大家と店子と初変化






「…………あー」

頭を抱えた。口元を寄せて、こつこつ、と額を叩く。ため息をついた。困ったなあ、と俺は首を傾げた。どうにも、管理人さんに話しかけづらくなっていた自分がいた。

ガツッと机に頭をぶつけてみる。低い机の上に散らばったネジを片手でいじって、また軽いため息をついた。もう少しで、管理人さんが帰ってくる。そう思うとうれしくなる。俺に尻尾が生えていれば、ぱたぱた、と揺れていたかもしれない。けれどもまた妙に虚しくなった。嬉しいのに、困る。心底困る。

(だから、ここに来た意味がないじゃないか)

治せるもんなら、とっくの昔に治している。けれどもダメだった。肉親でさえもダメなのだ。ガイラルディア、と名を呼んで、悲しげに瞳を伏せる姉を思い出した。ずるずる、と机から顔を上げて、頬杖をする。なんで俺は、こんなにダメなんだろう。

すぐそこに、好きな女の子がいる。同じ屋根の下にいて、ついでにその子の手料理はうまい。他から見れば、幸せいっぱいな状況であるはずなのに、長くため息をつくことしかできない。(出て行く) 初めはそう考えていた。けれども結局、ずるずると居座っている。(嬉しい) そうだ、嬉しくはある。(けれども困る) 結局、最後はそこに行き着くのだ。




   ***



さて、買い出しに行こうかなあ、と私は制服をぬいで、お財布を片手にドアを開けた。とんとんとん、と廊下を歩く音が聞こえる。ガイさんだ、とすぐに分かった。シンクくんの足元はもう少し軽いし、ディストさんは、へたへたとしている。「あ、ガイさん。お買い物に出かけてきますね、お夕飯はもうちょっと待ってください」 
そう振り返りながら声をかけた。相変わらず、最初よりもいくらか遠い距離で、彼はピタリと止まってこっちを見た。「ああ、うん、お帰り」 今から出かけるのに、お帰りってちょっと変じゃないかな? と思ったのだけれど、学校から帰ってきて、お帰り、という意味ならば、正しいかもしれない。


靴を履いて、よいせと立ち上がり扉を開けた。もう一度振り返ると、妙に気まず気にガイさんが立っていて、私はきょとんと首を傾げた。
なんとなく、一歩近づいてみた。
そしたら、一歩後ずさられた。
「…………ガイさん?」
「ん、あ、いや」

この頃ガイさんは、どうにも言葉を言いづらそうにする。「お豆腐は買ってきませんよ?」「あ、本当かい? ……いや別に、あまり好きではないと言うだけで、うん、まあ、全然問題は」「そうですか? じゃあ今日は冷奴にしますね」「ん、うん」 わきわき、とガイさんは手のひらを動かしている。

ガイさんは、妙に自分の手を見つめるように唇をぎゅっと噛み締めて、ごくんと唾を飲み込んだ。よいしょ、とこっちに一歩近づく。ぶるぶる、と彼の体が震えた。そして、また一歩。疲れたようなため息をついて、こっちを見た。

私はきょとんとして彼を見つめた。「買い物、手伝おうか?」 多分精一杯の声かけだった。





最初よりも、いくらか遠くなってしまった距離で、相変わらず変な距離感で声を飛ばした。ときどき決死したような顔をして、ひょい、と足を一歩近づけて、けれどもむりむり、と首を振りながら去っていくを繰り返しているガイさんは、傍から見れば面白いのだけれど、本人からしてみれば、きっと必死なんだろう。

つまりはガイさんは頑張っていた。ぼたぼた、と首元から汗を流して、必死に距離を近づけようとしている。「ガイさん?」「うわ、ちょ、管理人さん、動かないでくれ、動いちゃだめだ!」「ええー……」 ガイさんが片手を振った。私は呆れたようにため息をついて、手の中からビニール袋を下げていた。

「ガイさーん、早くお家に帰りたいんですがー」
「待った、俺が持つ、待ってくれ、ちょっと待ってくれ」
「…………いつまで待ってたらいいんですかー」

腕の中でゆさゆさと袋を揺らして、長い溜息をついた。

まるで獲物を狙うみたいに、「うー、うー」と袋を見て歯ぎしりしているガイさんは、どうしても直接受け取りたいらしい。別に、いつもみたいに、机の上に置いて、私が離れて、ガイさんが受け取ってでいいんじゃないかなあ、と思うのだけれど、彼の中の何かがそれを許さないらしい。

腕がしびれるなあ、とため息をつきたいのだけれど、そういう訳にはいかない。彼は頑張っているのだ。「管理人さん、ちょっと」「はい」「応援してくれないか」「ええー」 どんなですか、と顔を歪めた。「…………ガイさん、がんばれー」「もうちょっと、本気で」 力の限り本気なのに。


「ガイさん、がんばれー。ふれふれー」
「うーん、うーん、うーん」

えいや、とガイさんが手を伸ばした。けれども直前で、ぶるぶると腕が止まっていた。「あー……」とため息を漏らしながら、ガイさんはへたへたとスーパーのテーブルに肘をついて、しょんぼりと頭を落としている。周りの奥さん方からちらちらと視線が投げかけられる。心持ち興味深げな瞳が恥ずかしくなって、私は肩を小さくさせた。「ほら、ガイさん、帰りますよ」「ん、いや、もうちょっと」「ダメです」

はいはい、とそのままスーパーの袋を持って、すたすたと自動ドアをくぐった。「あ、ちょ、管理人さん、俺が持つって」「そんなんじゃ日が暮れちゃいます」 育ち盛りのシンクくんはともかく、放置をしていたら、ディストさんが骨と皮になりかねない。

管理人さーん、と子犬みたいにこっちを呼ぶ彼に、はー、と肩を落とした。「ガイさん、この頃ちょっと変ですね」 妙に距離を置くと思ったら、近づいたり。お手伝いしたがったり。「やっぱり分かるか」 ガイさんは困ったように首を傾げた。「ちょっと、頑張ってみようかなあ、と思ったんだ」

なんだか今更だ。でもまあ、ガイさんなりに、色々あるんだろう。私はそのまま無視してテクテクと帰宅した。後ろの方では、「管理人さん、だから、俺が持つから、貸してくれないか?」「別に、そんな重くもないですし」「いや、そういう問題じゃなくって」

うーん、うーん、と唸るような声が聞こえる。「管理人さん、管理人さーん、管理人さん」「……そんなに呼ばないでください。恥ずかしいなあ」 大学生と高校生が、一体どんな関係だと思われそうだ。文字通りなのだけれども。

振り返ると、ガイさんは、ちょっと考える風に顎下に手のひらを置いて、うん、と頷いた。そしてこっちを見上げた。「」 私はパチパチ、と瞬きをした。言われた言葉の意味を、暫くの間考えて、一つ認識したとき、ぼぶっと唐突に顔が破裂した。スーパーの袋が、ぐしゃ、と地面に落っこちた。「あ」とガイさんが袋の中で崩れてしまった豆腐に瞬く。そうした後、私の顔を見て、口元を押さえながら、どこか気まずげに顔を逸らした。

それから家までの距離、私たちは無言のままで帰宅した。
崩れた豆腐は冷奴ではなく、麻婆豆腐に変わった。辛いものが苦手なシンクくんが、スプーンを握りしめて、こっちに苦情を叫んでいた。





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2012/06/21
1000のお題【601 生粋の】フェミニスト……