少女と回覧板


「回覧板頼めないかしら」

かちゃかちゃと塔子が茶碗を洗う音に、夏目は所在なさげにイスへと座り、きょときょとと視線を泳がせている最中だった。彼女は「あら忘れてた」と、ふいと夏目へと振りかえり、悪いんだけれどもタカシくん、と前置きを乗せた上で、上記の台詞を述べた。

夏目は二つ返事で了解し、ちょこんと玄関に立てかけられた回覧板へと腰をかがめながら手を伸ばした。特に何を考えることもなく、古びたクリップボードにはさまれた紙をペラペラとめくり、町内の清掃区域やらなんやらと書かれた内容を読み込む。あまり夏目には縁がない内容だ。

改めて、一番上の紙を見直せば、藤原と手書きで書かれた文字に、くるりとボールペンで丸がつけられていた。その隣に並べられたという文字に、夏目は指を伸ばし、「あの、」と台所の彼女へと振りかえるように確認すると、塔子は日の落ちた廊下へと顔を覗かせ、「ごめんなさい、お向かいよ、よろしく頼むわね」と少々声を張り上げる。

(………向い)

つまりは、と夏目の頭の中に、一人の少女が思い描く。白いワンピースに麦わら帽子。、と。

「夏目、これから見に行くか」と、そう呟いた猫を思い出す。結局流れてしまっただけの話なのだが、特になんの予兆もなく、話は進むものだ、となんとなく夏目はそう考えた。
ちなみにその猫は、昨夜から泥酔しているようだ。




ぽちりとインターホンを押した。
の家は、訪問者にも音が聞こえるものではないらしい。ぽちり。そう押しただけの感触に、大丈夫だろうか、と夏目は人差し指で宙にぐるりと孤を描き、ぴたりと止めた。とっくの昔に日は落ちているのだが、の家に明かりはついていない。

夏目は少々体をずらすように彼女の家のガレージを覗いた。一台の黒い乗用車が止まっている姿を何度か見かけたことがある気がするのだが、今はぽかりと間が空き、おざなりに鉢へと植えられた観葉植物がさわさわと揺れるだけで少々空間が寂しくみえる。

出かけているのだろうか、と夏目は考え、念のためにともう一度インターホンを鳴らそうとしたそのときだ。

カラカラと静かな音を立てながら戸が開き、ちょこんと小さなサイズの女の子が、顔だけを覗かせている。だ。僅かに開けられたドアからは明かりが照らされることもなく、街頭の小さなライトひとつが少女の顔を映し出した。


夏目は間が抜けたように、彼女を見つめた。しばらくの沈黙の後、少女がもそもそと家の中へと戻るように動くものだから「あ、ちょっと待って」と慌てたように夏目は回覧板を取り出す。

門から玄関までは少々の距離がある。どうしたものか、と僅かに逡巡したあと、ぎい、と門を開け、ゆっくりと夏目は中へと足を踏み出し、石畳の上を歩く。いつも以上にのんびりとしたスピードで近づきながら、「えーと」 もう一回、彼女の目の前へと回覧板を取り出した。

「俺、向いの藤原なんだけれど、その、お母さんいるかな」

覗いた瞳は、くるりと回り、は小さく首を振った。「いない」端的に答えられた問に、夏目は瞬きを繰り返した。少々返事をするタイミングがずれてしまったことを誤魔化すように彼はごくりと唾を飲み込み、「そう、これ、回覧板なんだけれど、あとでお家の人に渡しておいてね」

目線を同じ高さにするように、夏目は腰をかがめ、回覧板を渡す。大丈夫なのだろうか、と考えたとき、はこくりとは首を縦に振り、それを受け取った。彼女の手には少し大きなサイズだ。


夏目は「それじゃあ」といいながら、足をずりさげ、後ずさるように動く。も、隙間から顔を覗かせたまま、ゆっくりとしたスピードで、カラカラと戸を閉めた。
やがてぴたりと閉ざされた扉を見つめ、夏目は小さく息を吐きだし、門を閉めながら、藤原宅へと帰宅した。「お帰りなさいタカシくん、ありがとうね」と微笑む塔子の顔に頬を緩ませながら、夏目は先ほどの少女のことを思い返した。



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2009/01/20
1000のお題 【113 開かずの扉】