もはや、紋章での治療は何の意味もなさない。ただ彼をもたせているのは、自身の気力のみだった。この戦いの終結を見届ける。そのためだけに立ち上がり、を導く。それでも、何かせずにはいられなかった。力の限り魔力を注ぎ込み、少しでも長くとそればかりを祈る。マッシュは首を振った。「、もういいでしょう」 彼も理解していたのだ。

青白い顔のまま、兵に知られるわけにはいかないとただまっすぐに立ち上がった。「私は過去に帝国軍から逃げ出した。人の生き死にを左右する覚悟がなかった。おそらく今も足りない」 ふと、彼は語った。天幕の向こう側には、多くの解放軍の仲間達がいる。ざわつく声に、決戦の近さを知った。

「人ひとりを殺すことは、おのれ一人を殺すことよりも辛い。私はセイカで子どもたちを相手にした。未来のある子どもに生きる術を教えることで、それが少しでも罪滅ぼしになるのではないかと、逃げ出したのだ」

それは恥ずべきことではないと感じた。それはある種、正しい道であると。マッシュのあとをたどるように、アップルという少女がまたその続きを歩んでいく道標ともなったのだから。ただそう言ったところで彼は何も救われないだろう。

「もしあのとき、そう決断しなければ私は……」 彼は言いよどんだ。そうして私の頭を撫でた。さすがに彼にまでそうされるとは思わなくて、瞳を見開いた。そんな私の表情をマッシュは面白げに笑って、言葉を続けた。「私の妹も小さかった。それがいつのまにか火種となったよ。あの子は自由に生きた。そうして様にすべてを託した。、お前も好きに生きなさい」

賢すぎる子供は、なにより辛い、そう呟くマッシュは、私が長い長い記憶を持っていることなど知りはしない。ただ子供の成長を喜ぶかのように、見届けるように私に告げた。

もし彼が、が差し出した手のひらを弾き、セイカにいたままであったなら、どうなったのだろう。それも一つの生きる道だ。子供達に囲まれて、穏やかな余生を暮らしたのだろうか。今更そんなことを考えたところで、何の意味もない話ではあったけれど考えずにはいられなかった。

きっと優しい先生だったんだろう。でも、彼は好きに生きた。そう、彼が望んだのだ。




***



すでにグレッグミンスターを守る砦はない。進むべき道は一つだ。しかしウィンディも用意が周到な女である。兵士は人間ばかりではない。おびただしいほどの異形の怪物達が、街を守らんと平原を埋め尽くす。彼女の紋章は異界の門を作る。

ウィンディは姉妹だった。バランスの執行者と名乗るレックナートは、ウィンディと対の紋章を持っている。彼女が裏なら、ウィンディは表だ。二つで一つの紋章を、彼女たちは保有している。長い黒髪をローブに隠した彼女は、静かに紋章を奏でた。同じく竜洞騎士団、団長のヨシュアも彼女に力を貸す。

みるみるうちに異形のものたちが姿を消していくが、一歩が足りない。足元の草を踏みしめ、懐かしい紋章達の匂いをかぐ。「あなたは……」 レックナートが薄く瞳をあけた。「久しいね、レックナート」 誰だとばかりにヨシュアは眉をしかめたが、はっと思い出した。

「あのとき一緒にいた少女か。といったな」

フリックとビクトールが、さっさと持ち場にもどれとばかりにこちらに手を振っていたが、今活躍せずに、どうしろと言うのだ、と肩をすくめた。

「お久しぶりです。真なる時の紋章の継承者。挨拶もしない非礼をお詫びします」
「そりゃ額に汗を流している状況だしね。以前のは死んだんだ。今はそちらの方が年上さ。仰々しい礼などいらないよ」

と、言いながらも、この言葉遣いの方が無礼か、言葉を正した。「時の紋章はすでに砕け落ちました。今の私はただのつなぎの体ではありますが、レックナート、ヨシュア。微力ながらお手伝いさせていただきますよ」

ヨシュアはこの小さな子どもが、とでも言いたげな口元だ。ごもっとも、と片手を上げて、彼の手を取る。反対側はレックナートだ。「すでに私の紋章はありませんが、門の紋章、そして竜の紋章。二つとも、ようく知っているよ。両方とも相性がいいことにも、異界をつなぐ紋章だ。竜は異界の扉をくぐり抜けてやってきたものたちだから」

力などすでにない。けれども知っている。ふつふつと体の内から湧き上がるように、風が生まれる。小さな風が大きくなり、つむじのように巻き上がった。


「つなぎはつなぎらしく、二つの紋章をつないでやろう。さあ遠慮することはない。目の前にあるものは、この世にあらざるものたちばかりだ。さっさと追い出してやろうじゃないか」



