彼がいなくなった世界の後で[B√]
もさもさがいっぴき
もさもさがにひき
もさもさが
「…………さんびき……?」
ぼんやり瞬きながら、私はベッドから体を起こした。「ー?」とお母さんが私を呼ぶ声が聞こえる。ああそうか、とのったりと頷いた。夢だ。羊がいっぴき、羊がにひき。そんな風に数えるように、もさもさを数えながら眠ってしまったものだから、とうとう夢にまで出演してしまったらしい。私はベッドの上で伸びをして、パジャマを脱いだ。そのときふと、机の上に置いていたビーズに目が向いた。部活でちまちま作って、やっとこさ一つ、形になったのだ。
ゆっくりと手のひらを伸ばして、つんと指で弾いた。そのとき、ふと声を出しづらいような、そんな気持ちになって、きゅっと胸を掴んだ。「ー?」と、お母さんが私を呼んでいる。顔を上げて、「はーい」と返事をした。そしてまた、机の上のビーズを見つめて、私はすとんと座り込んだ。「うー……」 やっぱり、声が出しづらい。変な感じだ。
変なキーホルダー!
もしかしたら、会うかも。
なんて、ちょっとだけ、そう思っていた。ちょっとだけ。
高校になって、こっちの街に戻ってくることになったときに、ふと思ったのだ
会ったらどうだろう、とか、どういうことを言おう、なんてことも考えていなくって、もしかしたらあの子もいるかな、とそんな風に、半分冗談のつもりで、ちょっとだけ考えていただけなのに。(……同じ部活に入っちゃった) 変な感じだ。
とても、変な感じ。
ちゃんって、テッドのこと知ってるんだ
初めて部活に行って、そうくんに言われたとき、手の中からバラバラバラっとビーズをこぼしてしまいそうになった。ただ普通に、「そうだよ」と頷けばよかったのだ。嘘っぽく、「気のせいじゃないかな」と首を傾げるくらいなら、小学校のときの知り合いだと正直に言えばよかった。変なところなんて全然ない。むしろ誤魔化す方が、よっぽど変だ。そう分かっていたのに、思わず嘘をついてしまった。自分でも、なんとなく理由はわかっている。
(あの、私も入っていいですか)
そう言ってしまったからだ。
もともと、初めから家庭科部に入るつもりだった。くんにも、教室でそう話した。けれども、テッドくんの後で、入ります、と宣言をしてしまった自分を思わず隠してしまいたくなった。ずるいような、情けないような、そんな気になったのだ。けれども、なんでそう思ったのかはよくわからない。なんでこんなに恥ずかしい気持ちになったのか、わからない。
部活の間の時間、その理由をもんもんと考えて、そうか、と思った。きっと私は、テッドくんと話すタイミングを見失っていて、こんにちは、久しぶりだね、と言えばいいのか、それとも初めまして、と言えばいいのか分からないのだ。何度かテッドくんから、「よう」と声をかけられた。それは、久しぶり、という意味なんだろうと分かっていたけれど、本当にそうなのだろうか、とぐるぐるする。全然違う意味で言っているのに、調子に乗って、久しぶりだね、なんて言ったら、こいつは何を言っているんだ? と思われてしまうかもしれない。でも、はじめまして、と言うのも気が引ける。
どうしよう、どうしたら、と考えてもぞもぞするばっかりで、そんな風に考えている自分を知られたくなくって、だからくんに、テッドくんなど知らないという風な言葉を出してしまったのだという言い訳 言い訳? をせっかく思いついたというのに、それ以上くんが、テッドくんのことについて尋ねてくることはなかった。次の日、学校でも彼の言葉に身構えていたというのに、話す内容はいつもと変わらないことばかりで、テッドくんのことは全然出なかった。ガクッと拍子抜けしてしまった。でも、なんでこんなにがっくりきてるのか、自分ではちょっとわからなかった。
そんな風にもんもんとしながら、私は授業を受けて、ときどき見かけるテッドくんを目で追って、部活に出た。特に彼と会話することもなく、何を言っていいのかわからなくって、テッドくんとくんに気づかれないように、ほんのちょっとだけため息をついた。
テッドくんはひどく近くにいたけれど、彼から私に声を掛けてくることはなかったし、私もお話しすることもできない。お話ししたいな、と思っていたことは否定しない。でも、変なことを言ってしまって、なんだこいつ、と思われたくない。
テッドくんは、いつもどこか難しい顔をしていた。ときどき、本当にときどき、パチリと目が合うことがある。でも、そんなときはいつもめんどくさそうな顔をしていて、なんだか少し泣きたくなった。
もうずっとこのままで、お話もできないまま卒業してしまいそうな気がする。そんな鬼が笑ってしまいそうな、三年先のことまで考えていたとき、ちょっとだけ小さな事件が起きた。
あくまでも、私の中でというだけだけど。
オリエンテーションのお知らせについてのHRを終了して、鞄を持ちながら下足場に向かった。そのとき、ばたりとテッドくんと出会ってしまった。思わずびっくりして体を固くすると、テッドくんも驚いたようで、私と彼はピタリと固まった。
どうしよう、と思わず逃げ出してしまいそうになったとき、ふと彼が、「おっす」と片手を上げた。挨拶だ。とりあえず、お互い知り合いではある、というラインをもらえたような気がして、ほんのちょっと考えた後、勇気を出して話しかけてみることにした。そしたらテッドくんは、きちんと返事をしてくれたけれど、やっぱりどこか不機嫌そうな顔をした。私は小さくなってしまって、やっぱりなんにも言えなくなってしまったのだ。
どうしよう、と困ってしまって、手のひらの指を合わせるばかりで、「忘れ物があった」と言って背中を向ける彼に、ちょっとだけほっとした。けれども、なんだかしょんぼりもした。やっぱりなんにも言えなくって、このままなのかな、と思ったとき、ふと、彼は振り返った。じゃーな、と一言だけだったけど手のひらを振って、こっちを見た。思わず私は声を出した。「ばいばい」
ちゃんと声が出たことが嬉しくって、でもなんだか恥ずかしくて、私はまた逃げてしまった。いっつもこうだ。けれども、今日はいつもとちょっと違う。えへへ、とぱしりと頬を叩いた。(ばいばいって言えたんだ)
だったら次は、もうちょっとお話できるかな、とちょっとだけ気分が明るくなった。やっぱり、同じ部活で、同じ学年なのだから、色んなことをお話しできた方が、絶対楽しい。次の部活が、いつもより少しだけ楽しみだけれど、やっぱりまた不安になって、歩幅を小さくさせたあと、むん、と大きく一歩を踏み出した。大丈夫、ばいばいって言えたんだし。
でもやっぱり、駄目なような気がする。いやいやでも、と嬉しかったり、しょんぼりしたりを一人繰り返していたとき、それと同じ時間に、ありもしない忘れ物をでっちあげて、俺って馬鹿なんじゃねーの、とため息をついている男の子がいるとは、まったく知らなかった。お互い、秘密にしていたことだ。