カチンッ

「俺、あんたのこと好きだから、あんた、俺と一緒に来いよ」
え? とは瞬いた。え? え? え? と自分のほっぺたを両手で押さえる。一番聞きたかった台詞なのに、いきなり言われると困ってしまう。あわあわと一生懸命視線を逃がした。そんなを、ディックはガシッとほっぺたを掴んで唇に吸いつく。後頭部を片手で固定して、ふわふわの髪をなでた後に、「なあ、あんたは?」
そんなのお互いとっくに知っている。けれども言えない事情がある。お互いこっそり隠してるばかりで馬鹿馬鹿しいので、ディックは包み隠さず教えてやることにした。「ディックは48番目の名前だ。幾多の世界の裏の歴史を記録し続けてる。だからあんたと同じ、異世界から来た」
はぎょっとしたように瞳を開いた。ディックはいたずらっ子のようにニマッと笑う。「あんたも扉を蹴る人間なんだろ? 赤ん坊のころに扉を越えたんだ。その額の紋章、いや、この世界じゃ紋章とされてる魔力の固まりの所為でさ」
ディックはつんとの額を指ではじいた。は慌てて額を隠し、ディックから離れる。瞳を伏せて、唇をかむ。「……ずっと、隠してきたのに……」 彼女はずっと隠してきたのだ。よく似た形の風の紋章だと言い張って生きてきた。個人固有の紋章を持つ人間は少なくはない。けれどもさすがに、異世界からやってきた人間は少ないだろう。気づいていた。フリックに泣きついた。どうしたらいいだろう、と二人で考えて、それじゃあこれはただの風の紋章ってことにしよう。そんであんまり深く考えるのはよそうじゃないか、と彼は優しげに笑っての頭をなでたのだ。
「リミットは近付いてる」
ディックの言葉を、は本能的に気付いていた。この頃額の紋章が制御できなくなっている。ディックとブックマンは、どこか自分と同じ匂いがした。扉の匂いなのかもしれない。
「俺達は所詮世界の客人なんさ。いつかはどっかに放り出される。扉を蹴って、乱暴にやって来た人間達だから、出るときも乱暴だ。扉にはいつも鍵がかかってるから、今はギリギリで押しとどまってんの。鍵はその世界の人間にしか開けられんからね。でもそろそろ、鍵穴に鍵が押し込まれる音がしてる」
カチンッ
は一瞬、幻聴が聞こえた気がして、思わず耳に手のひらを当てた。「鍵が開いたら、あんたも俺達と一緒に流される。強制的だ。だから、俺と一緒に来いじゃない、俺と一緒に行っちゃうんだよ。でも念のため、ばらばらになっちゃ嫌だから、ほら」
ひょい、とディックはの目の前に手を出した。「俺と一緒に来なさい」 ぎゅっと手を掴んで。
は気付けばディックの手のひらを握っていた。ディックはほんの少し嬉しそうに笑って、を抱きしめた。キスだけじゃちょっと足りない。ぎゅっと抱きしめていた腕をほんの少しだけ緩めて、の耳たぶを柔らかくあまがみした後、「ちょ、ディックさん、それは、さすがに、ちょっと!」「いや、これくらいは問題なくね?」 もにもにもに。
服の上からだいたい先っちょを探してみてぎゅっと力強くこすってみた。ひえーっと言ういい感じの叫び声が聞こえたので、正解だったらしい。
楽しくなってきた。
手のひらは大きい方なので、片手で両方をいじってみる。はたまらなくなったように、真っ赤な顔を両手で隠した。唇を噛んで必死に体を硬くしている。「あ、訊き忘れてたさ」 ディックはぱちりと瞬いた。「あんた、俺のこと好き?」 もう知ってるけど、一応。分かっても聞きたいものだし。
は出せない声を補うように、顔を両手で覆ったまま、コクコクと首を縦に振った。まあでも気づいたら半分押し倒していて、服もいくらか乱してしまっている状態だったので、言ったというよりも、言わせたという感じかもしれない。ディックは自分自身苦笑しながら、悪戯心を震わせた。「いやまあ、そういう大事なことは直接言ってくれんと」
