序章




深崎籐矢は歩いていた。
ダカダカダカ。廊下を踏みにじる程に歩き、けれどもけして走る事はない。所謂早歩き。脳みそに刻み込まれた「廊下は走ってはいけません」というルールを彼は何故だかこの年になるまで順守しているし、彼はタバコも酒も飲むことはない。
別に本人が生真面目な訳ではなく、「そういうもんなんだからいちいち手を出す必要がない」とひどくさっぱりとした考えを持つ青年だった。
好奇心は人並みにあるが、いちいち自分の不利益になる事はする必要はない。おもしろおかしく好奇心というものは満たすべきだ。

そんな生意気な考え方をする籐矢は、口を一文字に閉じ、急ぎ下足場にて靴を履き替える。典型的な日本人気質の黒髪には、高校生男子として少々色の薄い肌。身長は、まぁこんなもんだろう。平均よりも少し高めかもしれない。

籐矢は学ランに革靴は似合わないだろうという判断と、動きづらいからという理由で長年愛用している赤いスニーカーを履き、背中に背負ったリュックを揺らしながら、グラウンドを駆け抜けた。腕に巻いた時計が、チッチッと時が進む音をたてる度に、イライラとする。

「………あー」

やはり探し人はいない。
高い鉄の門は開き、ぎぃぎぃと風の中で身体を揺らしたが、ただ学校前に鎮座した、ボタン式の信号が青から赤へと変わっただけだ。
彼は肩を落とし、思わず手のひらを顔で覆った。

とん、と短く加わった背中への衝撃に振り返ると、「ふふふ」と籐矢と同じ長い、大和撫子のような黒髪を揺らしながら、いたずらっ子のように笑う少女。
落ち着いたチェックの色のスカートは少々短めに、チャームポイントのように、首もとへとぽとんと落ちた赤い棒タイが可愛らしい。「あらあら、ふられちゃいました?」 何故だか、心底嬉しそうだ。

別に、と籐矢は短く呟き、片方のリュックの紐を握り、信号のボタンを押した。お待ち下さい、と書かれた赤い電子の文字を見詰め、ふとため息を吐く。
背中からは、樋口綾の、独り言のような台詞が続いていた。
「今日は、委員会が遅かったですものね。長々と残されちゃいましたか? うふふ。フラれちゃいましたね。もしかして、待っててくれていると考えてたんでしょうかね。駄目ですよう、そういうの気恥ずかしがる子ですもの。『待った?』『はい』って返す子ですよう。そこは『全然』っていうべきですよね。ああ、フラれちゃいましたね」
「樋口、ちょっと黙ってくれないか」

籐矢は、この本当によく口の回るクラスメートだなぁ、ともう一度お待ち下さい、の文字を見詰め、信号を眺めた。青く変わる瞬間に足を踏み出し、さかさかと歩く。歩く。歩く。

「………なんで付いてくるんだよ」

綾はにこりと笑った。

さんに、どうやって言い訳するのか、とっても楽しみなんです」
「……………付いてくるなよ」


歩き慣れた通学路を、無心に足を動かす。ことんと零れてしまいそうな太陽はオレンジの光を反射し、道を曲がるごとに人通りが少なくなった。
丘の上へと向かっているからか、少々身体が斜めになっているような気がする。小学生くらいの男女が、隣をきゃっきゃと通り過ぎ、思わず目で追うと、つかず離れずを繰り返し歩く綾が、にんまりと口を開き笑う。
籐矢はこの少女が少し苦手だった。別に個人同士で話すのはそこまで問題はない。けれどもどうしても、あの子の話題となると、立場的に弱くなるような気がして、なんとなく気まずい。一方的に。



しかし綾は籐矢にダメージがあるとなると、即座にピンポイントの攻撃をしかける、案外やり手だった。からかいすぎてはいけない相手と、思う存分からかえる相手。綾にとっての籐矢は、この話題ばかりは、後者になりかわる。「うふふ」
口元から溢れる笑いを隠そうともしない。

けれどもこの時ばかりは、これ以上は可哀想かなぁ、とちょっとした仏心が芽生えた。そろそろどこかで迂回でもしてやろうかと、丁度通り過ぎようとした公園へと目を流す。
丁度そこに、二組の男女がベンチの上に座っているのが見えた。「あら」

声を上げた後で、綾は少し後悔した。なぜなら、いいところを邪魔をしてしまった、空気の読めない人間になってしまったんじゃないか、と少しだけ焦ったが、彼ら二人は、「あ」「おー」とパタパタとこちらへと手をふる。
よかった。
ちょっと綾は胸をなで下ろした。


「樋口じゃん、あと、深崎」
「ひっさしぶりぃ」

軽快に口を開いたのは、少年の方だ。茶色い髪と人なつっこい笑みは万人に共感できるものがあるが、後半の、深崎、と台詞を口に出したとき、一瞬眉をしかめた。両方が。どの両方かといえば、口に出した本人と、名前を呼ばれた少年が。
彼らは何故だか折り合いが合わないらしい。何があったという訳ではないらしいが、なんとなく気が合わない人間というものはいるものである。彼らは多分その典型だった。けれども、何かきっかけでもあれば、案外馬が合うんじゃないだろうか、とこっそり綾は考えていた。

