彼がいなくなった世界の後で[B√]
なんでこんなことができてんのかな。と、ときどき自分自身不思議になる。
ときどき、ちらりとを見かけることがある。廊下で通りすぎて、別にわざわざ挨拶をすることもないけれど、よう、とばかりに片手を振る。もぺこりと頭を下げる。それだけで案外嬉しい自分がいて、妙に歩幅が広くなる。
一緒に歩くクラスメートにあれは誰だと訊かれれば、「部活のヤツ」とぶっきらぼうに答える。その声がダメなのか、と自分自身ふと気づいて、あー、とげほげほ咳を繰り返した。今度訊かれるときは、もうちょっと良い言い方を考えてみようと思った。別に俺の返答がに聞かれる訳でもないのだろうけれど、こういうちょっとのことが、また別のところに影響するような気がした。
つまり俺は、どうにか表情を取り繕おうとしてしかめっ面にはしるところがいけないのだ。それさえなければ、思いのほか普通に話ができる。
けれどもときどき、さすがにこれはつっかかり過ぎなんじゃないだろうか、と感じるときがある。どこまで話しかけてよくて、どこからがいけないのかいまいちよくわからない。
セーフのラインかわからないから、それじゃあ何も話さなきゃいいんじゃねえか、とよく思う。別に自分はそれでもあまり構わないのだけれど、そうするとどこかが不安げな顔を覗かせるような気がした。だったらと近づけば、彼女は嬉しそうな顔をしているような気がするし、それはただのお前の気のせいだと言われればそうかもしれなかった。
しんと口を閉ざす俺達の前で、けらけらとが笑いながら何事かを話すことが、中々にありがたかった。俺たち新入生はいつも同じ席をぶんどって、何かしらの作業をした。未だにレース編みのターンは続いていて、相変わらずは口元を尖らせながら、必死にカギを動かしている。前よりも少しだけうまくなった。
結局、新入生は俺たち三人だけだった。
「さあ、今日の部活はこれで終わり」
パンパン、と手のひらを叩きながらのオデッサ先生の声をきいて、はーい、と家庭科室の中に若い女生徒の声が重なった。いくらか慣れはしたものの、ふとしたときにこの部活は女ばかりなのだと思いだして、幾分か気まずい気持ちになる。
俺とは持っていたカバンを背負ってそいじゃあ、と扉を出ようとした。はいつももたもたして机の上のものを片付けている。他の先輩たちのスピードも同じようなものだから、が遅いというよりも、俺達が速すぎるだけなのかもしれない。「テッド」 いつもと違って、その日はぽんとが俺の肩を叩いた。俺はなんだとばかりにそいつを見て、また机の上を見た。
俺たちがぼんやりと突っ立っている間に、の方の準備も終わったらしい。大きなカバンを肩にかけて、ちら、と俺達を見た。なんとなく、俺とは目を合わせた。誰が何を言う訳でもなくて、三人で並んで、ついでに他の先輩達と一緒に下足場に行く。それじゃあこっちだから、とばかりに全員がバラバラにわかれて、結局残ったのは俺たち三人だけだった。
それじゃあ、とは手を振ろうとした。俺とは自転車だが、どうやら彼女は徒歩らしかった。あのもさもさのキーホルダーは、この頃鞄のポケットの中にしまいこんいる。「ねえ」 が声をかけた。はパチリと瞬いた。「一緒に帰ろうよ。方向は同じなんでしょ?」
はいくらか困ったような顔をした。俺は何個かの言葉を思い浮かべて、どれもうまく言える自信はなかった。だからそのまま、「自転車なら押せばいいだろ。お前、ちょっとそこで待っとけ」 やっぱり不機嫌そうな言葉だった。はすぐさま顔を上げて、また何度か目をしばたたかせた。その後、なぜか笑った。「うん」 そう言って、セーラー服のスカートを手のひらで押さえて笑った。
俺は少しだけ口ごもって、「待っとけ」ともう一回仏頂面で付け足した後、大股で自転車置場にまで足を進めた。どこかニヤついていたの腹を軽く小突いて、自分の自転車をとりにいく。
玄関前まで戻ると、はぼんやりと立ったまま校舎を見上げていた。「」 声をかけると、はびっくりしたように顔を上げた。どこか気恥ずかしくなった。
「待ったか」
「ううん。くんは?」
「後ろ」
振り向くと、ペダルに片足を乗っけて、すいすいとこっちに来るお坊ちゃんが見える。
俺たち三人は、ゆっくりと歩いて帰宅した。が先頭で、それに並ぶ形で。一番後ろが俺だ。さすがに自転車二つを並べて、道路を歩く訳にはいかなかった。
