阿羅漢になれぬ者 「馬鹿だね、は」 彼は、いつもそう呟く。明るいような、寂しがっているような声音で、静かに呟く。明るく、白く、ただぼんやりと遠くが光る無機質な空間に、は立つ。 ちょいと私へと手を伸ばし、私はそれを、ぐいと掴んだ。不思議と、身体は痛まずぽきぽきと折れた指のまま、真っ直ぐにひっぱられ、道を歩く。 白の道に、赤は似合わず、零れた血はどこかへと消え去った。 「は、リィンバウムに、オルドレイクとの誓約があったからこそ、留まれていたんだ。それを壊しちゃえば、まだどこかへと行ってしまう」 「うん、知ってる」 「だから、界の意志にが有益だと、見せつけなくちゃいけなかったんだ」 「でも、いなくなったよ、彼は」 「……うん。でも、多分、駄目だろうなぁ…………」 道を歩く。 でも、と彼は明るく声を上げた。 「これで、よかったかもしんないね」 「うん」 でも、後悔はしている。 「何処に行くんだろうね」と彼に聞けば、俺にも分からないなぁ、とどこか思わせぶりなように彼は笑った。ひっぱられた腕はそのままで、白い、彼方へと、小さな丸い粒が見えた。どんどんと大きくなるそれは、しっかりと人間の形を型どり、出来上がっていくと思いきや、ただ遠くの人間が、近づいてくるだけだった。 見覚えのある、赤いチャイナ服に、ちょこんと丸めた髪の束。その間から龍のような角が覗き、頬はピンクへと染まっている。その隣へと、黒いマフラーをはためかせ、どこかおぼろげな足取りで歩く、暗殺者の姿。 「あらぁ」 酒にでもよったように舌を巻き、きゅいと小さなメガネへと彼女は手に掛けた。「ちゃんじゃないのぉ」 その声に、はきょとんと目を見開き、「違う、は俺」 修飾語の少ない言葉で、メイメイさんは、ふんふんと頷き、「あらホントのくん、こんにちはぁ」 何故、彼女がいるんだろう。同じように、ヘイゼルも目を細め「……何故?」と抑揚のない声で呟く。さぁ、と私も首を傾げた。 「私たち、お互いに新しい場所へと行くのよぉ。きみも、私も、彼女も、みいんな」 通り抜ける道は、みいんなおんなじ。 するりと占い師は、私たちの隣を通り抜け、ヘイゼルもその後に続く。「また会いましょう?」 パタパタと手を振られ、私も、も振り返した。ヘイゼルも、小さく頷く。 ただ何故だか彼女は小さくすぼんでいるように見え、なんとなく、呼び止めた。 「ヘイゼル」 ほんの少しの間を開け、「なに?」と首を振り向く。はたり、とマフラーが同じように動いた。 「頑張って」 うん、と声が聞こえる。僅かに口元へと浮かんだ笑みに、どきりとした。 綺麗だな、と思った。「くんと、ちゃん」 通りの良い、メイメイの声が聞こえる。「まだ、終わりじゃないわよ」 その瞬間、ぐにゃりと空間が揺れ、その白に混じるのではないかと思われるような、見事な白髪と青く透き通る肌の青年が、ぬっと背景に割り込んだ。 見覚えがある彼は、あの時の彼と、少々違う。 「あなたが、ハイネル?」 「うん、そう、シャルトスの、いいや今は、ウィスタリアスの、ハイネル」 聞き慣れない単語に、目をしばしばとさせると、ふいに彼は微笑んだ。 ヘイゼルの儚い微笑みと同じく、どこか脆さを感じさせるものの、やはり綺麗だ。「うん、なに」 が聞く。 「今だけ、少しの間、界の意志の代理としてやってきたんだ」 もったいぶったように、彼は右の手をゆっくりと差し出し、ゆらりと首を傾ける。パチリと閉じたウィンクに、驚いて身体を後ろへと体重を掛けた。 ぱくりと彼が口を開くタイミングと同じく、ただなんとなく、ごくりと唾を飲み込む。ぎゅ、との手のひらを掴んだ。 「さん。リィンバウムの、管理人、しませんか?」 ぷらぴらと彼は手のひらを動かし、握手なのだろうか、きょとんとした私に困ったように肩をすくめ、手を引いた。「………え」 私が困惑する隣で、はどこか面白げに笑っていた。何かを知っている。そう思うのに、問い詰める前に、ハイネルが続きの言葉を続く。 「管理人。界の意志は、剣と同じ。世界の全てを知っている。けれども、何も出来ない。だからちょっとした、代理人をしませんか? 代わりに、世界で少しだけ、君を優遇してあげる。これは、そこにいるくんの提案なんだけど」 ? と腕をひっぱると、彼はどこか飄々とした顔のまま、「念のためだよ」とひらひら片手を振った。「俺だって、意味もなく、の前から消えてたんじゃないんだ。