怪少女と狂言師
所詮は子どもの足だ。その上あんな大きなデブ猫(と、言えば怒られるのだろうが)を抱きしめている。追いつくことは至極簡単だった。けれども夏目は、彼女に何を言えばいいのか、よくわからなかった。
そもそも自分は口が上手い方ではない。くるくると回るように会話をするクラスメートたちが羨ましく思うことも、ほんの時々、ある。
そんな自分に、何を言えばいいというんだろう。
彼女に足に合わせるように、ほんの少しスピードを落としていた夏目なのだけれど、の足がもつれるように動きだしたとき、ぐんと勢いをあげた。たんぼの中へと、ニャンコ先生と一緒に顔をつきこませる寸前に、夏目はその白い腕を伸ばし、引き揚げた。小さな体は、簡単に腕の中へとすっぽり収まった。
「危ないよ、ちゃん」
そんな当たり前の言葉を吐きそれ以上言葉が通じないことに、自分自身、少し愕然としたのだ。はただ、震えるように小さくなるだけで、道の端へと、団子のようにもつれた二人と一匹は、どうしたものかとやはり困ったような表情に、ぺたりと腰を落ち着けた。
二人分の体温は、ほんの少し熱く、じとりと汗ばむ。
(………あまり、いわない方がいいと、おれは言った)
多分、それで終わりにしてよかったはずなのだ。言わない方がいいと。嘘は、つかない方がいいのだと。夏目は昔、嘘つきというあだ名で呼ばれていた。嬉しくもなんともない、不本意で、ただ屈辱感のみが漂うその言葉は、あまり気分がよくなるものではない。事実、同級生と、取っ組み合いのけんかをしたことだって、夏目にはある。
けれどもは、本物のうそつきだった、それだけだ。
夏目には、嘘つきの気持ちは分からない。言われる気持ちは分かる。けれどもその本人の気持ちは分かることさえない。何故、嘘をつくのに、嘘つきだといわれれば、彼女は怒るのだろうか。何故、嘘を吐き続けるのだろうか。
夏目には、まったくもって理解ができないことだった。ただ真実のみをいえば、それだけでいいのではないか。
何故関わる。
二人分の体重に押しつぶされたニャンコ先生が、苦しそうにあげる言葉が、それを思い出された。おそらく夏目はに対して、憤慨してもおかしくなかった。けれども夏目は、寧ろ彼女を好ましいと感じた。何故だろうか。
「ちゃん」
掛けた声は、それ以上続くことはなかった。はやはり肩を震わせるだけで、ぶるぶると首を横へと振る。せめて、嘘つきではないと主張してくれれば、何とも気持ちは丸まったものなのに、と夏目はため息を吐いた。その息でさえも、彼女はびくりと震えた。
まったくもってわからない、わからないことだらけだと。分かればいいのに。彼女の気持ちが分かればいいのに。ただほんの少し、それを考えたのだ。
ふいと頭へと落ちた大きな影は、いつぞやの怪だ。
ぎょろりと大きな目ひとつに、「名前を返していただきたい」 今はだめだと首を横へ振り、怪はほんの少し悲しそうに、「返していただけると噂に聞きました。何故私は何度お伺いしても返していただけぬのでしょうか、何か粗相でもしてしまったのでしょうか」と、つらつらと並べられた言葉に、夏目は首を横へと振った。違うのだと。「夏目殿に何か尽くせば、返していただけるのでしょうか」 違うのだ、今が駄目なだけなのだと、その無言の言葉が、怪に通じる訳もない。
「それならば、その童の記憶、お見せいたしましょうか」
ころりと、大きな一つ目を怪は転がした。思わずと見つめた瞳の中に、いくつもの小さな夏目が合わせ鏡のように広がる。転げ落ちたように入り込む視界は、まるであれと同じようだと夏目は感じた。
怪へと、名前を返すあの瞬間。彼らの柔かな記憶へと、折り重なるような。
こぼれる記憶。
父が、消えた。
正確にいえば、きっと違うのかもしれない。父と母は、きちんとした話し合いの上で、父が家を出ることを決めた。わたしが知らないうちに、きちんとした調停人の元に話し合ったのだと母はそう話していた。
よく意味は分からなかったのだが、父は家を出るその数日前、彼女の体を抱きしめ、「お父さんはずっとお前のお父さんだから、体育祭には行かせてくれな、お誕生日は、きちんとお祝いさせてくれな」と初めて涙を見せながら、そう呟いた。それから父はいなくなった。
