ、お前も知っているだろう。それは呪いの紋章だ。ウィンディから逃れるためにお前に託しはしたが、それは元は俺の祖父と一族が守っていた紋章だ。そいつは行く先々に呪いを撒き散らして生きていく。そんな狂った紋章を、お前に任せるわけにはいかない。俺が守るべきものだ」
そうだ。こんな若い少年に、責任を押し付けるわけにはいかない。もう十分に、俺は彼の人生を狂わせた。は何も言わなかった。ただ瞳を伏せた。「それが、テッド、君の望みなら」 ああそうだ、と頷いた。「でもじゃあ、はどうするんだ? あんなににも、君のことが好きでたまらない様子なのに」
考えないように。そうしていることも、こいつは簡単についてくる。
「あいつは、だれか他のいい男が俺よりずっと幸せにしてくれるよ」
2019-10-25