その次に、にかにかと手を振る、セーラー服の少女は、この少年、新堂勇人と、どこか顔の作りが似ている。親戚か何かだろうか、と考えたことがあるけれども、綾は確認した事がない。少なくとも、自分たち4人は、中学時代一度同じクラスになった事があるから、従妹などではないだろう。橋本夏美は見るからに活発な少女で、運動神経もよい。凹と凸で中々いいペアだったのか、綾は彼女とは、親友とはいわないまでも、仲のよいクラスメートだった。

そんな一度同じクラスになった事がある程度の4人は、なんとなく気まずく、もごもごと口を動かした。個人個人で関わりが深くても、4人全体の共通点はなにもない。なんとなく、何をいえばいいのか分からない空気の中で、ベンチに座ったままの勇人が、「ええっ、とぉ」と口を動かした。

「あー、学校帰り?」

見ればわかるだろう、と言いたげな台詞を、籐矢は飲み込み「ああ」と頷く。気に入らなかったとしても、それでいちいちぶつかり合う程彼らは子どもではない。

「そっちは、何してるんだ?」
「えー、女バスキャプテンと、男バスキャプテンの、作戦会議かなぁ」
「なんですか、それ」
「うん、あのねこの頃さー、女バスと男バスの奴らカップル大量でね。たるんどるー! って新堂と愚痴いってた」
「それは、大変ですね」
「そうそう、羨ましいつーの」
「………そっちなのか」

つん、と口を尖らせた勇人に、呆れたように籐矢が笑う。
「羨ましすぎるよねぇ」と夏美も呟き、綾はどうしたものか、と片手を口に当てながらくすりと笑い、ちょっとだけ、苦笑い。
別に今のところ、まぁそういうものを作る予定はない。
「羨ましいっていうか、うん、青春っていうか、変化が欲しいなぁって」

その夏美の言葉を聞いたとき、綾の胸の中に、なにかちくりと刺さるものを感じた。変化。
実はこの頃、こっそり思う。
このまま、真っ直ぐと進んでいくままでいいんだろうか。別に平凡な人生が嫌な訳じゃない。けれども、何不自由のない生活で、何故だかときどき、コトンと思考がはずれてしまう。いいのだろうか。
それは随分贅沢な悩みだな、と自分で苦笑して、それじゃあ、と会話を切り上げようと、顔を上げたときだった。


            助けて……


囁くかのような、青年の声が聞こえる。いいや、よくよく聞けば、その中には可愛らしい少女の声。複数の声が折り重なり、一つの言葉を発していた。
(……気のせい?)

こくん、と首を横へと倒し、先ほどから一言も声を発さない彼らを不思議に思うと、彼らもまた怪訝そうな表情で、綾達を見返した。
ざわり。公園の中に立った幾本かの気が、風もないのに、幹を揺らす。微かに肩が震えた。


            このままだと、壊れてしまう……


「………壊れる?」
勇人が、呟いた。そして綾は、この声が自分だけに聞こえている訳ではないと、はたと気づいた。籐矢も同じように頷く。夏美は不思議そうな顔をしたが、声がまた呟くたびに、ぴくりと肩を動かした。

きぃん、と頭がひび割れるかのように甲高い音が聞こえ、思わず両手で耳を塞ぐ。けれどもそれは何の意味もなく、音を塞ぐ事も出来ない。
突如綾は、何かに引っ張られているような、そんな感覚に陥った。
身体ごと全てを、力強く、ねばり強い何かに、ぐねぐねとひっぱられる。消える。本能的にそう感じた。
身体の一部がなくなるような感覚。
喉もとから震えが溢れ、その瞬間、口をぱかりと開き、あらん限りの悲鳴を叫んだ。ただ目を瞑り、喉を震わせた。そるする事で、自己を保つ事ができたような気がしたからだ。


何かの感覚が薄れ、瞑る瞳は、瞼の裏の黒を見詰める。赤い光りが差し込み、うっすらと瞳を開けた。何もない。風景は変わらない。街を一望できるこの公園。点々と位置するベンチ。雨によって、所々さびたブランコ。
「………え」

ひとつ、おかしな事に、綾は気がついた。
自分の足下へと伸びる影が、一つだけしかない。低くなった日に照らされ、ぐんぐんと長く長く伸びる影。
人間一つに、影一つ。なんの問題もない。けれども、おかしい。


「………深崎、君? 新堂君?………夏美、さん?」


いない。
どこにも、いない。

まさか、彼らは自分をからかっているのだろうか。ごくりと生唾を飲み込み、震える足を叱咤し、「ど、どこに、いるんですか?」 返事はない。
ふらつく足で、ベンチに座り、そのときこつんと足の先へと当たった、何か。


それは鞄だった。茶色い、革製の鞄。学校指定の鞄には、小さなキーホルダーがいくつかひっかかっており、長くつけているのか、所々古ぼけている。
綾は、カタカタと自分の両腕が震えている事に気がついた。
ひょうきんな顔をした、猫のキーホルダー。
お気に入りなんだ、と笑っていた彼女を思い出す。
「まさか」と綾は呟く。


公園の、オレンジの光りの中、ぽつんと佇む鞄一つ。
小さな影をつくり、ただ存在を主張した。





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2008.10.21