はずっと、テストされてたって訳さ」 勝手に自分が知らないところで、そんな風に扱われていたとなれば、なんだか気分がよくない話だ。それに、世界で優遇するだなんて、抽象的すぎてよくわからない。 ハイネルは、そうだろうと言う風に頷いた。そして人差し指をぴん、と一本だけ伸ばす。「君をこの世界へと、つながりを深くしてあげるよ。いつか、もしかしたら、名も無き世界へも、還れるかもしれない」 ただふんわりと優しく笑う彼の表情と、ぴたりと固まったの顔を見比べ、それは、もうどこかへ、行かなくても済むという事なんだろうかと甘い考えが頭を過ぎった。 ごくりと唾を飲み込み、足下を見詰める。 ただ白い地面が続くだけで、面白みも、なにもない。 「……、お断りします」 そして彼へと答えた。 何故? と首を傾げるハイネルに、ぐ、と唇を噛みしめる。「誰かの、役に立とうとするなんて、まっぴらです、ましてや」 物事が決まっていると、今まで自分が選び、行動してきた事を間違っているとか、正しいとか、そんな評価を下される事が、とてもとても、嫌だった。 そんな事は、ずっとずっと後になってから、ついてくるものだ。今、この場で、間違いをおそれて道を踏み損ねる事なんてしたくはない。だから、「嫌です。人の生き死にを、勝手に決められる事は、嫌です」 すぱりと、目の前の彼を精一杯睨みあげながら、吐き捨てた。 けれどもハイネルはくつくつと拳を口元へと当てながら押し殺すように笑い、肩を震わせるだけだ。「なるほど、それじゃあ条件をもう一つ増やしてあげよう」 どこか彼は面白げでもあった。 「カズを、名も無き世界に還してやるというのはどうだい?」 「え?」 その突拍子も無い言葉に、私は思いっきり瞬いた。「え、あ、あの、でも」「うん?」「いきなり、そんな」 カズさんの名前が出てくるだなんて、おかしい。けれどもハイネルは首を振った。「おかしくなんてないさ。君とカズには一つの縁がある。その縁があれば、ちょっとの“おまけ”くらいなら、なんてこともない」 それでも、どうだろう。「その、それなら、カズさん以外の、島のみんなを元の世界に戻すことは、できないんですか」 彼らは、あの島を気に入っているのだと思う。けれども、やはり元の世界に未練もあるに違いない。ハイネルは悲しげに首を振った。「きみは名も無き世界から来た。だったら、同じ世界の人間でないと、還すことはできないんだ」だったら。 「だったら、ゲンジさんは……!」 彼だって、同じ世界だ。元のという意味ではなく、私が二番目にやって来た世界と同じだ。ハイネルは、これも首を振った。「彼は、そもそも戻る意思がないからね。戻すことができるのは、カズ一人のみだ。決めることは、今しかできない」 いきなりそんなことを言われても困る。カズさんは、カズさんの人生がある。例え元の世界に戻りたいと心の底で思っていても、この島と、日本とでは時間の流れが違う。前に彼が言っていたではないか。こんな姿で帰ることなんてできないと。 私一人で決められることではない。けれど、これを逃せば、もしかしたら、彼は一生帰ることができないかもしれない。どうすればいいかわからなかった。だから私は、何を言うこともできなかった。沈黙はただの否定だ。ハイネルは、「わかった」と呟いた。自分は意気地なしだ。そう思う。何も出来なかった。けれどもハイネルは、どこかを見上げるようにして、くすくすと吹き出した。「初めて知った」 何を言っているんだろう。私がパチパチと瞬くと、ハイネルはもう一度くすくすと笑って、「僕は、初めて知ったよ、驚いた」 「えっと……」 「エルゴっていうのは、存外、勝手なものらしいね」 心の底で望んでいることだけでも、答えとして十分なんだってさ。 すとん、と落っこちるような感覚で、ぐるりと視界が反転した。ぼんやりと水の中に落っこちたときのように、音が聞こえ、ごぽりと空気の泡が口から漏れる。ばっと飲み込んだ水は、甘い。開いた瞳の網膜へと、ゆらゆらと繋がった、水の膜が映し込まれる。「 映り込む光へと手を伸ばし、落ちる、と目を瞑る。けれども誰かにひっぱられた。こっちへと引き寄せられた。冷たく、柔らかい手のひらへと力を任せ、泥のように重い抵抗が、身体を突き抜けた。 そんな中で、幾十の、奇妙な声が聞こえた。 カズは、名も無き世界へ。 は、管理人となれ。 誓約は、終了した BACK TOP NEXT 2008.10.19 |