手のひらの向こう側の瞳で、ギッとに睨まれた。意外と気が強い。でもまあ、可愛いもんだね、とディックは笑う。「さっさと言ってくんないと、俺のいけないお手々が下の方まで伸びちゃうカモー」 まさかけが人にそこまでする気はないので冗談だけど、の方はそうだと受け取らなかったらしい。ぶるぶる首を振った後、「す、好きです。ディックさんのこと好きです。だからその、こう言う場所でそういうことは、い、嫌ですー!」「よしよく言った。という訳で下は触る程度に免じて」「ぎゃー!」 平手打ちされた。
さすがに冗談だったのに……冗談だったのに……
最後までこういう展開な訳ね、とディックはしくしく涙を流しながら頬を押さえていた。隣ではさすがのも憤慨した様子で服を着直し平常通りにベンチに座っている。取りあえず腰を引き寄せるくらいセーフだろうか、と左手をわきわきさせてみたものの、即座にはたき落とされた。手厳しい。
空はとっぷりと暮れ始めている。ディックの髪の色と同じ、真っ赤な夕日が湖の中に帰って行く。彼らは、大丈夫だろうか。大丈夫だ。終わりが近いからこそ、扉が開きかけているのだ。この戦いが解放軍の勝利に終わることは目に見えている。(まあでも、ブックマンはあくまでも客観的に観察せにゃならんから、心配だとか、そういうのはイカンのだけどね) だからなるべく考えないようにする。
を見てみた。彼女もぼんやりと夕日を見つめていた。ふと、ディックと目があった。別に意識した訳でもなく、気づいたらお互いキスをしていた。は瞳を瞑っていた。
カチンッ
鍵が開く音がする。
ハッとしたとき、二人の体は宙に浮いていた。ディックとブックマン、そしてが一番初めに出会ったのは偶然でも何もない。引き寄せられるように出来ているのだ。
ディックはの手を掴んだ。どこでもない場所に向かう。空の上。
ワッとは驚いたように口を開けた。眼前には大きな扉が控えている。比喩ではなく、"扉"だ。まるで貴族の屋敷にそびえる、木製の大層な扉。過度の装飾はなく、サイズがバカでかいというだけでただの扉がヌッと宙に浮いている。
その目の前にブックマンが立っていた。「おうジジイ、さっきまで水上砦にいたんだろ? お疲れさん」 の肩を抱えたまま、ディックはひょいと軽く手を上げる。ブックマンはと目を合わせると、軽くため息をついた。「嬢も難儀なことだ。我らには定住する場所も、意志もないが」「決めました」 は短く呟いた。ブックマンも了承したとでも言うように、小さく頷く。
ディックがポンとの肩をたたいた。そして白い地面を指差した。いや、よくよく見れば透き通っている。鏡みたいだ。その中ではくるくると太陽が昇り、沈んでいく。「兄さん」 青いバンダナをつけた青年が剣を振りまわした。隣にはビクトール。落ちた瓦礫の中に、彼らは取り残された。「あっ!」 はたまらず叫んだ。その瞬間、地面はただの白い床に変わってしまう。一体兄はどうなったのか。「あんたの兄さんなんだから大丈夫だ」 ディックの言葉には頷く。
ディック達は、はからず扉を見つめる。ブックマンはドアノブに手を置いたが、開くことはない。まだ鍵がかかっているのだ。「そろそろ鍵が到着するはず」 そう彼が言い終わると同時に、真っ白な空間に、見覚えのある男が立っていた。
あまり肉のついていない体にこげ茶色の髪。優しげな顔付き。彼はディック達をその細い瞳に入れると、おっと言うように顔を驚かせた。「まさかこんなところでお会いするとは。唐突に城から消えられたと聞いていましたが」「ふむ、軍師殿、その折は申し訳ない。こちら側では計れぬことなのでな」
「マッシュさん!」
「軍師、あんた……」
ディックはほんの少し悲しげに眉尻を下ろす。「あんた、死んだんか」「ええ。水上砦で刺されてしまいまして。けれども、後悔は何一つ」
軍師の立場であるはずの彼が、前線に出る訳がない。刺されるとすれば要因は一つ。刺した相手はスパイか、とディックは口の中で呟く。信じてみたい、そう言っていたの願いは容易く壊れてしまった訳だ。
鍵はこの世界の人間にしか開けることができない。
その鍵が彼が関わったスパイに殺されてしまった彼なんて、なんとも皮肉な話だった。けれどもマッシュは後悔はないと言っていた。きっと勝利したのだ。
