軍人その他いらっしゃい ぽつりと、一人の女の子が立っていた。 「こんにちは」 彼女は片目をぐるりと包帯で巻いていた。真っ白な包帯は、じわじわと赤く染まっていく。けれどもそんなことはおかまいなしだというように、彼女はにこっと笑った。怪我をしている。痛くないのだろうか。そう思うだけで、不思議と怖くはなかった。「……こんにちは」 私は窺うように声を出した。そのことに少しだけ驚いた。 彼女はただ、嬉しそうに笑っていた。「今日は、ちゃんとお話しようと思ったの」 話しかけてばっかりじゃ、つまらないもんね。 楽しい、つまらないの問題なのだろうか。なんじゃそりゃ、と困ったように頬をひっかいた。気のせいか、見えない左目がむずむずする。ふと、彼女の包帯が、またじわじわと赤に染まりだす。「それ、どうしたの?」 私は思わず声をかけていた。 彼女は、一体なんのことだろう、というように不思議気な顔をして、私が自身の左目をちょいちょい、と指さすと、納得したように頷く。「あのね、ひっかかれちゃったの」「……何に?」「まもの」 魔物だろうか。「召喚獣とか、はぐれじゃなくて?」 なんだか不思議な気がした。けれども、私が知らないだけで、そういう呼び方もあるのかもしれない。彼女は何も答えずに、ピンッと一本指を伸ばす。「忘れちゃ駄目なことを教えてあげる」 なんのこと? と瞬くと、彼女はただ嬉しそうに笑う。大人をからかっているのかもしれない。自分が大人といえる年齢なのかということはさておき。 「あなたは、この世界の住人じゃないんだよ」 「知ってるよ。名も無き世界から来たんでしょう」 「ううん、違う。名も無き世界でもないの。そうだな、この世界風にいうなら、忘れられた世界ってとこかな」 「何それ」 「この島、忘れられた島っていうんでしょう? それにあなたは、あの世界を忘れてるじゃない」 思わず肩に力を入れて、声をだそうとした。けれども少女は人差し指を一本口元に当てて、しー、とつぶやく。ちゃんと聞かなきゃ駄目なんだからね。「忘れちゃだめなことー。ふたつめっ」 彼女は口元に当てていた指先を、ふいと唇から離した。ぴんっと中指を立てて、二本の指をこっちに向ける。「あなたには、やることがある。その為にあなたはこの島へと来た」 眉を顰めた。 これはただの夢だ。そう思っているのに、どうにも彼女の言葉を真面目に受け取っている自分がいた。「……やることって?」「忘れられた世界に居た、あなたにしか出来ないこと」「全然、覚えがないんだけどな」「大丈夫。あなたはちゃんとその義務を果たしているよ。予想以上に」 それはまあ、よかったね。とおざなりに返事をすると、「全然わかってない顔してるー」と嬉しそうに手のひらをぱちぱち叩いていた。変わった子だなぁ、と思う。気づけば、今度は彼女は三本指を立てている。「さいご!」 「まちがえちゃだめだよ」 それだけ言って、くるりと彼女は私に背を向けた。てこてこてこ、と足を踏み出して消えていく。けれども少しだけ振り返った。「問題です。私は、誰でしょう?」 そんなこと、訊かれても困る。その考えが、顔に出てしまったかもしれない。「ヒントをあげよっかなー」 と楽しげに口笛を吹いて、ぱたぱた、と手のひらを振った。 「私は、あなただよ」 *** パチッと目を開けた。 相変わらず、夢見がよくなかった。外を確認してみると、やはり朝日が昇るには早い時間だ。こんな早くに起きてしまうと、なんだか損をしてしまったような気になる。(……もう一回寝よう) 思った。そのまま寝てしまえば、お腹の中でむにゃむにゃする気持ちもどこかに行ってしまうに違いない。 布の中に草を詰め込んだお手製の枕を抱えるようにして、「おやすみなさい」と誰に聞かせる訳でもなく呟いた。だというのに、「おはようございます」と私が言いたい言葉と反対側に位置する言葉が、外から聞こえる。「…………ええー」 誰だよう、とわかっているくせに、私はわからないふりをして、ごそごそローブを着こみながら、寝ぼけた頭を誤魔化すように、テントの布を持ち上げた。ぼんやりとランプの灯りがこちらに漏れていて、かちゃん、と金属が合わさる音がする。 ランプを持ちながら、ひょい、と顔をのぞかせた青年がそこにいた。「よかった、起きててくれた」「イスラ……」 夜の散歩はもうする必要がないんじゃなかったの。 人間、やっぱり自由になる時間も必要だよねぇ、と飄々とうそぶく青年を見つめながら、私は不機嫌に頬杖をついた。彼は丸太の上に座っていて、手持ち無沙汰にかちゃかちゃと手元のランプをいじっている。その隣には、相変わらずレックスさんが、困ったような顔をして座っていた。なんだか彼に会うのは久しぶりな気がする。イスラはラトリクスで会うのに、何故だか彼に会うことはない。