彼がいなくなった世界の後で[B√]





「おーい、ちゃーん」


へらへら、とが手のひらを振っている。ねえよ、これはない。と俺は多分むっつりとした表情でばしゃばしゃと水面を蹴飛ばした。「なに不機嫌そうな顔してるの? テッド」「ありえねーだろ、こんな場所」
夏になったら遊びに行こう。そう約束はしていた。遊びに行く。その言葉はずっと覚えていたけれどどこに行こうかだとか、何をしようかだとか、まったく考えていなかった。終業式の日ににとっつかまって、「二人とも、どこに行く?」 と顔を見合わせた。


「っていうかさー、ちゃんもケータイ持ってないし。どうしたもんかと思ったよ」
「なんだよ。別にいらねえよ、めんどくさい」
「君たちいい感じに時代遅れでお似合いかもね」
「へいへい」

さすがに数ヶ月もこんな調子で付き合ってたら、のちゃかし文句にも慣れてくるというものである。「夏休みは部活がないし、ケータイがないと、家に直接電話しなきゃダメだし。さすがの俺でもそれはちょっと勘弁っていうか」「あん?」 唐突に歳相応の言葉を言われると、何やら妙な気持ちになる。「じゃあ手紙でも書きゃいいんじゃね」「古風を通り越してむしろ斬新だな」

テッドって唐突に古臭いこと言うね、と言われたので、まあな、とばしゃばしゃと足で水を遊ばせた。他人に言われるとどこか腹が立つのだが、ならば、まあ少々イラッとするだけである。どこが違うのかと言われれば、言葉にするのは少し難しい。

「つかさ、テッドもさ、しばらくちゃんに会えないとこだったんだよ?」

他人ごとな口ですけどね、とはどかっと俺の隣に座り込んだ。そういえばそうか、と「あー」と納得した風に声を出して、「まあ、別にいいんじゃね?」 それはそれでしょうがない。
「えー。会いたいとかないわけ?」「ぼちぼち」 会えれば嬉しい。けれどもまあ、会えないなら仕方がない。

「なんで? お前ちょっとおかしくない? ちゃんのこと好きなんだよね?」
「こ、言葉にすんな言葉に」

さすがに若干照れた。そんな俺の顔を見て、安心したとでも言うふうには息をついた。
「言っとくけど、ここに来たのはきみのためなんだからね。こないだの体育の時間、妙にそわついてたし」
「してねえよ」
「女子の方ってさあ、見たらいけない、なんて暗黙のルールがあるよねー。そんなもん作るくらいなら同じ場所でさせるなっていうか」
「だからお前な」
「でっかくなるなよ?」
「あほっ!」
「反応速いな。ちょっとは自分でも思ってたのか」
「うるせえ!」

意識しすぎ、意識しすぎ、とパチパチは手のひらを叩いて喜んだ。一体何が嬉しいのか。ハッと俺は鼻から息を吐き出して眉をひそめた。「そろそろじゃない?」 が額に手のひらを横において瞳を大きくさせた。別に、興味ねえけど。そんな顔をしながら俺はちらりとの視線の先に目を向けた。ぺたぺた、とサンダルがコンクリートを歩く音が聞こえる。「ごめんね、待ったよね」 は上にパーカーを羽織って、肩掛けの鞄を持っている。

「待ってない待ってない。……上、脱がないの?」
「あ、脱ぐよ」

ちょっと待ってね、とがチチ、と音を出しながら前のファスナーを下ろした。なぜか一瞬焦った。ぷいと背中をむいて、ばしゃばしゃと水を足で遊ぶ。目の前には、でかいビーチボールをぽんぽん投げて遊んでいる子どもが見えた。そのまた向こうのウォータースライダーは、ちびっ子には人気らしいが、大人にはあまりということらしい。まあ市民プールなんてこんなもんだろう。「テッド、いつまでそっぽ向いてんの」 べち、と素肌を叩かれた。

仕方なしに振り返ると、荷物をベンチに置いたらしいがきょとんとしてこっちを見下ろしている。どうかんがえたって水着だった。白色で胸元辺りがちょうちょで結ばれているやつで、上と下の布が離れていると、なんだかひどく不安になる。下着みたいなもんじゃないか、と何か怒り出したくなるような気持ちになって、俺だって似たようなもんか、とトランクスの水着を見つめた。そのあと慌てて水の中に飛び込んだ。ついでに頭までつかって、ぶくぶくと息を吐き出す。「ぷはっ」「……テッド、なにやってんの? いやわかるような気もするけど」「わかんなくていーんだよアホか!」「ちょっくるし、ギブ、ギブ!」

無理やりプールに引きずり込んで、腕での首を締め上げていると、はちょこんと足先を曲げて、プールサイドに座り込んでこっちを見て楽しげに笑っていた。俺は思いっきりに眉をひそめた。「おいお前、さっさと入れ」「え?」「入れっての!」
眼福しとけばいいのに、と静かに呟いた坊ちゃんの首を、もっと激しく締めあげた。「あ、やばい、ちょ、落ちる、やばい、やばい、すみませんでした!?」


ぱちゃん、とがプールに足をつけて、そのままよいしょと飛び込んだ。軽い水しぶきを手のひらでこすりながら、「つめたー」とどこか嬉しそうな声を上げて、ぶる、とは震えた。「ねえテッド」 こそこそ、とが俺の耳にささやいた。「んだよ。しょうもねえことだったら叩き潰すぞ」「いや、ひどく重要なことだよこれは」 真面目くさった顔で、そそくさとが俺に近づく。

