彼らが来るまで




     世の中には始まりというものがある。私にとっての始まりはびちゃびちゃしたたる雨の中だった。ぼんやりと、変な格好をした子どもが一人。水たまりに顔をつっぷしていた。つめたい、と顔をあげて、ぶるぶると頭を振る。頭の中がぐらぐらしていた。「え……っ」 左目からぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。涙じゃない。真っ赤だった。血だ。「え……?」

「え、え、え、ええ……」

どうすればいいかわからない。けれども血が流れ続けているということはよくない。死んでしまう。一体なんで自分はこんなに血を流しているのだろうか、と考えてみたけど、わからなかった。理由がわからないんじゃない。自分の名前もわからなかった。どうしよう、わからない、血が流れる。「し、死んじゃう……」 流れた血はぼたぼたと雨と一緒に流され、真っ赤に道を染め上げて行く。

その前に、一匹の犬がいた。茶色くふわふわとした毛皮は、水にしめって少しずつしんなりと体に張り付いていく。パチリと私が右目を瞬いた瞬間、彼はヒトに変わっていた。男の子だ。彼は大丈夫、と言う風に、ぼたぼたと血が止まらない私の瞳を手のひらで覆った。「昔の傷が開いただけだよ、時空を超えて、体がビックリしちゃったんだ。自分の名前は言える?」 私はぶるぶると首を振った。少年は少しだけ残念そうに瞳を落とし、やっとこさ血のとまった私の左目から手を離す。

「きみの名前は

びっくりしたんだ。きっとこの傷と同じで、頭の中がびっくりして、忘れちゃっただけだ。気にしなくてもいいよ、大丈夫。俺がついてる。大丈夫。
彼は私の目の前で体育座りをしてニコニコと笑う。誰? と誰何しようとしたけれど、なんだか声が上手くでなかった。だから人差し指を彼に向けた。彼はきょとんとした後、雨にしたたった髪の毛をそっと手のひらでよけて、「俺の名前は」 そこまで言ったとき、彼は振り返った。足跡が聞こえたからだ。「あの人に助けてもらうんだ。大丈夫、きみはまだ子どもなんだから、きっと助けてくれる。助けてって言うんだよ。心の限り叫ぶんだ。大丈夫」

ぐっと少年は私の肩を掴んで、もう一度振り返った後に、「」と、早口で答えた。「俺の名前」
もう一度瞬きをした瞬間、彼は消えていた。
その代わりに、傘を振りみだした、奇妙な格好をした女の人(このときの私からすれば、というだけで、本当は私の方が変だったのだ)が、慌てたように叫んでいた。
「どこ?      !     !」 誰かの名前を呼んでいる。

私はその人に手を伸ばした。その人は、私に気付いて、ひゃっと軽く跳ね上がった。慌てたように傘を投げ捨てて、駆け寄ってくれた。
それからいろんなことがあったけれど、その日から彼女は私の母親となったのだ。





さて人によって、さまざまな始まりがある。
私にとっての始まりがその日だったのか、それともまた別の日だったのか。実はちょっとよくわからない。さかのぼろうとすれば、どんどん遡ってしまうからだ。
まあとにかく、私の話をここでおしまいにすると、また別の場所で誰かの始まりが、今この瞬間にでも始まっている訳であり        とある港町に、とある赤髪の女性がいた。




「……ええっとーぉ……」

彼女は真っ白い帽子を片手で押え、ぐるぐると頭をひねらせていた。もう片方の手には、誰でもできる、家庭教師!〜秘訣はここにアリ〜 という教本を片手に持っている。誰でもできる。その言葉を胸にして、心もち不安のある手持ちをはたき、本屋で購入させてもらったものだ。大丈夫できる。私ならできる。問題ない、準備はバッチリ! そう思ったはずなのに、今はじんわり涙があふれてきそうだ。4人って、どういうこと……?


