大家と店子と夜7時
そう呼ばれた。「あー、うー、うーん」と頭をこりこりとひっかいて、妙にどくどくとお腹のちょっと上辺りが叫んでいる。落っこちた袋をあわてて拾い直して、「管理人さん、大丈夫か?」とガイさんが言い直したとき、ちょっとだけ残念になっている自分がいた。いやいやいや、と首を振る。なんだか変なことを考えた。
「でも、でも、管理人代理でも、なんでもいいですよ」と言ったのは私なのに、なんで今更、あ、名前呼びの方がいいなあ、なんて思うのだ。ちょっとおかしい。
かりかりかり、と首元をひっかいた。なんであんなに、真っ赤になって照れてしまったんだろう。うーん、うーん、うーん、と考えすぎて、麻婆豆腐が辛くなった。シンクくんに怒られた。おいしいよ、とガイさんは笑っていたけれども、ディストさんはぽっくりと魂をとばしていたし、食卓を預かる身として、どう考えたってダメだった。まかせてください。そう胸を張っていたはずなのに、なんてこった。
うううん、と居間の食卓に顔をつける。涼しい。ガイさんはアルバイトでちょっと暇だ。ずるずる、と顔をあげる。テーブルに肘をついた。行儀が悪い。そう思って座り直した。「さあん……」 幽鬼のような声が聞こえる。
「お腹が減ったのですが、お夕飯は……」
「まだ3時です、ディストさん」
「しかし、このディスト式時計は先程からアラームが鳴り続けて」
「おやつの時間と表示されていますが」
あっ、本当ですね、おやつはまだですか、さん、とよっこいせと座りながら言い直す店子の平和な顔を見ながら、「ディストさんディストさん、ちょっとご相談が」と私はお互いひょいと向い合って座り直した。
「え、なんですか。冷蔵庫の中を勝手にあさってはいけませんか」
「冷蔵庫よりも戸棚にカステラが入っています……ではなく」
このごろ、ちょっとおかしいんです。とぎゅっと瞳を瞑った。「おかしいですと?」 ハッとしたように、彼は真剣な声を出す。「あの、このごろ、妙にガイさんと話せないといいますか」「そうなのですか?」「あ、はい。いや、喧嘩をしている、とかそういう訳ではなくて、その、名前を……」「名前?」 顔を上げた。
「下の名前を呼ばれて、なんだか、妙に顔が真っ赤になってしまって」
どうしたらいいでしょうか、と吐き出してみた。どうしたらいいって、本当にどうしたらいいんだろう。
、ディストさんは難しい顔をしたまま、メガネをちゃきちゃきと上げ下げしている。考えこんでる顔だ。そんな顔を見て、本当に相談相手がこの人でよかったのだろうか、という不安が心の奥底をよぎったのだけれど、いやいや、彼だって三十路を超えた立派な大人なのだ。何かピシッとバシッと私の目を覚まさせてくれるような意見を言ってくれるに違いない。
ぐう、ぐう、ぐう、とディストさんのお腹から、ささやかな悲鳴が聞こえた。私はじっと彼を見つめた。ディストさんは、すっと瞳を細めた。「分かりました」 ハッとした。「わかりました、さん」
「おそらく、あなたは風邪をひいています」
いや、それはない。
***
ないない、それはない。
自分だって、わかっているのだ。「大変ですさん、このディストンガーZを飲んですっぽりすっぱりお布団に入って養生しなければいけませんよ!」と金切り声を出すディストさんを「大丈夫ですから!」と引き離し、うわー、と丁度ふすまを開けて廊下に出ようとしていたシンクくんの肩をひっつかみ、ぐるんと彼の部屋に飛び込んだ。シンクくんは迷惑気に眉をよせて、「で、なんな訳?」と勉強机に設置された椅子にて、女王様のように足を組んでこっちを見下ろしている。泣ける。
「普通に好きなんでしょ。見てればわかるじゃん」
「うーわー、やめてー、やめてー、中学生が諭さないでー!」
「ちょっとうるさいんだけど」
うわあー、と両耳に手のひらをあてて、ぶんぶんと首を振った。分かってはいた。そりゃあ、ぶっちゃけわかってた。あんまりにもなディストさんの返答に、「それはないですから」と自分で突っ込んでしまったせいで、言い訳の道も閉ざされた。
「なんなんだよ、別にいいじゃん。意味わかんないな」
「別にいいって何が? よくないよ、大家さんだよ、私、みんなのお母さんだよ? お母さんが子どもに邪なきもちを持ってどうするのさ!」
「あんたは別に僕の母親でもなんでもないじゃん」
「今それを言わないでよー!」
フォローのフォの字も知らない男子、シンクである。
「そりゃあ、本当のお母さんじゃないけどさあ……」 うーん、と私は口元を尖らした。
かっこいい男の人が家にやって来ました。優しいです。紳士です。ちょっと変ですが、いい人です。そしてかっこいいです。二度言った。「かっこいいんだよ!」 だからなんだよ、という風にシンクくんがこっちを見た。「やらしいよ!」 意味がわからん、という顔をした。
「だ、だから、ほら、かっこいい人が近くにいて、好きになっちゃうとか、本当にダメだよ、こう、不純ですよ! 一つ屋根の下で好きになっちゃうなんて、ガイさんに申し訳がたたないよー!」
あー、ごめんなさーい! と今は家にいないガイさんにへこへこと心の中で頭を下げた。気のせいだか、いいよいいよ、気にしないでくれよ、とはたはたと微笑みながら手のひらを振るガイさんの姿がお空に浮かんだのだけれども、多分気のせいである。
「こんな情けない管理人でごめんねぇ……」と凹みながらごろんと畳の上で転がった。それに、あっちは女性恐怖症だというのに、これ以上負担を増やしてどうする。気分はパワハラを強制する上司である。バシッとシンクくんに足で蹴られた。「そんなのどうでもいいんだけど、今日は辛いのはやめろ」「はい……」 基本的に、シンクくんは私のことをご飯としてしか認識していない。
ふらふら、と立ち上がった。「いつもどおり、すればいいだろ、めんどくさいな」「ああ、そっかあ、シンクくん、賢いなあ……掛け算ときどき間違えるけど……あいたっ! 蹴った!?」「晩飯!」「あいた! また蹴った!」
わかった、わかった、わかりましたー! と慌ててふすまに手をかける私の背後で、「めんどくさいんだよ、あんたもアイツも」「……ディストさん?」「違う!」 バシッと蹴られた。さすがにそろそろ勘弁して欲しい。
今度こそ辛くないご飯を作って、みんなでもぐもぐと食べているとき、「さん、辛いんでしたら、片付けは私が変わりましょうか」とひょいっとスプーンをあげるディストさんを見て、ガイさんがきょとんと瞬いた。
「えっ、管理人さん、どうしたんだ」
「あ、いや」
「さんは風邪をひいていて」
「いや違いますから」
「ガイ、あなたに呼ばれて顔が赤く」
「だからディストさん違いますから!」
しかし、と言葉を続けようとするディストさんの口を思いっきりに塞いで、私はガイさんに愛想笑いを浮かべた。ガイさんはきょとんとしたまま、首を傾げた。「よくわからないけど、片付けは俺がしとくよ」「あ、もう、ホントに。ガイさんには、いつも手伝ってもらってますし! お手伝いはシンクくんに」「ごちそうさま」「あっ、こらー!」
お箸を置いて、ひょいひょい、と消えて行こうとするシンクくんの背中に叫ぶと、くるっぽー、と鳩時計が7回、元気に音を鳴らしていた。くるっぽー。
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1000のお題【82 口封じ】
2012/06/22