後ろから、とが楽しげに会話をしているのが見えた。別にそれが嫌な訳じゃない。は器用なやつだ、と本音を言うと感心した。女子との距離のとり方がうまいとは思うものの、どう参考にすればいいかわからないし、やっぱりぐちぐち考えるよりも今のままでいいだろう、と俺はぼんやりと空を見上げた。「テッド」「……ん?」「ちょっとさ、どこかに座ろうよ。寄り道。時間も早いし」
の方はというと、既に了承済みらしい。おう、と俺は頷いた。
一度と出会ったことのあるベンチの前に、俺とは自転車をとめた。「ジュースでも買ってくる。2人はいる?」「じゃあ、その、オレンジ」「コーラ」 渡された硬貨をうけとって、はいよ、とは笑った。はどこかそわついていて、の背中を見つめた。それからしばらくして、俺と向き合った。
どうしたもんか、というような顔を二人一緒にして、そいじゃあ、と俺がベンチに動くと、は後を追った。どっかりとベンチに座る。ベンチの端と端、不自然に開いた距離で、俺達は黙ったままを待った。「あの、テッドくん」 から声をかけるの珍しい。と、思ったけれど、このところ少しずつ回数が増えてきている。
「……ん?」
「あの、ビーズと、レース編み、そのありがとう」
「おう」
もぞもぞ、とは口を動かした。これだからダメなんだ、と俺は考えた。おう、とか一言でなく、もう少し話題を広げればよかった。でも何を言えばいいのかわからない。「……そういや、なんでお前、家庭科部に入ったんだ?」 はきょとんと首を傾げた。それから少しだけ笑って、「私、そういうの好きだから。工作とかいろいろ」 キーホルダー、作ってたもんな、とは言わない。
「それより、テッドくんは?」
げほ、と咳込みそうになった。確かにこっちの方が不思議に違いない。「に引きずられた」 一応は合っている。でも全部が正解じゃない。「そっか。テッドくんとくん、仲がいいものね」 けれどもは納得したようだった。「中学も同じなんだよね。くん、私学って言ってたけど、テッドくんも?」「ああいや、俺はちがう」 あれ、とは不思議気に首をひねった。
「転校生だよ、転校生。あいつが途中で転入してきたんだ」
確か中2のときだった。
口を開こうとして、どうでもいい話だろうか、と思ったのだけれど、案外は興味深げに瞳をきらめかした。俺はポリポリと顎をひっかいて、「私学から公立な。うちに来たんだ。うちの中学は学ランだったんだけど、あいつはお坊ちゃんでシャツなんて紺色で、黒のブレザーでさ。制服が間に合わなかったって妙に浮いてたね」 すました坊ちゃんがやってきたぜ、なんてみんなで指をさして笑ったものだ。
「2年は同じクラスで、そんで」
そこまで言おうとして、やっぱやめた。と口をつぐんだ。「えっ」「つまんねえだろ」 ぶんぶん、とは首を振る。あんまりにも真剣な顔をされていた気がしたから、また恥ずかしくなった。俺は少しだけ口を開いて、「やっぱやめる」とそっぽを向いた。「えーっ」 不満気な声を出すを振り返って、くっくと笑った。
ちょうどそのとき、三本のジュース缶をかかえて帰って来た坊ちゃんが、「あれ、君たちなんでそんな中途半端な場所で座ってるの」と瞳をきょとんとさせて口元をつきだした。
俺とは、相変わらず変な風に間を開けて座っていた。今更ながらに気まずくなって、目線を逸らした。するとが、「ああなるほどー」と何がわかったのか明るい声を出して、「こういうことね」 ぎゅむっと俺との間に割りこんだ。
「おい、テメ……」
「せっまー」
そら狭いわ。向こうのを見てみれば、手をスカートの上に置いたまま、パチパチと瞬きを繰り返すばかりで何やら状況がうまく理解できていない。三人微妙なおしくらまんじゅうになりながら、「あ、これちゃん。こっちテッド」とマイペースに缶を渡す。「あ、ありがとう……」「お、おう」 真ん中のが、パキッと音を立てながら、プルトップを開いた。瞬間、ぶはっとが笑った。
別にの何が面白かった訳ではない。あえていうなら状況だ。俺もつられて笑った。ただだけが不思議気にジュースの缶を握ったまま、「ん?」と首を傾げた。
きょときょとと視線を動かして、「ん?」と彼はまた首を傾げた。も缶を開けて、ぷるぷると笑いながらオレンジに口をつけた。俺も同じくコーラを飲んだ。炭酸が喉にひっかかって、げほっと咳き込みながら笑った。
頭の上の緑の葉っぱが、ちらちらと揺れて影を作る。涼しい風はそろそろどこかに出かけていく。暑い季節の始まりだった。