「あの、すみません、えっと……」
「サローネでございます」
「あ、サローネさん、こんにちは。私はアティと……じゃなくてですね」

ごほん、とアティと名乗った若い女性は咳をつく。サローネはピクリとも表情とその顔に刻まれた皺を動かすことなく、その年齢に反してしゃんと背を立たせながら、アティに向かい合った。「4人って、どういう、こと、ですか……?」 動揺しすぎて句読点をうちまくってしまった。【常に自信マンマンに! じゃないと子どもはついてこないヨ!】 誰でもできる家庭教師、第4節の言葉を思い出したけど、今はとりあえずそれは横に置いといて。

サローネはピクリと眉を動かした。ヒー! とアティは叫んで逃げ帰ってしまいそうになる。しょっぱなから失敗してしまった。けれども駄目だ。自分はもう、この家庭教師という道しか残っていないのだから。


***


アティはしがない田舎の出身だった。双子の弟と、家族同然の村人たちとつつがなく暮らしていたのだけれど彼女は召喚術を学びたかった。それを知った村人たちは自分たちで彼女の軍学校の費用を捻出し、快く彼女を送り出してくれた。

晴れて軍学校を卒業し、軍人となったものの、人生とは難儀なもので一回目の任務に失敗し、軍を辞職。村のみんなには申し訳なくて村に帰ることもできず、かといってどこか別の職につくこともできず。

手持ちの金も底をつき始め、いったいどうしたものか、としょんぼり気落ちしていた彼女に、天の配剤とばかりに二人の子どもの家庭教師の仕事が舞い降りたのだ。なんでも、来年、軍学校の入学規定年齢になる彼らのためによろしく頼む、ということらしい。これしかない。もうもうこれしかない。頑張ります、力の限りがんばらせていただきます。
幸いなことに、自分はお勉強は得意な方だ。きっとこれは転機なのだ。グッと拳を握り、本屋で啓発書も購入してさあ準備は整ったぞ! と気合十分に発進したのだけれど。

アティの目の前には、何故だか4人の子どもがいた。男の子が二人、女の子も二人。やんちゃな顔をする茶髪の男の子、キリリと真面目に、落ちついている仕草な緑帽子の男の子、髪の毛を高い位置でくくったおしとやか気な女の子と、赤い服で身を包んだ、どこか気の強そうな少女。


その4人の少年少女達は、既に船の中に乗り込んでおり、自分はその使用人であるサローネと対面している訳だけど、ぐるぐると頭は混乱しっぱなしだ。一気に増えちゃった。2倍。掛け算。×2。うわー。
そんなぐるぐる混乱アティーを無視しして、サローネは特に悪びれもない表情で、かつ毅然とした態度で口を開いた。

「アリーゼ様とナップ様のお二人が、無理にご主人様にお頼みしたのです」
「はい?」

ご主人様とはおそらく、アティにこの話を持ちかけてきた男性の事だろう。一応アティとは、ほんの少しであるが面識のある男性だ。

「ベルフラウ様とウィル様がここ、帝都ウルゴーラより離れ、軍学校のある工船都市パスティスへと向かわれる事を知ってしまったのですよ」
「ああ、はあ、なるほど……」
「坊ちゃん、お嬢様は見ての通り気むずかしい方々です。パスティスまでの船旅の間、4人とうち解ける事ができなくば、このお話はなかった事にさせていただきます」
「え、えええ!」

イキナリナニソレ!? サローネは親指と人差し指でグイッと円を作り、「こちらの方は初めの提示分の倍を支払わせていただきます。ご安心を」と頷いているが、安心できない。っていうかそういうやらしい仕草はやめた方がいいと思いますよサローネさん! というアティの心の声も無視して、さあさあさあ、とサローネはアティの背中を押して船の中に彼女を押し込む。

ボーボーボー、発船の汽笛が鳴り響く。アティの心情なんか無視して、どんどん話は進んでいく。どうしよう、とアティは手に持つ啓発書を握りしめて、それを心のお守りにするように唾をごくりと飲み込んだ。

とにかく、がんばらないといけないのだ。これが転機。最後の機会。人間働かなくちゃ生きていけない。(エイ、エイ、オー!) ぎゅむっと目を瞑って、アティは勢いよく一歩を踏み出した。とりあえず、一番初めに既に客室の中にいるであろう(未来の)自分の生徒たちの元に向かう。打ち解ける? よしよし頑張ってやろうじゃありませんか。(エイ、エイ、オー!)


彼女の気合は嵐と共に流されることになる訳だけど、まだ彼女は何も知らない。


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2011.07.04 執筆 10話