自由に生きよう。現世ばかりの生ではあるが、今度ばかりは好き勝手に生きてやるんだ。死んで生き、生きて死にすぎた。様々な天魁星をこの目で見た。あまりにも見すぎたものだから、何をするにも億劫になって、生きながら星の歩みを刻んでいるだけだった。それをテッドが。そして、が変えてくれた。テッドがいたから、人を好きになることを思い出して、のせいで、気がついたら彼らに手を伸ばしていた。力になりたいと思ってしまった。

マッシュは、好きに生きろと言ってくれた。ただそれは傲慢に生きろという意味ではないことくらいわかっている。でも、少しくらい、テッドに好きと告げるくらい、いいんじゃないだろうか。





はバルバロッサを打ち倒し、フリックとビクトールは姿を消した。城の中でランプの明かりを頼りに使い慣れた部屋の整理をしていると、「やあ」 窓の外から声がした。さすがにきもが冷えた。「さん……」 落ちたら死にますよ、と言外に言葉を込めて、我らがリーダーをねめつける。少年はケラケラと笑いながら窓からひょいと入り込んだ。

「ちょっと挨拶をしておこうと思ってね」
「はあ、挨拶……?」

今頃は盛大な宴が開かれているだろう。外からは楽しげな音色が消えてくる。私は部屋に置いた薬達が気がかりで、こちらに来てはいたが、彼はそうも言ってられない立場なはずだ。なのにいつの間にかは城主の仮面を投げ捨てていて、いたずらっ子のような楽しげな顔で旅の荷物を見せびらかす。「いやいやさん、まさかですけど」「そう、そのまさか。俺は逃げ出すよ」 頭を抱えた。

そんな私の反応に満足したらしく、は窓枠に手をかけて、月明かりを見つめた。「テッドから逃げてしまおうと思ってね」 そんな言葉が意外だった。「テッドに?」 そう、と彼は頷く。

「もちろん、それだけが理由ではないけれど。レパントがいれば、この国は大丈夫だろうさ。……テッドは俺からソウルイーターを返してほしいらしい。まあそりゃそうだ。なんせこれは、彼が300年持ち続けた紋章なんだから」

彼の祖父が守り、村が守ったものなんだから、とは小さく右手で拳を作りながら呟く。「でもこの中にはグレミオや、父さんや、オデッサ、それにマッシュの魂があるんだ。俺だって、守る資格はあるだろう」

そう漏らした彼の言葉に、ひどく切なくなった。でもすぐにはからりとして、「まあそれにだ。俺は君たちに幸せになってもらいたい」「君たちに?」 つい、とこちらに指をさしたから、首を傾げた。「矢印はお互いを向いているのに、馬鹿みたいだと思ってさ」 捨て台詞だ。

彼はすぐさま窓に足をかけた。「だから、落ちたら死ぬと!」「そろそろテッドに気づかれる」 ひょいっと窓枠を乗り越えた。「それじゃあね、」 あっと悲鳴を飲み込んだ。一拍の間のあと、慌てて窓の下を覗き込んだ。真っ暗な闇に飲み込まれて、彼はどこにも見当たらない。危なっかしいことをする人だ、と額の汗をぬぐったとき、そういえば、彼に初めて名を呼ばれたことに気づいた。まあ、自身が名乗った偽名なのだけれど、の名を呼ばれることは、それほど嫌いではなかった。でもやはり、偽名だと気づかれていたらしい。


!!!! どこだ!!!!」

ここか! と勢いよく今度は扉が開けられた。首元から汗を流して、テッドが息も荒く部屋を見渡す。「彼は、出ていきました……」 思わず答えてしまった。テッドは舌を打って、すぐさま駆け出す。「待って!」 見失ってはいけない。そう思った。「待ってったら!」 それでもテッドの背中は止まらない。「好き!!」 がらんと、誰もいない城の中で、声だけがこだまする。「テッドが好き!!!」

聞こえているだろうか。彼の背中に届いているだろうか。


「あなたが好き!!!!」


あらん限りの声で叫んだ。
聞こえていることを祈った。彼の声が聞きたかった。彼に比べて短い手足が悔しくて、悲しくて、地面を叩いた。そうして拳を握りしめた。あの人に届かない悔しさを握りしめた。





こうして、少年は彼の国から逃げ出した。
その少年を、青年が追いかける。
青年の後ろには少女が。
いつまでも終わらない追いかけっこが始まった。

でもいつかは終わる追いかけっこだ。




2019-10-25