母の姿を見ることもなくなった。朝目が覚めれば、千円札がテーブルに置かれていて、初めは置かれていた小さなメモの言葉が、ほんの少しずつ短くなり、いつしかなくなっていた。
気づけば、字が上手くなっていた。お母さんのサインを貰ってきてねと言われたそれに、母はどんな文字を書いたのだろうかと、一つ一つ思い出し、丁寧に書くうちに、わたしはまるで大人のような文字を書けるようになっていて、さん凄いね、私お母さんにサインを貰ってくるのを忘れちゃったから、さん書いてくれないかなと頼むクラスメートが、ほんの少し不思議だった。
お家に、サンタさんはやってきたかな。先生が言った。わたしの家には、こなかった。サンタさんが、誰なのかは、もう知っていた。先生の声に、みんなが嬉しそうに手をあげて、自分一人が机を見つめたままなことが恥ずかしくて、恥ずかしくて仕方がなかった。
さんの家にはサンタさんが来ないの? 貧乏なんだねと呟く隣の席の女の子に、違うよと首を振った。来たよ、サンタ、やって来たよ。手を、あげ忘れてただけなんだよ。嘘をついた。へぇ、一体何を貰ったの。くまだよ、大きなくまのぬいぐるみ。また嘘をついた。
先生が、にっこりと笑いながら、作文用紙をみんなに配った。わたしは作文が得意だから、ほんのすこし嬉しくて、先生の言葉を聞いた「お父さんとお母さんのことを書きましょう。今度の参観日、それをみんなのご両親の前で読んでもらうからね」
嬉しそうな先生の声がほんの少し遠くて、わたしは作文用紙を見つめながら、鉛筆を握りしめ、机をじっと見つめていた。カリカリと音がする。右を見た。女の子が、ううんと首を抱えながら、それでも鉛筆を動かしていた。左を見た。男の子が、面倒くさそうに、それでも鉛筆を動かしていた。
息が震えた。体が揺れた。わたしだけだった。わたしだけが、何もすることができずに、あたふたを顔を動かしているのだ。ぐにゃりと歪んだような世界に、先生がこっちを見ているような気がする。鉛筆を握りしめる。どうしよう、どうしようと繰り返して、ほんの少しでだしを書いた。「おかあさん、大好きです。」
たったそれだけの言葉が作文の中に埋まっていて、真っ白な紙が、とてもとても恥ずかしかった。大好きです。続きを、何を書けばいいんだろう。分からない。どうしよう、わからない。分からない。みんなは何を書いているんだろう、どうしよう。「さん」先生が、にっこりとわたしへと近づく。
「お母さん、お父さんがいつもしてくれているような、感謝の気持ちを素直に書けばいいんだよ」
簡単でしょう。とでもいうような先生に、わたしは頷いた。分かりませんだなんて言えなかった。先生が見ている。その先生に話しかけられるわたしを、クラスのみんなが見ているような気がする。恥ずかしい。恥ずかしい。しんでしまいたいくらいに、恥ずかしい。いやだ、恥ずかしい。
「おかあさん、だいすきです。いつもご飯をありがとう。いつも朝起こしてくれてありがとう。いつも洗たくしてくれてありがとう。おかあさんのおかげで、私は毎日げんきです、ありがとう」
嘘のようなセリフを紙に書いて、みんなの前に立って、私はゆっくりと声を出した。ぱちぱちぱち。静かな拍手に、いい授業参観ね、感動したわというような、みんなのお母さんの声が聞こえた。子どもたちの素直な気持ちが伝わってくるもの。
耳が、真っ赤になりそうだった。
みんなのお母さんたちが話し合う廊下を、私は駆け抜けた。
うそばっかりだ。私はうそばっかりだ。何故だか涙が出た。口がぐにゃりと歪んだ。鼻水を服の袖でぬぐって、唇をかんだ。手のひらでぬぐうと、顔がかさかさとして、気持ち悪い。うそだ。うそつきばっかりだ。
ひいひいと、泣きじゃくりながら、わたしはうそつきですと叫んでしまいたかった。けれどもそんなことも恥ずかしくて、小さく小さく座り込んだ。悔しかった。よくわからないけれど、悔しかった。なんでわたしばっかりと思った。悔しかった。
みんなは当たり前のようにニコニコと笑っていて、幸せそうで、なんでわたしばっかりと叫ぶセリフはただ虚しくなるだけだ。