彼は今から扉を通り、新たな人生を踏み出す。マッシュ自身も、そのことをうっすらと理解している。死とはそんなものだ。
マッシュはなんのためらいもなく、右手に持っていた鍵を、鍵穴にさしこんだ。カチンッ
ドアはあっけなく開き、マッシュはその中に足を踏み入れようとする。けれども瞬間、ディックに振り返った。
「こういう台詞を言うのは、年長者の権利だと思いますので。
長生きなさい。後悔をしないようにね。
お幸せに」
それではお先に、とマッシュはブックマンに会釈した。すいっとドアの向こう側に消えた瞬間、他を拒むように扉は力強く閉まる。毎度のことだ。けれども鍵はあいている。手始めに、ブックマンはノックした。コンコンコン。これはただの挨拶だ。ブックマンは短い脚を振りあげる。扉にヒットした瞬間、勢いよく扉は開いた。「さてゆくぞ。じゅくじゅく弟子よ」「まかされた」
ブックマンは飛び込んだ。ディックもの手を握りしめ、扉の向こう側へ。は瞬きを繰り返し、ディックと視線を合わせた。お互い笑った。えいや、と負けずに一歩。
落下していく。世界が近づく。
「ジジイ、次の俺の名前は?」
「ラビと決めた」
「オッケイ分かった、」
彼女の手を、ディックは強く握った。もそれに答えるようにぎゅっと握り返す。
「
俺の名前は、ラビさー!!」
49番目の名前だ。

「あ、ありえないだろ……」
彼の目印の青いバンダナも、さすがに今日はぼろぼろだった。隣ではビクトールがゲラゲラ笑っている。フリックは眼前に広がる光景を、信じられない目で見つめていた。
暮れた日の中、空から照らされる星たちが、地平線の向こう側まで続く砂ばかりの平地を親切に映りだしてくれている。
まさか何の装備もなく、生身で砂漠越えをすることになるだなんて、想像できただろうか。できない。飽きもせず追いかけてくる帝国軍人をやっと追っ払ったと思ったらこれだ。達はどうなっただろうか。無事だと願っている。いや、無事だ。あの子どもは馬鹿みたいに悪運が強いんだ。
(オデッサ……)
恋人の名前を思い出した。彼女は空の向こう側で喜んでいるだろうか。終わったぞ、と報告する。彼女が起こした火だねは瞬く間に赤月の地を燃やし、輝き、希望となった。
(まったくとんでもない女性に惚れたものだよ) 苦笑するしかない。
「フリック、ここまで来たもんなら、もー最後まで行っちまおうぜ。その気になりゃ人間なんでもできるもんだからな!」
「お前みたいな熊と一緒にするなよ……まったく。達の元に戻らなくてもいいのか?」
「戻ったところで俺達に何ができるよ。国を作ってくのは別の奴らに任せた方がいい。俺達は気楽な傭兵生活の方が似合ってるさ」
「だから一緒にするなって」
でもまあ、彼の言うことには賛成だ。足を動かす。砂漠というものは、昼は熱く、夜はたまらなく寒いと聞いたが、本当のことだった。「今頃リーダーも逃げ出してるだろうよ。レパントのおっさんがいりゃあ問題ない」「同意する」 後を押しつけるだけの形になってしまって申し訳ないが、生きていればまた出会うこともあるに違いない。
歯切れよく答えたフリックの言葉を、なぜかビクトールは意外げに見つめていた。なんだ、と彼を見ると、「いいや」と頭をひっかいた後、「あんたの可愛い妹はいいのかって思ってね」 フリックは困ったように笑った。
「あいつはもう、ちっちゃな子どもじゃないからな」
自分の後をくっついてきた赤ん坊はもういない。ほんの少し寂しいが、嬉しかった。
オレンジ髪の少年を思い出して、フリックは日の暮れた空を見上げた。きらきらと小さな星々がまたたき、一つだけ空から僅かな軌跡を残して転げ落ちた。
「おお」どうやら同じものを見ていたらしいビクトールが、嬉しげに声を上げる。「流れ星だ」
フリックは口元をほんの少し開けて、覚えのある名前を口にした。三度願うことはできなかったけれど。
(兄さんより、長生きしてくれよ。元気でな)
2011.06.25