第1話  ハジマリまでのお話をどうぞ 1




人は幼いころをの話を覚えているものなのだろうか。
普通は覚えているに違いない。けれども私は自分の小さなころを知らなかった。ただ思い出す記憶は、自分が雨の中でぼんやり地面に座っている風景だ。それ以前のことはまったくわからず、これが俗に言う記憶喪失と言うやつなのだろうか、と気づいたのは情けないことにもつい最近だ。

私はかしかしと頭をひっかいて、竹刀を背負い、家を出る。その隣にとうとつに現れた茶髪の少年はきゃらきゃらと笑いながら、「、今日も練習か? 大変だよなあ、ニンゲンって」と私の背中を叩く。私は「別に、好きでやってることだから」とツンと唇を尖らせながらを睨んだ。彼はひゅーっと一つ口笛を吹いて、「あれすねた? すねたすねた? すねちゃった?」と嬉しそうに言葉を重ねる。

「すねてないよ」
「やだね、おこちゃま。ところで俺、これ似合うかしら?」

そう言って、彼は学ランの袖をひっぱりながらくるくると回る。私は適当に似合う似合う、と頷いたけれども、はしょぼんと眉を垂らして、「でもさあ、俺こういうのあつっくるしくて苦手なんだよねー。やっぱなし、こっちの方がいいや」と彼があくびをした瞬間、私の足元に大きな犬が現れた。昔っからいつも一緒にいる。けれどものことは未だによくわからない。彼は人の姿でも、犬の姿でも自由になれるし、いきなりひょっと消えて、またひゅっと現れる。
(まあ少なくともこいつは人間ではないな)

こんな人間、いてたまるか。

私がひゅっと目線を足元のから逸らしたとき、唐突に左側から現れた電柱に頭をぶつけた。「い、いいいい、つつー……」 左のおでこを押さえて、私は転がりまわる。まったくもって気付かなかった。
別にそれはドジでもおっちょこちょいでもなんでもない。私の左目は昔から見えないのだ。そのくせ剣道へと手を出すから、「は十兵衛にでもなりたいの?」と幼馴染の先輩はにやにや笑っていた。はひょっと人の姿へと戻り、私のおでこを覗き込む。

「あー、赤くなってる。この頃はこんなのなかったのにね。鈍ってるんじゃね」
「朝っぱらから涙が出てくるよ」

そう言いながら、私は足早に学校へと急いだ。



日常とは変わることなく、日々が過ぎていくものである。ぼんやり学校の机に膝をついていたとき、教室がざわついた。嫌な予感がするぞ、と目を閉じて、窓側へと顔を向けるのに、その人はわざわざ私の机の前へと立ち、ぬっと影を落とす。「あれ、おでこが赤くなってるね、どうしたの?」

私はしぶしぶ顔をあげた。その先にはにこにこ笑顔の幼馴染の先輩が私のおでこへと手を伸ばしている。

「深崎先輩、ここ一年の教室ですよ」
「もちろん知ってるよ。の教室だしね」
「深崎先輩、先輩は二年生ですよ」
「それももちろん分かってるよ。あとで教室に帰るからね」

自分のクラスくらいわかってるさ、とわざとらしく先輩は笑った。私がいいたいことはただ一つだ。上級生が下級生の教室に来るのは目立つからやめてほしい。ただでさえ先輩は下級生に人気があるし、その先輩と近所の道場に通っていた、そして現在では剣道部の先輩後輩の中とは言え、やっかまれて困るのは私だ。ぐっと苦虫を噛んだような顔をして先輩を見上げていると、深崎先輩はハッと気づいたような顔をして、私の顔へと、自分の顔をそっと近づける。

「……
「なんでしょうか」
「きみ、まったくもってかわいくないね。顔がぶっさいくになてるよ」

神妙な口調で呟かれても困る。あんたがそうさせてるんだよ! という台詞をぐっと飲みこみ、私はそっぽを向いた。「ー? ー? あーあ、昔はトウヤ先輩とか言ってきて可愛かったのにー?」 なのにこっちの反応も気にすることなく、私へと声をかけ続ける先輩に、私はため息をついた。

私はぐるりと顔を動かし、先輩を見る。深崎先輩が、「おっ」と嬉しそうに瞳を輝かせた。真面目そうに見えるこの人は、案外おちゃめと言うか、悪ふざけが好きなところがあるのだ。

「先輩、そろそろ授業が始まりますんで帰ってください」
「……ほんとに可愛げがないね……」

まあいいや、と先輩は腰に手を置いて、ぐるりと体を反転させる。そして顔だけもう一回振り向き、「部活、遅れないようにね」と私の人差し指を向けた後、扉から出て行った。どこからか、の声が聞こえる。「俺、あいつキライだ」
にも好き嫌いがあるらしい。昔っからは深崎先輩と相性が悪かったのだ。



「なあなあ、道場に行っちゃうのか? さぼろうぜ。あんな変な黒髪がいるとことか、俺やだよ」
「俺がやでも練習だから。っていうか変な黒髪じゃなくて深崎先輩ね」
「名前くらい知ってるっつの! わざと言ってるんだよ、わ・ざ・と!」

そりゃあすみませんでしたねー、と私の隣で学ランを着て、頭の後ろに腕を回すを見て、私は唇の端をあげた。廊下には帰る生徒たちや、部活へと向かう部員たちがたくさんだ。授業が終わったの、二番目の始まりの時間帯に、妙な活気がある。私はこの空気がなんだか好きだ。

隣でぶーたれているを無視して、私は歩を進める。そのとき、向こう側から長い黒髪を垂らした、柔らかい雰囲気の女性がこちらを歩いているところを発見した。顔見知りだ。あちらも私に気付いたらしい。

「綾先輩、こんにちは」
「こんにちは、さん。部活ですか?」
「はい、そうです」

綾先輩は深崎先輩経由での知りあいだ。彼女は部活動に所属していない代わりに、生徒会に入っている。今もいくつかのファイルを胸に抱きかかえていた。綾先輩は私の隣に立つへと目を向けた。も綾先輩を見下ろす。「さんのお友達ですか?」 綾先輩がちょこんと首を傾げた。

「あ、はい。って言います」
「はじめましてさん。樋口綾です。あんまり見ない顔ですね」

そう平然という綾先輩に、私との表情は固まった。はさーっと青い顔をした後、「あっはは!」と頭をかいた。

「俺、よく学校サボってるから、あんまり見かけないと思いますー!」
「そうでしたか。ふふ、学校はサボっちゃだめですよ。それでは失礼しますね」

そう言って、綾先輩はお上品に頭を下げながらトコトコと生徒会室へと消えていく。は頭をかいたままの体勢で綾先輩へと目を向けた。

「うっほー……あの人と学年違うんだよなあ。なのに見ない顔って、後輩の顔全部覚えてんのか?」
「……さあ。まあ、何にせよ、綾先輩の前に、制服でいない方がいいと思うよ」
「おっけーおっけー」


へらへら笑うはいつもの彼だ。私は深崎先輩に絡まれて、綾先輩とお話して、部活をして授業を受けて。そんな毎日が続くと思っていたのに違ったらしい。日々は転がり落ちながら変化する。

その日はいつもと変わらず布団の中に入っていた。私は体を小さく丸めて眠る癖がある。眠りが浅いらしく、小さな音でも飛び起きる。ふっと目を開けた。体の内側からぞわりと警鐘が鳴り響く。これは何か、そうだこれは、

        とばされる



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