ただ一度、ただ一度だけでよかった。
母の手をつかんだ。たまたま通りがかった、アイスキャンデーのお店へと、欲しいとわたしは駄々をこねた。母はほんの少し面倒くさそうに財布からお金を取り出して、買ってきなさいといった。一緒に買いたかった。一緒に食べたかった。
けれども何をいうこともできなくて、ぐ、と唇をかんで、母はいつもどこか遠いところを見つめていることが、悔しかった。
おかあさん、おばけがいるよ。
ただなんともなしに呟いたセリフに、母はふとこちらを振り返り、あらそう、と短く言葉を吐きだした。けれども、そうねおばけね、とふと、口元が笑っていることに気づいた。
ただ一度だけ、母はこちらを見た。
うそつきだ。わたしは。
けれどもそんな嘘で、母はこちらを見た。ほんの少し、おかしそうに笑った。嘘つきなのに笑った。誰かにこっちを見てほしかった。
お向かいの家に、お兄さんが増えた。いつの間にか見たことのない、ひょろりとした、白い肌の色をしたお兄さんだった。「お兄さんにおばけがついているよ」と呟いた言葉に、お兄さんは、きょとりと瞳をこじ開けて、「そう」と優しく笑った。頭をなでた。
お兄さんは、夏目といった。アイスキャンデーをくれた。へんなぶさいくなニャンコをつれていた。手を握ってくれた。やさしかった。こっちへおいでと言ってくれた。うれしかった。うれしかった。とてもうれしかった。
構ってほしくて、嘘をついた。何度もついた。わたしは夏目に嘘をいっているような、本当にだめで、恥ずかしくて、嫌われてしまうような子だけれども、夏目は、ずっとずっと優しかった。うそつきでごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい。大好きです。大好きだから、(きらわないで)
「夏目ぇ」
消え入りそうな言葉で、は夏目の服の裾へと顔をはりつけた。ぼろぼろと零れた涙が、夏目のシャツへと、ニャンコ先生の毛並みへとくっつき、ぱさぱさとした。ごめんなさい、と聞こえる彼女の声を抑えるように、夏目はの背に、手を当てた。ほんの少し、涙が出そうになった。
どこの子どもも、結局は、同じなのだ。嫌わないでくれと肩を震わせる少女が、小さな自分と、ぼんやりと重なった。瞼をこすり、せりあがる何かを抑えつけるように、夏目は息を吐いた。(なんで) なんで、そんな、(なんで)
「悲しいことを、いうんだ」
撫でた彼女の頭に、額を押しつけ、とんとんと優しく背中を叩く。「おれは、嫌わないよ。ちゃんのことを、嫌うわけないじゃないか」 なんでこんな、小さな子どもが、悲しいことをいわなければならないのだ。
自分は、昔、どんな言葉を欲していたのだろうか。
辛い気持ちは覚えている。誰かに理解してもらいたいと、そう望んでいたことも覚えていた。けれども、肝心の言葉が出ることはない。あんなに、小さなころはあんなに必要としていたはずなのに。誰かをずっとずっと求めていたはずなのに。
(なんでこんな簡単に、消えてしまうんだろう)
同じじゃないか。元は同じだったはずじゃないか。それなのに、夏目とは、こんなにも違う。気づいてやれたら、小さな子どもは、寂しい思いをすることはなかったのだろうか。(どんな)
一体自分は昔、何を望んでいたのだろう。
小さな体を抱きしめながら、夏目はぽつりと呟いた。ほんの少しの気恥しさを誤魔化すように、彼女の頭をなでた。やっぱり、彼は困ったように笑って、言った。「友達になろう」
一緒に遊ぼう。俺はしたことはないけれど、カンケリをしよう。鬼ごっこをしよう。かくれんぼをしよう。いっぱいしよう。遊ぼう。「友達に、なろう」 だから、お願いだから。こんな小さな子が。お願いだから、「寂しがらないで」
呟いた言葉はすりきれるように、どこかかすれていて、けれどもしっかりとの耳へと響いた。ほんの少しの間に、うん、と、少女が小さく首を縦に振った。
一匹の猫が、苦しそうに珍妙な声をあげる。「ぐにゃあ」
蝉の音が聞こえた。
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2009/01/23
1000のお題 【226 迷える子羊】