彼がいなくなった世界の後で[B√]
「あー、くっそ……可愛いなー、もー……」
「…………」
目の前のお坊ちゃんは、がしっと自分自身の顔を手のひらで掴んで、ぶるぶると悶えるフリをする。俺の机をガツッと拳で叩いた後、ちらりとこっちを見て、もう一度ガツッ。「あーもー、かわいいなー」 俺はむんずとの額をわし掴んだ。「おいてめえ、それどこで聞いてやがった」「え? なに? わかんない。俺、別にテッドのマネなんてしてないよ。やばいこの机超かわいい……」「ふざけんな。ふざけんな。お前マジでふざけんな」
いやいやホントホント。俺はこの机のまるで木のような滑らかな表面が本当にすばらしいと、あ、もうホント文字通り木ですよね、いやあ可愛いなあ、なんて、いつも以上に適当なことを言うお坊ちゃんはすべすべと机の表面を手のひらで撫でていた。そしてときおりニヤニヤとこっちを見て、俺が無言で睨むと、またにこりと微笑んだ後に、机を撫でる。あっちにいけ。
その仕草は、妙に覚えがあった。
もちろん、自分の勉強机に愛を語った覚えはないが、問題はその台詞である。先日、俺はとばったり下足場で会った。ところどころビビらせはしたものの、一応初の会話のキャッチボールができたのである。ついでには笑って、バイバイとこっちに手を振った。なんともありがたいことだ。
それはさておき、俺は去っていったの背を見届けながら、ぼそりと件の台詞をつぶやいた。そしてありもしない忘れ物をでっちあげて、またまた教室に戻っていくというバカのようなマネをしたのである。つまり問題はそこだった。このお坊ちゃんは、こっそり隠れてその様子を窺っていたに違いない。
「お前、俺のストーカーかなんかか」
「ちがうよう。たまたま用事が早く終わったから、テッドと帰ろうかなあ、と思ったらテッドとちゃんがやってきたんだよう」
「語るに落ちたな。やっぱ見てたんじゃねーか」
「別に俺、もともと否定もしてないし」
うん見てたよ。と爽やかに笑う友人にアッパーの一つでもお見舞いしたくなった。別のクラスから出張してやって来ているというのに、すっかり我が物顔で他人の椅子をガタガタと借りながら、よっこいせと椅子を反対に座って、俺の机に肘をつくは、相変わらずニヤニヤと笑っていた。俺は無視した。「あのさあ」 なんだよ、という返事は心の中でしておいた。「よかったね」 鼻白んだ。
ちらりとを見た。どうせ本気で言っている。俺は口元をへの字にして、またそのまま顔をそむけた。「まあな」
おそらく本人よりも嬉しげな顔をしているは、抑えこむように、小さく笑っていた。
さわさわ、と教室の白いカーテンが揺れている。「あ」とが一つ、声をもらした。「もうちょっとで、オリエンテーションか」と、黒板の端っこに、ひっそりとお知らせが書かれている。「準備しないとなあ」
独り言のようなその声に頷いて、俺はまた窓の外を見つめた。明るい空の上では、のったりと白い雲が泳いでいた。
オリエンテーション。
二泊三日。
初合宿。
言葉にしてみれば、なんともまあときめく言葉の並びだが、実際のところはと言えば、ただの勉強合宿である。ホテルの中に泊まりこんで、黙々と辞書をめくって問題集とにらめっこだ。中学から高校への転機として、すっころがる生徒がいないようにという学校側からの思いやりなのかもしれないが、外に出るのが朝のラジオ体操が唯一というのが、どうにも騙された気分だった。
クラスのメンバーの部屋割りで、ゲラゲラとトランプを楽しんだ後、さて夕飯か、とよっこらせと立ち上がった。ガチャンと鍵をかけた後で、バラバラに廊下を歩いていると、ふと見覚えのある黒髪に気がついた。あっちの方も反応したらしく、体操服のポケットに片手を入れて、その反対の手をひょいと頭の横に上げた。
「どうよ坊ちゃん。課題は終わったかい?」
「一日目にね。暇でたまらないよ」
訊く相手を間違えた。めんどくさいのでそのまま無視した。俺はズボンのポケットに手をつっこんで、食堂まで歩いて行った。ホールのようなでかい部屋の中に、ずらりと並んだ机は学年分だ。まあ、ということはつまり、「ちなみに、ちゃんはあそこの席かな。名前の順だから」 人の思考を読まないで欲しい。
