……なぜ、こんなことに? 持参した水筒の蓋を開けて、焦点が合わないままにぐびぐびと喉を鳴らす。いや、この状況を選んだのは私自身なんだけど! 新幹線内でのわいわいとした賑やかさとは反比例し、私の首筋からは冷や汗が止まらない。飲んだ水分が、全部ここから流れ出ているんじゃないかと思うほどだ。「あ、あの、ウチくんのお母さん!」 いちか、ばちか。「私、これから別行動を ウチくんのお母さんたちは、私の保護者代わりとして、私がついていくことを許してくれたのだ。だというのに、行くところまでを許していただければ、それじゃあさよなら、なんて恩知らずなことは言えない。はー、と重たいため息が口からあふれる。どうしよう。え、? なんで来たんだ? と眉をひそめるウチくんを想像して一人で苦しくなった。辛い。 一体あとどれくらいで着くのだろう。一日目は団体戦での戦いだ。「どうなりますかね、できることなら最後まで行ってほしいですけど」「でもIHですよ。IH。それをねえ、うん。出場だけでもすごいのに」「もうほんとに!」 なんて、親御さん同士の明るい声色が座席から響いている。ところで、「開始時間っていつからでしたっけ」 誰が呟いた声なのかわからない。みんなきょとんとして、近くに座る家族に目を向けた。それからおヒゲの校長先生へ。受験する予定の校長先生との初対面が新幹線とは、めったにない状況すぎる、とこれまた私の心臓がびくびくしてくる。「ふむ……」 先生は静かに口ひげをなでた。それから抱えたカバンの中から、何やら資料を取り出し、黒縁のメガネの端を持ち上げる。「ふむふむ」 腕時計を確認する。「この新幹線の到着時間が……」 ちょっと声がもにょもにょして聞こえない。そして、小さな声で。「間違え、ましたね……」 え、なにが? と思わず全員が瞬いた。 「到着時間から考えても、開場の時間に、まったくもって間に合いませんね。時間を、間違えたようです」 がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん……。 悲しいくらいに、新幹線が揺れる音が響いていた。 *** 「大丈夫です! 間に合います! 顧問の池田くんによると、幕ノ鎌は勝ち進んでますよー!!」 「ほんとですかせんせぇー!?」 「だいじょうぶでーす!!」 この天候の中、全力疾走。照りつける太陽が脳天を直撃する。どれだけ頑張っても到着時間は決勝戦、ぜひぜひ汗だくで走る団体は、ちょっと異様だ。校長先生なんてスーツ姿に革靴だから、走るのにもつらそうだ。走っては休み、歩いては走り。体力的になかなか辛いお年頃の面々である。私なんて人よりもコンパスが足りないから、とにかく必死に走った。「ちゃん、大丈夫?」「だ、だいじょうぶ、ですっ!」 息も絶え絶えであるけど。ちなみに顧問の先生、と言われると以前こっそり幕ノ鎌に侵入していたとき発見されてしまった、嫌な思い出があるため思い出すと別に意味で心臓が痛くなってきた。 テニスコートが、どんどん近くなる。これだけ近くで見るのは初めてだ。心臓がどくどくと音をたてた。どうしよう。ウチくんがいる。どうしよう。気合を入れて、一歩進んだ。それから息を吸い込んで、「あ、う、あ……やっぱりむりー!!」「えッ!?」「ウチくんのお母さん、端っこで、私端っこで見ます! 私のこと絶対にウチくんに言わないでください、端っこにいます!!」「ちゃーん!?」 逃げた。 口から荒い息が漏れた。ギリギリのところで引き返して、ウチくんや民夫くんたち、校長先生や他のご家族は彼らのすぐ近くのベンチに座って応援をしているようだけれど、私はそれよりもずっと遠く、何段も高い場所でこそこそと帽子を深くかぶりながら様子を伺う。心臓が痛い。 こんなところまでやってきて、私は何をしているんだろう。新幹線の中でも、何度も思った。いつもの試合のペースなら、民夫くんとウチくんのダブルスから始まる。もうすぐだ。決勝まで勝ち進んでるみたいです、と池田さん、と言う顧問の先生からの電話に、校長先生は歓喜の声をあげていた。みんなも、わっと言葉を跳ね上がらせて、必死で走った。 つまり、一番テニスで強い高校が、これで決まる。 ウチくんだけじゃない。みんなに頑張ってほしい。両手をあわせて、深呼吸を繰り返し、荒れた息を整える。 最初に出たのはウチくんじゃない。たしかあれは、伊出さん、という人と宮本さん、という人だ。「う、ウチくんじゃないの?」 どういうことだろう。聞きに行こうか、と立ち上がって、その勇気がなくてここにいることを思い出した。試合が進んでいく。幕ノ鎌が勝ったことは嬉しい。でも、ウチくんじゃなかった。いや、これは団体戦なのだから、誰が出たっておかしくない。そっか、と膝の上で両方の拳を握った。暑い。 二試合目も知っている。すごく強い人だ。前にもIHに出場していた。でもその人は負けてしまった。1勝1敗。次で決まってしまう。次の試合の人が呼ばれた。「ウチくん……!?」 びっくりして立ち上がった。 ウチくんだった。 ずっとダブルスだったのに、最後の最後でウチくんになってしまった。つまり、これは、ウチくんが勝てば、幕ノ鎌が勝利する。ウチくんが負ければ、その反対。見ているだけで心臓が痛くなる。どうしよう、とふらついた。今から駆け下りて、一番近くで応援したい。どうしよう。行こうか、行かないか。ぐるぐるする。そうしている間に、どんどん試合が進んでいく。一方的だ。ウチくんが負けている。いつものウチくんじゃない。当たり前だ。相手も強い。場所も違う。最後の大会で、ウチくんで全部が決まってしまう。 「…………なんで、私、ここにいるんだろ……」 何回も考えた言葉が、ぽつんと漏れた。 本当に、心の底から。 ほとほとと首元から汗がこぼれた。盛り上がる声援が、身体を突き抜ける。私がここに来た理由は、私が一番知っているはずなのに。「ウチくん」 小さなボールが、遠くではねて、こぼれていく。「ウチくん」 三年間。三年間だ。ずっとおいかけて、ここまで来た。産まれたときから、彼はずっと近くにいた。「ウチくん もしかしたら、初めてかもしれない。 初めて、堂々と応援できた。喉の奥が痛い。「がんばれ、がんばれ、がんばれ!」 声なんて聞こえているわけがない。割れるような声援にかき消されていく。どれだけ必死に大きな声を出したとしても、私なんてこの程度だ。「ウチくん、がんばれ!!!!」 それでも、喉が痛いくらいに叫んだ。ぼろぼろと涙がこぼれた。鼻水も流れていたかもしれない。近くに座っている人が、何事かと驚いていたような気がするけど、知るものか。 「ウチくん、がんばって!!!!」 私なんかの言葉で、何が変わるわけがない。 なんてったって、この三年間はウチくんのものだ。彼が頑張ってきたから、ここにいる。結果がある。 なのに、気の所為だろうか。 ふと、ほんの一瞬。 ウチくんと、瞳が合わさったような。 そんな気が。 ← TOP → 2018/09/05 |