「制服ってさあ、案外大きさがわかんないもんだよね。予想よりもちょっと大きい」
「捻り潰す」
「あ、いたい、ちょ、リアルに痛い、まった、痛い、頭を掴むのはやめよう!」
「ぶっつぶす」
「言わない。もう言わない、とりあえず今日はだまるねごめんなさい!」




    ***



ベンチに座って、ホットドッグをくわえた。は白い容器に入ったおでんに串をさして、だいこんにふうと息を吹きかけている。はと言えば、もぐもぐと三角おにぎりにかぎりついて、小さな花がついたサンダルを、とときどきパタリと動かした。一瞬視線が下がった後に、無理やり上に上げた。口に詰めたホットドッグに頬が膨れて、勢い良く飲み込むと喉に詰まった。

「……ちょっとテッド、なにやってんのほら水」
「げほ、うるへー」

情けない顔してるなあ、とは笑った。うるさい、ともう一度声を出した。「案外楽しいね、こういうの」「ちびどもが大量だがな」「今日のテッドは言葉がひねくれてますなあ」 まあいつものことか! とは笑ってこんにゃくに串をさした。めんどくさいのでそのまま無視しておいた。

「夏休みかあ」

何しようかなあ、とは呟いた。は今だとばかりに俺の背中を叩いた。ぱちん、と小気味のいい音がする。思わず咳き込んだ。「……えー、あー? 宿題?」 現実的な答えを出しすぎた。
なごくっと喉をならしておにぎりを飲み込んだ。「重要!」 意外なことにも、彼女の心の鐘を鳴らす言葉だったらしい。「でも私、夏休みが始まる前に、もう半分終わってるんだ」「あ、俺も」 優等生な発言だ。「まあ俺は、最後にまとめてするし」「えー」「……出さないよかマシだろ」

別に始業式でなくとも、最初の授業日までに終わらせればいい。別に間違ったことは言っていないだろうと彼らを見ると、はともかく、はむっと口元を尖らせていた。「……なんでお前、不機嫌な顔してんの?」「まとめてやるのはよくないと思う」「お前よかテストの点はいいよ」 べちっと軽く叩かれたので、思わず笑って腕を掴んだ。そうした後に、慌てて離した。は特に何も言わないで、「よくないと思うなあ」と繰り返している。

「じゃあ一緒にすればいいじゃん」

俺はなんでか慌てて振り返った。はくるんと串を回した。「だからさ、一緒にすればいいじゃん。勉強もできて、いろいろ一石二鳥」 その色々ってのはなんだかね、と思ったのだけれども、いちいちつっこむことはやめておいた。はちら、と俺を見た。俺は少しの間考えて頷いた。「いいんじゃねーの」
どうせ暇だし。

ぱち、とは手のひらを合わせて「やった!」と声を合わせた。お前らホントに仲がいいよな、と溜息をついて、コップの水を飲み込んだ。




ガタガタとバスが揺れている。こつん、と肩に何かがあたった。俺はパチリとまたたいて、視線をずらした。彼女はくうくうと寝息をたてて、こっちにまたもたれかかった。俺は視線を少し下げた後に、反対に座るを見た。彼はぼんやり窓の外を眺めていて、俺の様子に気づくとくすりと笑った。「嫌われてないって自覚ある?」 小さな声で問いかけられた台詞に首を捻った。「いや、俺、なんか前に言っちゃったから」

そういえば、そんなこともあった気がする。入学式でを見て、ひどく驚いた。どういうことだ、と変なキーホルダーを握りしめて、気づくと世界がぐるりと変わっていた。
がたん、とバスが揺れる。

特に返事をしないで、座席の前を見続けた。平日だからか、元々なのか、俺達以外の客はちらほらとしか見かけない。「じゃあさ、好かれてるって自覚は?」 の声にため息をついた。

「お前、そういう言い方ばっかするから友達ができねぇんだ」 今日は黙るって言ったろ、とねめつけると、は不愉快だとばかりに口元を尖らせた。
「失礼だな。知り合いならいっぱいいる」
「はいはい、知り合いね」
「友達もいるよ」
「はいはい、俺だろ」
「高校の目標、もう達成しちゃったかも」
「なんだよ、まだ気にしてたのかよ」

高校での目標は俺以外のダチを見つけることな。そんなバカみたいな軽口を、この隣のひょうひょうとした男が、相変わらずちまちま気にしているだなんて、学校のやつらの誰が知っているだろう。
「いいね、友達」 くさいセリフを、バカみたいにさらっと吐く。「俺さ、テッドが楽しそうだと嬉しくなるんだよね」「そうかい」「でもさ、この頃はさ、ちゃんが楽しそうだと、こっちもまた嬉しくなるんだ」

「二人一緒に幸せになればいいよな」

ガタガタ、とまたバスが揺れた。はまたぼんやりと窓の外を見つめていた。
俺はやっぱり返事をしなかった。「友だちっていいな」 相変わらず、は一人で呟いた。「そうだな」 小さく口の中で呟いた。まだ乾ききっていない彼女の髪から、柔らかい匂いが溢れた。「別に、まだまだ時間はあるだろ」 今度は少しだけ声を大きくした。うん、とは頷いた。はやっぱり起きなかった。幸せそうな寝顔だった。