俺はジロッと睨むふりをしながら、が指さした辺りへ目を向けた。小さな背中が見える。ぼんやりと見つめた。そうすると、ぽんっと背中を叩かれた。ぐいぐいひっぱられて、「おいおいおい」と口では言っているくせに、多分本気で抵抗する気はない。もで、多分それがわかってる。「おーい、ちゃーん」 ぴく、と彼女は顔を上げた。
女子の列の中で、よく堂々と声をかけるな、と半分呆れたようにして、俺は他人のふりをするような顔をしながら、ちらりとに目を向けた。久しぶりの彼女はペコッと俺に頭を下げた。一瞬感動してぼんやりしていると、に横っ腹を殴られた。「いてっ、あ、おう。久しぶり」「あの、こっちこそ」
へへ、と彼女は笑っている。思わずこっちも釣られて口元が緩みそうになったのが悔しくて、眼つきを鋭くさせると、に頭を叩かれた。いてえ。
お互い特に話す内容もなく、なんとも気まずく見つめ合った。いつもならば、が適当に話でも盛り上げてくれると言うのに、今日に限っては、というか、この頃はそんな気はないらしい。わざとらしく口をつぐんで、俺の一歩後ろでにこにこ場を見守っている。
このやろう、と思えばいいのか、それとも反対のことを思えばいいのかよくわからなくて、俺はとパチリと目が合った。彼女は相変わらず恥ずかしそうに視線を落として、机の上に置いてある弁当箱に、もじりと手のひらを置いた。テーブルの上には、同じサイズの、同じ弁当がどしどしと机の上に並べられている。「どうした?」 俺はなんとなく、に声をかけていた。
はきょとんとして俺を見上げた。「あ、いや」 慌てて手のひらを振った。「なんか、困ってんのかなって」 本当になんとなく、そう思っただけだ。
多分、俺はの何を知っている訳でもないくせに、ちらりと表情を見て、何か分かったような気になって声をかけてしまっただけなのだ。
慌ててを振り返ると、はどこか面白げにしてこっちを見ているだけだ。「あ、や、困っているっていうか」 はぺちりと手のひらを合わせた。「量が多いから、どうしようかなーって」「……あん?」 は弁当を見つめている。数秒沈黙した後、ああ、と頷いた。男も女も、みんな同じ量の弁当が配られるから、俺には少ないけれど、にとっちゃ反対ということなんだろう。うちのクラスでも、ちらほら文句をあげている声があった。
「あ、そ」 ふーん、と俺は首元をポリポリとひっかいた。そんだけかよ。と視線を逸らすと、今度はに足を蹴られた。てめえ、なにすんだ、と振り返ろうとしたとき、のしっとが俺にのっかって、「ちゃん、そんならテッドに半分あげなよ」 一段目と二段目、どっちか片方さあ、とこのお坊ちゃんは、人の背中の上でぱたぱた手のひらを振っている。
「おい、なんでだよ」「育ち盛り育ち盛り。いけるいける」「お前だってそうだろ」「俺? 俺、他の子からもらうって約束してるし」 どうせ嘘だ。
ここはテッドが男を見せてよ、とバシンと背中を叩かれた。そのまま一歩足を踏み出して、俺は困ったようにを見た。も同じく困った顔つきをしている。もう少しで集合の時間だ。自分の席に戻らないといけない。そのままが断り文句を口にしようとしたとき、俺はムッと片手をつきだした。「ほら」 言葉が足りない気がした。「くれ」 これじゃあ、腹が減ってる食いざかりだ。
まあ別にそれでもいいか、と思いながら、ひょい、と手のひらをつきだし続けた。
は暫くの間俺を見つめて、「それじゃあ」と小さな声を出しながら、おずおずと下の段をこっちに渡した。「ん」と俺は短い言葉で受け取って、そのまま自分の席へ戻っていった。「お、テッド。羨ましいもん持ってるなあ」と隣の席のやつにつっつかれて、ついでに箸を伸ばされそうになったので、椅子を蹴っ飛ばした。「コノヤロウ」と文句を言う声が聞こえたが、そのまま無視した。
まあ、食いざかりだし。
もぐもぐ、と箸を動かす。
食堂から出るとき、何の偶然か、パチリとまたと目があった。はちらりと俺を見て、ぺこりと頭を下げた後、ドアの向こうへ消えていった。
俺はぼんやり彼女を見送った後、ぺしりと口元を押さえて、ゴツゴツ、と靴の底で床を蹴った。