別の場所に住んでいるのか、それともたまたま会わなかっただけかのどっちだろう思ったけれど、別にそこまで気になっている訳ではないので、何もいわなかった。 「お休みの所、申し訳なかったね」、と彼は笑っているけれど、本当にそう思っているのならば、さっさと用事でも何でも終わらせて帰ってほしいものだ。「……それで、何の用?」 こんな時間にやって来たのだから、さぞ重要なことだろう。私は顔をうつむかせ、目を覚まさせようとぐりぐりと眉間を指でつまんだ。「えーっと……」 イスラの言葉の歯切れは悪い。レックスさんは、なにも言わない。 かちゃかちゃイスラがランプをいじる音だけ聞こえた。彼がガラスをさわるたびに、影の形が変わって、まるでおばけのように、ぼんやりとした光がうごく。「……あのさ、元気?」「ええ?」 何を言っているんだろう。と私はもう一回眉間をつまむ。なんていうか、「眠い」「いや、それは置いといてさー」 置いといてって言われても。 私は腕を組んで、ふんぞり返った。「だからイスラ、用事は?」 彼はまた口ごもった。レックスさんは、やっぱり何も言わないで、ふと私を見ると、にこりと笑った。思わず、にこりと笑い返して、何故か負けてしまったような気分になった。「きみ、病人なんでしょう。本当に、さっさと帰りなよ」 不機嫌そうな声を出してみたが、イスラはうん、と生返事をした。そして、ふと顔を上げた。 イスラは暫く空を見つめた。私もなんとなく、上を見上げてた。フードがこぼれ落ちそうになってしまった。たくさんの光る砂粒がばらまかれたような空の中に、ぽかりと丸い月ばかりが目にいく。「そうだ、。応援してくれよ」 今思いついた、と言う風に、彼は見上げたまま呟いた。私は思わず片眉を動かしたのだけれど、それが彼に伝わる訳がない。「何を?」「やらなければいけないこと」 言葉によどみはなかった。何故かイスラは笑っていた。目を大きく見開き、口ばかり横に開いて笑っていた。 彼のその表情を見ると、何か胸の中がざわついた。 おそらく、私はひどく難しげな顔をしていたのだと思う。そのままこちらに目を合わせることのない彼を見つめ、息をついた。すると同時に、イスラも、「そうだね」と言った。何に答えたのかはよく分からない。彼は立ち上がった。レックスさんはイスラを支えている。 「じゃあ、が言うように、病人はさっさと戻ることにするかな」 少しだけお調子者ぶった声を出して、今度こそいつもの風に笑った。そしてすぐさま私に背を向けた。一瞬、夢の中の女の子が、背を向けて去っていくさまを思い出した。彼女のように、イスラも振り返ると思った。けれども彼は振り返らなかった。その代わりとばかりに、レックスさんがちらりとこちらを見た。ばいばい、と片手を振っている。振り返した。 レックスさんとイスラの会話する声が聞こえる。「大丈夫、一人で戻れる」 そうイスラはレックスさんに言っていた。レックスさんは、本当か、という風に彼に尋ねていた。そのとき、ふと私は気づいた。一人で戻れる。帰るではない。戻るだけだ。 ただ言葉の使い方が違うだけ。そうわかっているのに、そうではない気もした。私はレックスさんと別れて歩こうとする、彼の小さな背中を見た。すると勝手に、声が出ていた。「イスラ」 大して大きな声を出した訳じゃない。けれどもイスラは振り返った。「がんばれ」 彼に聞こえたかどうかは分からない。イスラは少しだけ笑って、ランプを持つ手を上に掲げた。そしてまた背中を向けた。レックスさんは、暫くイスラの後ろ姿を見つめて、幾度か足を踏み出した後、やっぱりと言う風に彼を追った。 その途中、彼は一瞬だけ振り向いた。そして優しい顔つきで、ありがとう。と呟いたような気がした。唐突に、私は恥ずかしくなった。そして彼の笑い顔が、何かを思い出しそうな気がしたのだ。 あっ、と顔を上げたときには、もう誰もいなくなっていた。 確認することはできない。けれども、ああそうだ。と気づいた。寧ろ、なんで今まで気づかなかったんだろう。「レックスさんとアティさんって、すごく似てる」 笑い方が似てる、と思った。雰囲気が似ている。けれどもそれ以上に、見かけがそっくりだ。まるで兄妹か何かみたいな。(……兄妹?) カチリ、と胸の奥で、何かがひっかかる音がした。 見覚えのない卒業アルバム。家には使われていない部屋が一つ。使うことのない食器セットもまた一つ。見覚えのない靴も数足。黒いランドセルには、油性のマジックで、かすれた名前が書かれていた。 「……あ」 そうか、と気づけば簡単な話だった。あっちが分かる訳がない。けれども、私がわからなかったのは、少しだけ恥ずかしい話だ。 消えてしまったその人は、同じようにこっちの世界にやって来ていた。 とても奇妙な、縁だった。 BACK TOP NEXT 2007.05.16~20 執筆 90~91話 2012.01.28 修正 52話 |