ぱたぱた、と足を早めながら廊下を歩いた。ぺち、と自分の頬を叩いて、きゅっと顔が嬉しくなる。
「。楽しくなることはわかるが、あまりおてんばに歩かぬように」
途中、過ぎ去り際に言われたウォーロック先生からの台詞に、パッと顔が赤くなった。先生は小さな丸メガネの奥の瞳をきゅっとさせて、ちらりと私を見ながらコツコツと杖をついて去っていく。
クラスの担任ではないけれど、歴史の授業でお世話になっている先生だ。
ぶるぶる、と首を振った後、ほんの少し前のことを思い出して、私はまたパパッと顔が熱くなった。
(……「ほら、くれ」)
かしかし、と左右の髪の毛をひっぱって、ほっぺたを隠した。きゅうっとする。そうした後に、へへ、と笑った。(嬉しいな) ちゃんと話すことができて、ひどく嬉しい。
次はもう少しうまく話せるだろうか。
そうすることができたら、きっと嬉しい。
***
の奴は、いらぬおせっかいばかりする。
やめろっての、恥ずかしいだろうが、と何度いってもやめない。へらへら笑って、わかってるわかってる、と適当な言葉を繰り返す。でも実は適当じゃない。
多分きっと、心の奥の方では案外俺は喜んでいて、よしよくやった。とあいつのことを褒め称えていることを、はよくよくわかっている。だからやめない。でも正直、自分がそうだと認めることが恥ずかしくて、俺は毎回、「もうやめろよ」と眉を寄せる。実際、このやろう、といくらか思っていることは事実なのだ。
でもまあ。
(よかったな)
相変わらずかわいかったな、と微妙に考えて、やってらんね、とごそごそベッドの中から飛び起きた。ぴぴぴぴぴ、と枕元のアラームが鳴っている。「おらおら起きろ起きやがれ」と同室の野郎どもを蹴飛ばして、ついでにごそごそ体操服に召し替える。ふと、カバンの中の端っこの、小さな巾着入れが目についた。こんなとこまで持ってきてどうする、と溜息をついて、「遅刻すんぞお前ら。しらねーぞ」と叫んだ。
「テッド、お前じじいかよ。目覚めのいい朝しやがって」
なんだかむかついたので、文句の声はスルーした。
かちゃん、と部屋のドアを開けて、朝の空気を吸った。自動ドアのホテルから出た途端に、どこかしっとりしていて冷たい風が、頬をぺちぺちと撫でていく。(まあ、好きだよな、朝) じじくさいと言われる理由がこれなのかね、とまだ昇りきっていない日を見上げた。広場にはちらほらと生徒が集まっている。なんとなくの姿を探した。まだいない。(おいつ、意外と寝起きわりーしなあ)
ポケットに両手をつっこんだまま、あーあ、とあくびを一つした。目尻についた涙を、目をつむりながら片手で拭うと、パチリと彼女と目が会った。うあ、とお互い体を固くして、けれども目を逸らすことも不自然で、俺はじろっとを見下ろした。そうすると、は困ったみたいに両手を合わせて、しょぼりと頭を垂らした。いかん。
はどこだ、とまた目で探した。けれどもいない。「あの、お、おはよう」 聞こえた小さな声にぎくりとした。「おう、はよう」 ほぼ反射的に答えた自分の声に安心した。
「ラジオ体操って、なんだか懐かしいよね。小学校以来」
がぽつりと小さな声を出した。長い体操服の袖をまくって、なんてこともなさげに言葉を出した。小学校、という言葉を聞いて、また俺はぎくりとしたのだけれど、「そうだな」と気づくと言葉を返していた。「俺、案外好きだけどな」「うん、私も。終わった後に目が覚めるの、ちょっと楽しいよね
」「わかる」
けらりとが笑った。俺も少しだけ屈んで笑っていた。そう気づいた自分にハッとして、また顔が硬くなった。お互い奇妙な間が出来た後に、は困ったような顔つきで、
「くん、まだみたいだね」
「ああ、あいつ朝よえーの。低血圧」
「そうなの?」
「おう。家にゃあ、お玉を持ってたたき起こしてくれる人がいるんだけどな」
顔に十字の傷をつけた金髪の青年を思い出した。
はきょとんとした後、「なにそれ」と言いながらくすくすと口元を押さえた。一瞬、に感謝した。こんなところでも、あいつの存在はありがたい。と、思うのは心の底だけなので、口が裂けても一生言わない。
案外、普通に会話ができていることに気づいた。俺は少しだけ調子に乗って、「なあ、あのさあ」と問いかけた。「部活、おれ、いや、新入生が俺との2人だしさ、やりづらくね?」 女子とか全然いなくてワリーな。と謝ると、は瞳をきょとんとさせて、「なんで?」と首を傾げた。「なんでって」 嫌がってると思った、なんて言えない。言っても仕方がない。
「ん、ああでも。テッドくんとくんの方が器用だから、ちょっと困っちゃうかも」
「こまる?」
「プライド的な意味で」
羨ましいかな、と彼女は言葉とは裏腹に嬉しげに笑った。「あー……」「そろそろビーズ期間も終了なのかな。私、あんまりうまくできなかったから、ちょっと残念」
(こいつって、こんなにしゃべるやつだったっけ)
くるくる回る口を見ていると、なんだか不思議になった。けれども、もしかするとあっちも同じようなことを考えているのかもしれない。自分だって、いつもむっつりとした顔を作ってばかりいた。「じゃあ、やろうか?」 カバンの中でぐうすか眠っている、巾着の中身を思い出した。「やる?」「ビーズ。犬の」
そう言った後に、この間、ちゃんにあげたら、と言っていた相手に、お前は何を言っているんだ、と自分で文句を言ったばかりだと気づいた。
いや、と首を振ろうにも、またどうにもやりづらかった。はきょとんと瞬きを繰り返して、「ホント?」「ん?」「え、あ、冗談だった?」
やだ、恥ずかしいな、とが頬を叩いた。「いや、違う」 言葉が足りない、と自分でも思った。「あとで、やる」 きゅっとは瞳を開いて、照れたみたいに笑った。なんとなく、視線を逸らした。
「あー、今はねえけど、部屋にあるから。食事のとき持ってく」
「うん。あ、あの、テッドくん」
「ん?」
お願いついでなんだけど、とは手のひらをもぞつかせた。「今日もお弁当、大きい気がするし、半分いる? 食べてくれたら、私、嬉しいんだけど……」「食う」「う、うん」
少し食いつき気味で答えてしまったかもしれない。は驚いたように頷いた。「朝飯んときな。後でそっちの席に行くから」「……うん」
ありがとう、とは笑った。それから周りを見て、集まってきた生徒を確認した後に、ぱたぱたと袖からちょこんと覗く小さな手を振って自分の列に移動する。俺も慌てて移動した。いつの間にか、あくびを繰り返すが、の列に並んでいる。
ピッピッ、と吹かれる笛の音が聞こえた。点呼の後に、教師の声が聞こえる。
ラジオ体操、だいいちっ
ラジカセのスピーカーから聞こえる音を聞いて、じわじわと色々なものを認識した。はー、と息を吸い込んだ。
こうして、一年最初のオリエンテーションは終了した。
カバンの、きらきら輝くビーズを思い出した。
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7.5話